フランク王国のもっとも重要な地方官。ラテン語ではコメスcomes。その管轄領域がグラーフシャフトGrafschaft(コミタートゥスcomitatus)である。ふつう伯と訳される。フランクのグラーフ制度の起源はローマ末期のコメス・キウィタティスに求められる。これは都市(キウィタス)の防衛を任務とする軍隊指揮官であったが,民族大移動の混乱期に,ローマの地方行政組織である属州制度が崩壊した結果,行政的・司法的機能をも兼ねるようになった。メロビング朝の国王はこれを継承し,ただし重心を都市から農村に移すことにより,地方行政組織をつくり上げていったと思われる。グラーフははじめ国王が自由に任免できる官吏であったが,7世紀初頭に在地有力者でなければグラーフになりえないことが規定された結果,官僚的性格が薄れ,領主化の傾向が強まった。
カロリング朝の国王,とりわけカール大帝は,新たにフランク王国に組み込まれたライン以東の地域にもグラーフ制度の導入を推進するとともに,アウストラシア地域出身の国王の家臣層(ウァッシ・ドミニキ)をグラーフとして各地に送り込んで官僚化の再建をはかり,在地の有力者をグラーフに任命する場合にも,国王に家臣としてのレーン制的誠実義務を宣誓することを強制した。さらに定期的に巡察使を派遣して,グラーフの職務遂行を監督させた。だが,フランク王国の全域が,網の目のようにグラーフシャフトによって覆いつくされたと考えることはできない。グラーフシャフトの境界線はきわめて不明瞭であり,とりわけフランク王国の東部においては,グラーフは王領地ないし,国家の直轄領域を中心に,比較的狭い地域を実質的に支配しえたにすぎない。グラーフの任務はグラーフシャフト内の治安を維持し,関税その他の国家的収入を徴収し,巡回裁判を行って高級裁判権を行使することであった。さらに戦時の動員令が発令されたときには,管轄領域内の軍役義務負担者(原則としてすべての自由民が負うが,これには異論もある)を召集し,これを指揮して従軍する。グラーフの命令に違反する者には高額の罰金が課せられた。
ルートウィヒ1世(在位813-840)以後,フランク王権の弱体化に伴い,グラーフ制度はしだいに解体過程をたどる。まず教会領,修道院領にインムニテートが与えられた結果,グラーフの支配領域が著しく縮小し,またレーン制(封建制度)の発展によりレーン(封土)の世襲化が確立するに伴い,グラーフ職にも世襲化が浸透して,官職的性格が失われ,グラーフシャフト自体がレーンと同一視されて,相続・分割の対象となった。この結果,中世においては,グラーフはもはや官職の性格を失い,封建制的政治秩序のなかでの地位を示す称号に転化を遂げた。
執筆者:平城 照介
ドイツの詩人,小説家。バイエルンの生れ。父の早逝後パン職人となる。現状脱出を願い,発明家や詩人に憧れて家出,L.トルストイやクロポトキンの影響を受け,ミュンヘンでボヘミアン生活を送り,このころアナーキストのミューザムErich Mühsamらを知った。第1次大戦中は一兵士として反戦姿勢を貫き,罹病除隊。1918年バイエルン革命に参加し,反革命後逮捕,リルケらの尽力により釈放された。表現主義詩集《革命家たち》(1918)によって認められ,戦後は労働者演劇やルポルタージュ文学にも進み,郷土文学《バイエルンのデカメロン》(1928)で文名を高めた。33年に亡命。ナチスが彼を〈血と地〉文学に推したことに怒り自作の焚書を求めるなど,亡命中は反ファシズム活動に従事,戦後は帰国せずアメリカ国籍のまま死んだ。自伝《我々は捕虜だ》(1927),《外からの哄笑》(1966),小説《アントン・ジッティンガー》(1938),《没落の遺産》(1959)など作品多数。
執筆者:保坂 一夫
オランダの医師,解剖学者。1660年代,ライデン大学ではF.シルビウス,ホールネJ.van Horne(1621-70)らの下で動物の生体解剖に基づく生理学実験がさかんに行われており,グラーフは,J.スワンメルダム,N.ステノらとともにこれに参加。《膵液の性質と利用に関する医学研究》(1664)では消化液研究の新しいテクニックを開発,紹介した。また《雌性生殖器研究》(1672)ではグラーフ濾胞Graafien follicleを卵細胞と誤認して紹介,卵原説,精原説論争に物的根拠を提供した。なおA.vanレーウェンフックをローヤル・ソサエティに紹介したのはグラーフであったと伝えられている。
