改訂新版 世界大百科事典 「コールリジ」の意味・わかりやすい解説
コールリジ
Samuel Taylor Coleridge
生没年:1772-1834
イギリスの詩人,批評家。ワーズワースとともにイギリス・ロマン主義文学の原動力となり,その神秘的・幻想的な詩の創作や,プラトニズムやドイツ観念論に基づく文学理論の確立でユニークな存在である。デボンシャーの村の牧師の14人兄弟の末子として生まれ,子供のころから夢みがちな感受性の強い子であった。クライスツ・ホスピタル校を経て,ケンブリッジ大学に入学。将来を嘱目されながらも,情緒不安定のため中退した。フランス革命を支持する急進主義にかぶれたり,1794年にはR.サウジーとともに北アメリカに〈理想平等社会pantisocracy〉の建設を夢みたが失敗した。95年にはワーズワースと出会い,文学的な友情を交わし,その成果は《抒情歌謡集》(1798)となって結実する。初版の巻頭を飾った《老水夫行》は,罪のない鳥を殺した水夫の贖罪と愛による魂の救済をテーマにしたバラッド形式の物語詩である。これは〈超自然詩〉の新ジャンルを開拓した。これに属する詩に,《クブラ・カーン》(1798執筆,1816刊)や《クリスタベル》(1797-1801執筆,1816刊)がある。前者は楽園の原型イメージをもつフビライの宮殿と庭を詩人が想像力で描いた幻想詩であり,後者は純真無垢なクリスタベルが魔性の女ジェラルディーンに誘惑される堕罪がテーマの未完の怪奇詩である。このほか注目すべきは,W.クーパーの詩風の流れを汲み,日常的な環境設定の中で自然な心の動きをとらえた〈会話体詩〉のくふうである。《菩提樹の木陰にて》(1798),《深夜の霜》(1798)は,このグループに属する詩である。
98年ウェッジウッド夫妻から生涯年金を得て生活が安定,翌年にかけてドイツ旅行をする。このとき詩人は,カント,シェリング,フィヒテなどのドイツ哲学や自然科学の研究を深め,のちの詩から哲学,宗教への転向の素地をつくった。帰国してケジックに移住するが,《老水夫行》の悪評,冷たい気候,リウマチの鎮痛剤アヘンの頻用,ワーズワースの義妹への恋,家庭不和で心身ともに消耗した。《失意の賦》(1802)がその産物である。《シビルの紙片》(1817)の詩集を最後に,詩人の関心は哲学,宗教,文学の評論に移ってゆく。週刊誌《フレンド》(1809-10)の創刊,とくに《文学的自叙伝》(1817)の公刊は,ロマン派文学理論のみならず近代批評の第一人者の地位を確保した。想像力imaginationを空想力fancyと区別し,その矛盾を調和合一する有機的なロマン主義詩の特質の解明で有名である。《シェークスピア講義》(1810-11)も,性格批評の伝統に想像力の新解釈と心理分析を加えて,フロイトや実存主義思想につながる洞察を示したものである。想像力論は,さらに宗教・政治問題と結びついて,《瞑想のための手引き》(1825)や《教会と国家》(1830)の論文に発展した。晩年はアヘン中毒を治癒してくれたギルマン医師の家に寄寓し生活破産者であったが,卓越した思想家,哲学者〈ハイゲートの賢者〉として,人々の尊敬を集めた。現代批評の先駆的な批評家として,また超現実の幻想詩人としてのコールリジの功績は偉大である。
執筆者:山内 久明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報