イギリスの詩人。バイロン、シェリーと並んでロマン派を代表する。貸馬車業者の馬屋に勤める馬丁長を父として10月31日ロンドンに生まれた。8歳で父に、14歳で母に死別し、早くから不幸な生活を味わう。最初、医師の徒弟となり、のち医学生として病院に学び、薬剤師の資格まで手に入れたが、しだいに詩作に興味を覚えるようになる。
1817年、処女詩集『ジョン・キーツ詩集』を発表したが、反響は乏しく、翌年、月の女神が羊飼いの美青年エンディミオンに恋して彼を独占するため永遠に眠らせておいたというギリシア神話に想を得て、長編物語詩『エンディミオン』4巻(4060行)を重ねて世に問うたが、世評は芳しいとはいえなかった。同年、ファニー・ブローンという女性と激しい恋に落ちたが、それは幸福な恋愛ではなかった。また最愛の弟トムを肺結核で失うといった事情も重なって、18年から19年にかけてのキーツは暗澹(あんたん)たる思いに沈むことが多かった。にもかかわらず、そのような思いが彼の作品に一段と深みを加えるに至ったことも事実である。19年は彼の「驚異の1年」といわれて、数編の物語詩、バラッド(民謡風物語詩)、オード(頌詩(しょうし))などの傑作を次々に生み出した。これらの秀作の多くを収めて翌年公にした『レイミア、イザベラ、聖女アグネス祭の前夜、その他の詩集』は、イギリスのロマン派詩人の作品中、一つの頂点を形づくるものである。しかし、彼から弟を奪ったのと同じ病が、すでに彼自身をもむしばみ始めていた。医師の意見によれば、生存の唯一のチャンスは温暖なイタリアに転地することであり、友人たちの好意によって、20年9月にイギリスをあとにし、11月にはイタリアに到着したが、病はついにあらたまって、21年2月23日の夜ローマの宿舎で25年の生涯を閉じ、同地のイギリス人墓地に埋葬された。墓には、生前の希望により、「水の上にその名を誌(しる)されたる者ここに横たわる」という句が刻まれている。
未完に終わった作品中注目すべきものに、ギリシア神話に基づいた物語詩『ハイピリオン』およびその改作『ハイピリオンの没落』がある。とくに後者は、キーツの思想的な到達点を暗示するもので、もし完成されていたならば彼の代表作になっていたかもしれない。さらに、この詩人を理解するために逸することができないのは、その『書簡集』(1848、没後刊)である。事件や人物の生き生きとした描写がみられるばかりでなく、断片的ながらきわめて示唆に富んだ詩論を多く含んでいて、19世紀イギリスの文学思想の重要な一面を示している。
[御輿員三]
『ブランデン著、菊地亘訳『英米文学ハンドブック キーツ』(1956・研究社出版)』
イギリス・ロマン派後期の詩人。ロンドンの貸馬車屋の子に生まれ,若くして父母を失い,15歳で医者の徒弟になる。バイロンやシェリーとは異なり,社会的に低い階層に生まれ若くして社会に出たことは,彼に実人生の厳しさを教えることになる。10代半ばころからE.スペンサーやJ.H.L.ハントなどを読み,その影響のもとに自らも詩作を始める。ペトラルカ形式のソネット《チャップマン訳ホメロスを初めて読みて》は20歳の時の傑作で,新古典主義の文体で書かれたポープ訳ホメロスが一般的であった時代にあって,17世紀初頭に書かれたG.チャップマン訳に感動したキーツの感性は,まさにロマン派のそれであったと言える。これら初期の詩を集めた処女詩集が22歳で出るが,短詩が多く,偉大な詩人たらんとしたキーツは大作を書くことにとりつかれ,1817年《エンディミオン》を執筆する。その間にも彼はシェークスピアを耽読し,翌年1月にはソネット《リア王再読》を書き,初期の詩で追求した感覚美に満ちたスペンサー的ロマンスの世界との決別を表明する。そして同年夏のスコットランド旅行,処女詩集や《エンディミオン》に対する各誌の酷評,F.ブローンとの婚約,弟の死などを通してしだいに人生への洞察を深めていく。
こうして迎えた19年はキーツの〈驚異の年〉となる。中世趣味あふれる《聖アグネスの宵》,バラッド風《つれなき美女》,オード形式をとった《ギリシア古瓶の賦》《夜鶯への賦》《憂鬱の賦》《秋へ》などはいずれも最高傑作で,そこでは耽美的夢幻性と現実意識とが融合した形で結晶化している。また,真の芸術家の歩むべき道を模索した《ハイピアリオンの没落》も重要な作である。しかし同年秋からは胸の病が悪化の一途をたどり,加えて経済的困窮,F.ブローンとの婚約解消などが容赦なくキーツの心身をさいなみ,第二詩集が出版された20年には,医師から転地療養を命ぜられる。翌年2月ローマで死去。25歳。キーツは単に前時代のA.ポープやN.ボアローへの反発から中世的・ギリシア的・口承伝承的世界,すなわち非現実的な美の世界を創造したのではない。辛苦に満ちたこの世を〈魂形成の谷〉と呼び,現実の人生に立ち向かっていく姿勢を示している点(1819年4月書簡)からもわかる通り,彼の詩的世界には強烈な現実意識が織り込まれていて,両者の微妙な均衡の上にキーツの価値は存するのである。
彼は後にA.テニソンやラファエル前派の芸術家に多大な影響を与えた。日本へは明治になってさかんに紹介され,上田敏,平田禿木をはじめ多くの浪漫主義作家が翻訳の筆をとった。さらに思想面や詩形式でもその影響は濃く,島崎藤村は《ギリシア古瓶の賦》に触発されて《白磁花瓶賦》を著し,薄田泣菫はキーツのソネットをもとに〈絶句〉,オードをもとに〈賦〉という定型詩を発達させた。
執筆者:笠原 順路
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…リベラリストで議論家のハントは,1808年《エグザミナー》誌の編集長になると,議会の改革,民事・刑事法の改正などを論じたが,皇太子誹毀(ひき)のかどで2年間投獄された。彼は牢獄を〈詩人の部屋〉にして獄中から健筆をふるい,そのホイッグ党的な批評活動で青年層の熱い支持をうけ,J.キーツは〈ハント氏出獄の日のうた〉でその釈放を祝った。ジャーナリストの仕事は終生つづき,《インディケーター》(1819‐21),《コンパニオン》(1821)などの雑誌を編集し,演劇論も書いた。…
…この系譜の中からは,激変する社会の現実と自己の存在との乖離(かいり)を感じ,愛に満たされず何かを求め続け現実から逃避していく〈世紀病mal du siècle〉を病んだロマン派的魂の典型が浮かび上がる。 イギリスにおけるロマン主義は,1800年ころにワーズワースとコールリジを中心に提唱され,1810年から20年にかけてバイロン,シェリー,キーツ,あるいはブレークらの詩人の登場によって頂点を迎えた。個々の作家はロマン主義的な思想と主題とを豊かに展開しているとはいえ,ロマン派としての運動体を形成することはなかった。…
※「キーツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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