執筆者:月沢 美代子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
オランダの医師、解剖学者。ショーンホーベンSchoonhovenで生まれ、ユトレヒト、ライデンで医学を学び、デルフトで開業した。1664年に膵液(すいえき)の研究を発表、翌1665年学位を得た。この研究により、19世紀のフランスの生理学者C・ベルナールから実験生理学の創始者として高く評価された。大学の職を提示されたが断り、個人で研究した。「グラーフ濾胞(ろほう)」によりその名を知られているとおり、ヒトを含む多くの哺乳(ほにゅう)類の卵巣を解剖し、現在でもそのまま通用する詳細な図版をかいた。また、ウシの交尾前後、ウサギの妊娠全過程の卵巣の形態学的変化を観察し、生理機能を推論した。卵巣の黄体が分泌機能をもつという議論などは、その後1900年ごろになって初めて確認された現象である。濾胞全体を卵だと誤認はしたが、哺乳類卵は1827年に初めて発見されたのである。現代生殖生物学の基礎を築いた人といえる。
[川島誠一郎]
イタリアの文芸評論家、詩人。大学教授としてトリノに住み、雑誌『イタリア文学史研究』を創刊し、その編集のかたわら、『レオパルディ論』(1898)、『18世紀イタリアにおけるイギリス賛美』(1911)など、作家論や文化論を著した。初めは実証的な唯物論にたっていたが、晩年には逆にキリスト教の信仰に依拠した。揺れ動く精神の苦悩のなかで数々の詩集を残した。代表作は『メドゥサ』(1880)。それゆえ、改宗を基軸に歴史小説を書いたロマン主義の大作家マンゾーニを再評価した。その意義は大きい。
[山本まゆみ]
スイスのフルート奏者。チューリヒ生まれ。同地でアンドレ・ジョネ、パリ音楽院でマルセル・モイーズに師事、1953年ミュンヘン国際コンクールで第1位となり、独奏者として活動するようになる。74年(昭和49)初来日し、的確な様式感覚に根ざした知的な演奏を聞かせ、オーレル・ニコレに次ぐスイスの名手であることを示した。華やかさはないが、その演奏は清らかで自然な感興にあふれ、玄人(くろうと)受けのする高い技術水準を誇っている。
[岩井宏之]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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…F.シルビウスは唾液の役割に注目し,また化学の目で消化を見ることを強調した。その門からでたR.deグラーフは,膵液の意義を論じた(1664)。ブルンナーJohann Conrad Brunner(1653‐1727)はイヌの膵臓摘出実験を行い(1682),また十二指腸腺を発見した(1687)。…
…
[行政組織]
ここでも南北ガリアは対照的である。フランク王国の行政組織の根幹は,伯(グラーフ)制度であるが,南部ではキウィタス制度が存続していたので,フランク王国の代官としての伯(南部ではコメスと呼ばれ,多く在地のセナトル貴族層が任命された)が,キウィタスの行政,司法,軍事の大幅な権限をゆだねられたが,市民の自治組織も機能しつづけた。7世紀末以降,伯制度は崩れ,コメスは消滅するが,存続した場合にも都市司教の支配下に入るようになって,王権に対しキウィタスの独立性が強化された。…
…フランク帝国および神聖ローマ帝国の重要な地方高官マルクグラーフの訳語。主として辺境防衛の任にあたる。…
…ところで,この領主権力は完全に自然発生的な独立の権力であり,それら相互の間にはさしあたりはなんらの秩序も存在せず,この状態をそのまま放置すれば社会は無政府状態に陥らざるをえない。のみならず,元来は国王の役人であったグラーフその他もやがて領主化し,国王に対して独立していった。カロリング朝が封建政策(レーン政策)を積極的に推進し,独立的な領主たちの間に封建主従関係を設定することによって,ともかくなんらかの権力秩序をつくり出すことに努めたのはそのためである。…
※「グラーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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