改訂新版 世界大百科事典 「コンプレクス」の意味・わかりやすい解説
コンプレクス
complex
コンプレクスという概念を精神病理学の用語としてはじめて用いたのは,S.フロイトの精神分析療法の端緒を開いたブロイアーJ.Breuerである(1895)。彼は〈観念複合体Ideenkomplex〉と称している。しかしながら,コンプレクスという言葉をもっとも強調したのは,ユングである。彼は言語連想テストにおいて,刺激語に対する被検者の反応時間の遅延,連想不能,不自然な連想内容が,彼のいう〈感情の込められた複合体gefühlsbetonter Komplex〉に由来することを明らかにした。例えば〈死〉という刺激語に異常な反応内容と反応時間の遅れとを示した人物が,父親に対して心の底で激しい攻撃感情を抱いており,それは父親の死を願うほどのものであったことがわかった場合のごときである。このさい心底の父への激しい攻撃感情が〈感情の込められた複合体(コンプレクス)〉である。つまりそれは,何らかの感情によって統合されている心的内容の集りである。ユングは,後に〈感情の込められた〉という形容詞を省略して,単にコンプレクスと呼ぶようになった。ユングによれば,病者,健康人の別なく何人もコンペレクスを抱いているものであり,意識的な場合もあれば無意識的な場合もある。しかし,ともに習慣的な意識の状態あるいは意識的な態度とは合致しない。コンプレクスは無意識化されればされるほど強力なものとなり,病理性を獲得してくる。ユングは,多重人格もコンプレクスの作動によるものとみなしており,部分人格とコンプレクスとはほとんど同義だとみなしている。このように,ユングのコンプレクスの概念ははなはだ広く,今日のわれわれが何事につけてもコンプレクスの名を冠するのは,ユング流にいえば必ずしも誤用とはいえない。宮城音弥は,コンプレクスすなわち〈心の中のシコリ〉(《岩波小辞典・心理学》)としているが,これは簡潔で巧みな定義といえる。
フロイトが見いだしたエディプス・コンプレクスと去勢コンプレクスとは有名だが,フロイトならびにそれ以後の精神分析者は,コンプレクスという名称を好まなくなった。フロイトは,コンプレクスとは理論的に満足できる概念ではないとし,いたずらに種々のコンプレクスを取り出すことは心理学的類型化に傾き,症例の特殊性を無視することになると考えた。こんにち正統精神分析学の中で広く使用されているのは,上記二つのコンプレクス概念のみである。なおアードラー学派は,劣等コンプレクスを重視する。
さまざまなコンプレクスは,通常子ども時代における葛藤状況から生じる。しかもこの幼時期葛藤状況においてもその後の観念表象においても,一定の布置と型とがくりかえし回帰してくるので,一定の名を冠した一連のコンプレクスがとり出されることになる。精神分析で用いられるコンプレクス概念には上記のもののほか,カイン・コンプレクス,エレクトラ・コンプレクス(女子におけるエディプス・コンプレクス),阿闍世コンプレクスなどがある。
執筆者:下坂 幸三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報