ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。本名はアレクセイ・マクシーモビチ・ペーシコフАлексей Максимович Пешков/Aleksey Maksimovich Peshkov。3月28日、ボルガ川上流の町ニジニー・ノブゴロド(旧ゴーリキー市)で、家具職人マクシム・ペーシコフと染物工場主カシーリンの娘ワルワーラの間に生まれる。幼時(3歳4か月)に父を失い、祖父の家に寄食。母は再婚したが、10歳のとき死亡。11歳になって、靴屋に奉公にやられたのを皮切りに、請負師の徒弟、ボルガ川航行の汽船の皿洗い、沖仲仕、聖像画房の筆洗い、パン焼き職人、駅の警備員、倉庫番、弁護士の書生、新聞記者など、さまざまな職業を転々とするが、苦労しながら独学に励む。
1884年、カザンでのパン焼き職人のころ、革命青年(ナロードニキ)サークルに接近するが、下層民の子、独学者とさげすまれ、孤独感からピストル自殺を図り、タタール人に助けられる。波瀾(はらん)に満ちた前半生の人生行路は、自伝三部作『幼年時代』(1913)、『人々の中で』(1918)、『私の大学』(1923)のなかに詳しい。
1892年、国内を放浪し、カフカスのチフリスに出て、鉄道工場に勤め、友人カリュジヌイの勧めで処女作『マカール・チュドラ』(1892)を書き、マクシム・ゴーリキーの筆名で『カフカス』紙に発表する。筆名は、父の名と「にがい、つらい」の意味の形容詞「ゴーリキー」からとった。1895年、作家コロレンコの世話でサマーラ新聞社に勤め、イエグジイル・フラミーダその他の筆名で、社会の不正をあばく時評『ついでながら』を書くかたわら、『チェルカッシ』(1895)、『イゼルギリ婆(ばあ)さん』(1895)、『鷹(たか)の歌』『あやまち』『汗とその息子』(ともに1895)などの短編を書き続けた。このころ、校正係エカチェリーナ・ボルジナと知り合い、1896年結婚。1898~1899年に、それまでに書きためた小説を『記録と短編』2巻にまとめて次々に刊行、一躍文名を高めた。1899年、ヤルタに病気療養中のチェーホフを訪ね、親交を結ぶ。翌1900年レフ・トルストイとも知り合う。このころのことは回想記『ア・ペ・チェーホフ』(1905)、『エリ・エヌ・トルストイ』(1919)に詳しい。
1899年、成り上がりの船主で専横な父と、その父の属する階級とに抵抗する反逆児の子を描く長編『フォマー・ゴルジェーエフ』を発表。ついで翌1900年、3人のプチブル出身者の三様の生き方を示す『三人』を発表、それまでのロマンチックな作風から時代を見つめるリアリズムに移る。同年、出版社「ズナーニエ」(知識)社をおこす。1901年、革命の嵐(あらし)の接近を予告する散文詩『海燕(うみつばめ)の歌』を発表し、発禁となるが、人々の口から口へ広く流布された。同年、戯曲『小市民』を発表、俗物根性をたたく労働者を初めて主人公にして世の注目をひいた。1902年、ロシア帝国科学アカデミー名誉会員に選ばれたが、ニコライ2世にその革命志向を嫌われ、勅命で取り消された。コロレンコ、チェーホフはこれに抗議して名誉会員を辞任した。同年、社会の底辺に生きる社会秩序の犠牲者たちを描く戯曲『どん底』を発表、上演、大きな反響をよんだ。ついで戯曲『別荘の人々』(1904)、『太陽の子ら』(1905)、『野蛮人』(1905)を発表した。1905年1月22日、冬宮前で、官憲の発砲で請願のデモ隊が多数死傷した「血の日曜日」事件を目撃、専制打倒を叫び、逮捕・投獄されるが、世界的な抗議で釈放。翌1906年、ボリシェビキ党の資金集めと帝制政府の借款妨害のために渡米。内妻の女優アンドレーエワを同伴したため物議を醸す。滞米中、戯曲『敵』を書く。同年、イタリアのカプリに移り住む。ここでプロレタリア革命家の母子を描く『母』(1907)を発表。1907年、ロンドンでの社会民主労働党大会に出席、レーニンと知り合う。この時期にボグダーノフらの影響で宗教哲学的な「建神主義」(ボゴストロイーチェリストボ)を唱え、中編『ざんげ』(1908)を発表、レーニンの批判を受ける。
