日本大百科全書(ニッポニカ) 「グレツキ」の意味・わかりやすい解説
グレツキ
ぐれつき
Henryk Mikołaj Górecki
(1933―2010)
ポーランドの作曲家。南ポーランドのチェルニツァに生まれる。ペンデレツキと並び、ポーランドを代表する作曲家。グレツキが生まれ育った時代は、第二次世界大戦中のナチによるポーランド人やユダヤ人虐殺の記憶が生々しかった。グレツキの故郷も長年彼が暮らしたカトビーツェも、アウシュウィッツからそう遠くないところにある。グレツキが作曲を志し勉強を始めたのは、かなり遅い年齢である。小学校の教員を経て、22歳のときにカトビーツェ国立音楽学校に入学、60年までボレスラフ・シャベルスキーBoleslaw Szabelski(1896―1979、カロル・シマノフスキーの弟子)に師事した。
ポーランドでは56年に「ワルシャワの秋」音楽祭が始まり、この音楽祭は、東欧諸国と西側を結ぶ数少ない文化的な窓口の一つとして、東西の前衛音楽の交流を可能にした。グレツキが音楽学校に在学中の58年に、『五つの楽器と弦楽四重奏のための協奏曲』がシロンスク・フィルハーモニーにより初演された。このコンサートでの成功をきっかけに、58年の「ワルシャワの秋」音楽祭より委嘱を受け、音楽祭で『墓碑銘』が初演された。また、59年には東西交流の新たな時代への期待を込めて「1959」という副題をつけた、弦楽オーケストラと打楽器のための『交響曲第1番 1959』を同音楽祭で発表。当時、国内の批評家から若手音楽家の筆頭と評価された。60年ソプラノと3楽器群のための『モノローグ』(改訂1962)で、ポーランド作曲家協会新進作曲家コンクール、翌61年『交響曲第1番 1959』によってパリ新進作曲家ビエンナーレで第1位。音楽学校卒業後はパリへ行くがまもなく帰国し、60年代から広く知られたペンデレツキのように世界的に注目を浴びることはなかった。国内で地道な活動を続けていたこの当時の作品には連作『生成』(1962)、3弦楽器のための『要素』(1962)、15奏者のための『楽器の歌』(1962)、ソプラノと金属打楽器と6コントラバスのための『ジェネシス第3番 モノドラマ』(1963)、金管楽器と弦楽オーケストラのための『古いポーランドの歌』(1969)、オーケストラのための『カンティクム・グラドゥム』(1969)などがある。68年以降はカトービツェ国立音楽学校で教鞭をとり、75年より同校の校長を務めたが、79年に健康上の理由などで退く。
50年代末ごろの作品は、ポスト・ウェーベルン風のセリー音楽であり、当初こうしたスタイルでグレツキは有名になった。しかし、グレツキの作品は60年代から点描的なスタイルを離れ、リゲティやペンデレツキと異なり、より単純化されたスタイルへと変化していった。70年代には、そのスタイルがより顕著なものとなる。
国内で地道に活動していたグレツキが、世界中で注目されるようになったのは80年代になってからである。交響曲第3番『嘆きの歌の交響曲』がイギリスのラジオで放送され反響を呼び、ポピュラー・ヒット・チャートにもランキングされた。この作品によりグレツキの名前は世界中に知られる。この交響曲第3番は、76年にカトビーツェで作曲されたもので、ソプラノが歌うテキストはいずれもポーランド女性の悲しみを綴(つづ)ったものである。第1楽章は、「聖十字架修道院の哀歌」として知られる15世紀の祈りの歌を、第2楽章は第二次世界大戦末期に囚われた18歳の女性が独房の壁に書いた祈りの言葉、第3楽章は戦いで息子を失った母親の悲しみを歌ったオポーレの民謡が使われており、カノンといくつかの連鎖した和音の反復をもとにした純化された作曲手法が、より一層深く、悲しみ、祈りを表現する。この作品は、77年フランスのロアイヤン音楽祭でエルネスト・ブールErnest Bour(1913―2001)指揮の南西ドイツ放送管弦楽団によって初演され、グレツキの妻に捧げられた。
90年代、世界的にグレツキの音楽が反響を呼んだ背景には、その生き方、ポーランドの歴史がもつ悲しみに対して人々が共感し、そして何より「前衛」の時代に行き詰まりを感じていた人々が、その純化された音楽により大きな感動を覚えたという状況があった。
[小沼純一]