コンスタンツ(現,ドイツ)で開かれた重要な公会議。1378年以後39年間カトリック教会はローマとアビニョンとに2人の教皇をもって分裂し,歴史上〈大離教(シスマ)〉と呼ばれる事態が続いた。それを終わらせようと1409年に招集されたピサ教会会議は,ローマのグレゴリウス12世とアビニョンのベネディクトゥス13世とをともに罷免し,新たにアレクサンデル5世を教皇に選んだが,2人の前教皇が罷免を承認しなかったので,かえって3人の教皇が鼎立する結果となった。この異常な事態を解決するために神聖ローマ皇帝ジギスムントの強い要請に基づき,アレクサンデル5世の後任教皇ヨハネス23世が14年11月5日に招集したのがコンスタンツ公会議で,18年4月22日まで続いた。他の2人の教皇は欠席した。ヨハネス23世も15年3月20日夜会議をボイコットしてコンスタンツを去ったが,それはこの会議が決議に際し単純多数決によらず国民単位の票決方法を採ったために,同教皇にとって情勢が不利と判断されたためである。会議は招集者を失って困難に逢着したが,皇帝によって続行され,同年5月29日ヨハネス23世を廃位した。もう1人の教皇グレゴリウス12世は同年7月4日自立的退位を公会議に通告したが,残る教皇ベネディクトゥス13世は皇帝がみずから説得に当たったにもかかわらず退位を拒否したので,17年7月26日の会議で廃位を宣告された。公会議は新教皇にローマの名門出の枢機卿コロンナOddo Colonnaをマルティヌス5世として選んだ。それにより長期にわたった教会分裂は終わり,公会議は所期の主要目的を達成した。もっともベネディクトゥス13世は23年死亡するまでみずからペテロの正統な後継者たることを主張し続けた。
教会改革についても幾つかの決議が採択されたが,重要だったのはボヘミア宗教紛争の解決であった。その中心人物フスは,皇帝の通行安全保証を得て,約30人の信者とともに14年11月公会議開催直前にコンスタンツに到着した。当初はなんの拘束も受けなかったが,反フス派聖職者の暗躍があり,彼はすでに破門され聖務停止下にあるにもかかわらず枢機卿に討論を要求したという口実で,皇帝が到着する前に逮捕され修道院に監禁された。公会議は15年5月4日フスの私淑するウィクリフの著書,45命題およびすでにオックスフォード大学で有罪とされた267命題を改めて排斥したうえで,6月5日フスを公開裁判にかけ,彼の反化体説的聖餐論,ウィクリフ信奉,高位聖職者批判を撤回するよう要求し,彼が拒否するや異端として断罪した。皇帝ジギスムントはこの裁判に臨席して弁護の発言をしながら,その効果なくフスは7月6日火刑に処された。彼の同僚プラハのヒエロニムスHieronymus Pragensisはオックスフォードに学びウィクリフをチェコに紹介した人物で,一度は危険を避けてカトリックの教義を認めたが,16年5月フスの無罪を主張してフスと同じ運命をたどった。しかしこの処置はボヘミアの反カトリック運動に油を注ぐ結果となった。
執筆者:今野 國雄
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…もっともこの時期には,まだコンコルダートという用語はなかった。それが最初に用いられたのは教会分裂を終結させるために開かれたコンスタンツ公会議中の1418年で,このとき新教皇のマルティヌス5世は,個々の国家と教会についての諸問題をコンコルダートによって解決した。 国家と教会の関係は,国家主権を確立しようとする近代国家にとって緊急の重要性をもっていたから,コンコルダートも中世よりも近代のほうがはるかに数多く締結された。…
…たびたびの軍事行動をも伴った双方の教皇たちのこの対立は各国の政治的利害が複雑に絡み合って深刻化し,これを解決しようとした1409年のピサ教会会議はアレクサンデル5世Alexander Vを新教皇に選んだ。しかし,かえって3人の教皇を鼎立(ていりつ)させる結果に終わって失敗し,ようやくコンスタンツ公会議による2教皇の廃位と1教皇の自主退位,新教皇マルティヌス5世Martinus Vの選出によって解決を見た。なお,東西関係ではアカキオスのシスマ(484‐519)やフォティオスのシスマ(858‐886)が著名であるが,1054年から現代まで続いている東方正教会とローマ教会とのシスマがとくに注目される。…
…そして,このようなローマ教会体制の動揺の中から,いくつかの宗教的な改革理念が生まれてきた。 第1は,教会大分裂の克服,教会統治の刷新をめざして開かれた,コンスタンツ公会議(1414‐18),バーゼル公会議(1431‐49)の両公会議に表現される,改革公会議運動である。これは,司教階層が中心となって,教会統治体制を,従来の教皇絶対主義から一種の立憲君主制に変えようとするものであり,15世紀中葉におけるガリカニスム(フランス国民教会主義)の成立が示すごとく,国王による中央集権化の努力とそれに伴う萌芽的なナショナリズムがこれと結びついていた。…
※「コンスタンツ公会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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