1915年、雑誌『レトピシ』(年代記)に拠(よ)って反戦運動を呼びかける。1917年の革命に際しては都市と農村の対立を恐れ、人道上の立場から革命の暴走に抵抗、『新生活』紙で文化財擁護、民主戦線結成を訴え、党の行きすぎを批判し、そのため同誌は廃刊に追い込まれる。その後は階級的ヒューマニズムの色を鮮明にし、党と知識人を結ぶ掛け橋となって活動。1921年、肺結核療養のためイタリアのソレントに住み、19世紀末から革命まで3代にわたるブルジョア一家の歴史と織工一家の歴史を対置して描いた長編『アルタモーノフ家の事業』(1925)を発表。また、自己中心の知識人の自滅の生涯を40年間にわたって描く長編『クリム・サムギンの生涯』(1927~1936)を書き始める(未完)。1930年代には回想記『レーニン』、革命前のブルジョアの没落史を描く戯曲『エゴール・ブルィチョフとその他の人たち』(1932)、『ドスチガーエフとその他の人たち』(1933)、『ワッサ・ジェレズノーワ』(1935)を発表。1934年、ソ連作家同盟結成に尽力し、その第1回大会の議長を務める。1936年6月18日、モスクワ郊外ゴールキで死亡。
日本では1901年(明治34)に『帝国文学』誌12号にその名と作品が初めて紹介され、翌1902年『秋の一夜』(馬場孤蝶(こちょう)訳)、1905年『カインとアルチョム』(二葉亭四迷(しめい)訳)、1906年『ふさぎの虫』(四迷訳)、1907年『二狂人』(四迷訳)が紹介され、その風変わりな出身と第一次革命期の活動も手伝って評判を高めた。『どん底』は、1910年昇曙夢(のぼりしょむ)訳によって出版されたが、同年小山内薫(おさないかおる)の訳で『夜の宿』と改題されて『三田文学』誌に掲載され、自由劇場によって有楽座で上演されて以来、日本の新劇の重要な演目の一つとなっている。1930年(昭和5)改造社から全集が出た。大正期から昭和初期にかけての日本のプロレタリア文学に与えた影響は大きい。
[佐藤清郎]
『『ゴーリキー選集』全15巻(青木文庫)』▽『湯浅芳子・横田瑞穂訳『筑摩世界文学大系 52 ゴーリキー』(1973・筑摩書房)』▽『上田進・横田瑞穂訳・編『ゴーリキー短篇集』(岩波文庫)』▽『湯浅芳子訳『追憶』(岩波文庫)』▽『松本忠司編・訳『ゴーリキイ文芸書簡』全2巻(1973・光和堂)』▽『松本忠司著『ゴーリキイ研究1 作家への道』(1968・理想社)』▽『佐藤清郎著『ゴーリキーの生涯』(1973・筑摩書房)』
ロシア連邦ニジェゴロド州の州都ニジニー・ノブゴロドの1932~1991年までの名称。
[編集部]
ロシア・ソ連邦の小説家,劇作家,社会活動家。本名ペシコフAleksei Maksimovich Peshkov。ニジニ・ノブゴロド(1932-90年,ゴーリキー市と改称)に家具職人の子として生まれた。4歳で父を失い,祖父の家に身を寄せるが,まもなく一家は離散し,12歳のときの靴屋の小僧を皮切りに,請負師の徒弟,汽船の皿洗い,聖像画房の小使,パン職人,守衛,弁護士の書生と職を変えながら国内を放浪,カザンでは社会主義的知識人と知り合う一方,自殺未遂事件を起こす。その半生は自伝的三部作《幼年時代》(1914),《人々の中で》(1916),《私の大学》(1923)に詳しい。1892年チフリスで初めてマクシム・ゴーリキーのペンネームで《マカール・チュドラ》を《カフカス》紙に発表。サマラに出て新聞記者となり,時事評論のかたわら《チェルカシ》《イゼルギリ婆さん》(ともに1895)などの小説を書き始める。この地で結婚。98-99年にそれまでに書きためたロマンティックな短編を《記録と小説》と題して出版し,一躍流行作家となる。1901年に発表した嵐をたたえる散文詩《海燕の歌》は革命の狼煙(のろし)となり,同年の戯曲《小市民》で劇作家としても高い評判を得た。まもなく革命運動を支援したかどで逮捕され,L.トルストイらの抗議で釈放。このころから持病の肺結核が悪化し,療養の旅をつづける。02年科学アカデミー名誉会員に選ばれるが,革命運動とのかかわりのゆえに皇帝によって取り消される。チェーホフやコロレンコはこれに抗議して会員を辞任した。この年,戯曲《どん底》を発表,その上演を通して文名を内外に高めた。05年の革命に積極的に参加,逮捕されるが,国の内外の激しい抗議でまもなく釈放された。