フランス東部,アルザス地方の中心地で,バ・ラン県の県都。人口26万3682(1999)。ドイツ語ではシュトラスブルクStrassburg。ドイツ国境より約3kmのイル川沿いに位置する。ライン川とローヌ川,マルヌ川を結ぶ運河の合流点で,大河港をもち,道路・鉄道交通の要衝である。中世にはケルン,マインツと並んでライン三大都市の一つに数えられた。アルザスの工業中心地の一つで,機械・電気・食料品工業,ビール醸造業,製紙,精油,火力発電,水力発電などが盛ん。また行政と文化の中心(ストラスブール大学,オペラ,音楽祭など)で,国際見本市,大聖堂(ストラスブール大聖堂)などがあり,観光の中心でもある。旧市街には,ローアンのシャトー(18世紀初め)など数多くの古い建物が残り,〈小さなフランス〉と呼ばれる一郭は絵のように美しい。オランジュリー公園のそばには,フランスとドイツの和解の象徴ともいうべき,1950年に設立されたヨーロッパ議会がある。また,イタリア,フランドル,オランダの絵画を中心に収蔵する美術館のほか,装飾美術館,近代美術館,考古学博物館なども知られる。
ストラスブールはローマ軍の駐屯地の一つでアルゲントラトゥムArgentoratumと呼ばれていた。855年以後,神聖ローマ帝国に属した。グーテンベルクは1434年から47年にかけてストラスブールに住み,印刷術を創始した。1681年にフランスに併合され,87年にボーバンによって城砦が建設された。ゲーテとメッテルニヒはここの大学で学んでいる。1792年にルジェ・ド・リールが〈ライン軍軍歌〉(《ラ・マルセイエーズ》,現,国歌)を歌った最初の地でもある。1870年普仏戦争でドイツ軍に占領されてライヒスラントの役所がおかれ,1918年までドイツ領。第2次大戦中,芸術的価値の高く古い中心部を除いて損害を受けたが,44年ルクレール将軍によって解放された。
ストラスブールは14世紀の城壁の中に人口8万(1860)を収容していた。都市を取り囲む沼地のため,城外に発展できなかったからである。1871年から1914年にかけて都市周辺の沼地が埋め立てられ,ドイツ風の都市が建設された。しかし,都市の成長は農業が行われるレス(黄土)丘陵上で止まり,線状のアグロメレーション(人口集積地域)は東西10km,南北25kmに及んでいる。中世の港がイル川にあったストラスブールは,ライン川の島々を利用してラインの港を造った。一方,河川の改修工事によって航行はストラスブールまでさかのぼることができるようになった。ストラスブール港は1924年に自治港となっている。港全体は南北約10kmにわたって続いている。ストラスブールは長い間河川航行の終点で,下流から到着しスイスやロレーヌに達する穀物,鉱石,石炭の集散地であった。北方へ向かう鉄鉱石,ロレーヌの製鉄製品とオー・ラン県のカリ塩の集散地でもある。しかし,アルザス大運河が完成し,河川航行の終点もバーゼルまでさかのぼり,ストラスブールの役割は一部奪われた。
執筆者:大嶽 幸彦
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フランス北東部、アルザス地方の中心都市で、バ・ラン県の県都。ドイツ名シュトラスブルクStraßburg。人口26万4115(1999)、27万7270(2015センサス)。フランス東部では最大の都市圏をもつ。パリの東457キロメートル、ドイツとの国境に近く、ライン川の支流イル川沿いに位置する。19世紀初頭には人口約5万であったが、ドイツに併合された時期(1871~1918)に急増し、両次世界大戦中は人口停滞、第二次世界大戦後、郊外で増加した。アルザス工業の中心地の一つで、機械、電気、食料品、ビール醸造、製紙、精油、火力発電、水力発電などの工業が行われる。ライン川、マルヌ川、ローヌ川を結ぶ運河が町の東で交わり、生産物は大河港から積み出される。荷扱い量は年間約1500万トンに及び、カリ、建設資材、穀物、精油の輸出がおもである。行政機能を有するほか、ストラスブール大学やオペラ劇場の存在、音楽祭の開催など文化的機能もある。また国際見本市の開催地で、ストラスブール大聖堂があり、観光の中心地ともなっている。旧市街には古い家が残り、とくに「小さなフランス」とよばれる一画は絵のように美しい。旧市街は1988年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。EU(ヨーロッパ連合)地域の中心付近という立地条件により、オランジュリー公園のそばにヨーロッパ議会が置かれている。
[大嶽幸彦]
イル川支流に囲まれた地域にローマ人が都市を築き、アルゲントラートゥムArgentoratumと名づけた。軍事的要衝として発展し、また4世紀なかばには司教座も置かれる。フン人によって破壊されたが、のちアラマン人が定住し、フランク王国の支配下に入った。フランク王国分裂後は神聖ローマ帝国に属し、司教の支配を受けていたが、1262年にはこれを脱して帝国直属都市となった。12、13世紀には商工業も繁栄し、また中世末期から16世紀にはドイツ人文主義の一大センターとなる。1522年には宗教改革が行われ、1538年に創設された神学校は著名な新教理論家を集めた。1681年、ルイ14世によりフランスに合併されたのちも国際都市の性格を維持したが、フランス革命後はフランス文化の影響が強まる。プロイセン・フランス戦争により1870年以降はドイツの支配を受け、第一次世界大戦後ふたたびフランスに帰属した。第二次世界大戦中はドイツ支配が復活したが、1944年にフランスが奪回した。
[江川 温]
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フランス,下ライン県の首都。ローマ軍陣地として建設され,水陸の運送商人ギルドにより交通の要衝として発達。アラマン領,フランク領,神聖ローマ帝国領ののち,1261年自由帝国都市。ルイ14世によりフランス領(1681年),プロイセン‐フランス戦争の結果ドイツ帝国領(1871年),1918年以来フランス領。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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