06年,党の資金集めのため渡米,その後も帰国を許されず,イタリアのカプリに住み,のちに社会主義リアリズムの手本と称せられる政治性の強い小説《母》(1907)を発表。一時期,思想的な動揺を覚え,宗教臭を帯びた小説《告白》(1908)を書き,レーニンの批判を受けた。13年大赦で帰国。十月革命ではボリシェビキを支援したが,その過激な革命方法に対して《新生活》紙上で強く抗議し,レーニンと対立,同紙は廃刊に追いこまれたが,革命期,国内戦期に文化人と文化財の擁護に奔走した功績は大きい。21年レーニンの勧めで結核療養のため外国に出,イタリアのソレントに住み,多くの回想記や小品を書く。28年いったん帰国するが,その後もイタリアと故国を往復。33年5月帰国。翌年スターリンの要請でソ連邦作家同盟結成に尽力,議長となる。36年病死(毒殺説もある)。
作風は,強い主人公による社会の不正・不条理の攻撃,人間の擁護をめざすロマンティシズムの濃い文学である。おもな作品としては,上記のほか商人階級の反逆児を描く《フォマー・ゴルデーエフ》(1899),回想記(トルストイ,チェーホフ,レーニン等),未完の大作《クリム・サムギンの生涯》(1926-36)等がある。日本では1902年の馬場孤蝶訳の《秋の一夜》が初訳。ついで05-07年に二葉亭四迷により3編の翻訳が出,しだいに知られるようになったが,本格的紹介は大正期に入ってからで,日本のプロレタリア文学への影響は大きい。戯曲の公演は1910年小山内薫の自由劇場による《夜の宿》(《どん底》)が初演。以来今日まで新劇の重要な演目の一つとなっている。
執筆者:佐藤 清郎
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1868~1936
ロシアの作家。貧しい家庭の出身で,放浪生活ののち,文学活動を始めた。革命運動にも加わり,1905年革命の前後に『どん底』『母』を書いた。十月革命を批判して長く国外に滞在したが,1933年帰国し,作家同盟結成を助けた。
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…人口143万3000(1993)。1932年作家M.ゴーリキーの出身地にちなみ,ゴーリキーと改称されたが,90年旧称の現名にもどった。モスクワの東約439km,ボルガ川とオカ川の合流点に位置する。…
…ロシアの劇場。正式名称は〈ゴーリキー記念国立レニングラード赤軍勲章アカデミー・ボリショイ・ドラマ劇場〉(通称レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場)であったが,1991年改称。一般にはBDT(ベーデーテー)という略称で親しまれている。…
…F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。そのうちでマルシャークは第一人者として,《12の月(森は生きている)》(1943)のような劇やたくさんの童謡を発表している。…
…同規約では,〈社会主義リアリズム〉とは,〈現実をその革命的発展において,真実に,歴史的具体性をもって描く〉方法であり,その際,〈現実の芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは,勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する課題と結びつかなければならない〉とされた。この定式は,1932年4月,文学団体再編成についての共産党中央委員会決議後,作家同盟準備委員会でのゴーリキー,ルナチャルスキー,キルポーチンValerii Yakovlevich Kirpotin(1898‐1980),ファジェーエフらの討論を経てまとめられたもので,討論の過程では,社会主義リアリズムとは,〈社会主義が現実化した時代のリアリズムである〉,〈19世紀ロシア文学の方法とされた“批判的リアリズム”が,現実の欠陥,矛盾をあばきながら,その批判を未来への明るい展望と結びつけられなかったのとは異なり,革命的に発展する現実そのものの中に未来社会への歴史的必然性を見いだす新しい質のリアリズムである〉,その意味でこれは〈革命的ロマンティシズムをも内包する〉と強調された。実作面でこの方法に道を開いた作品としては,ゴーリキーの諸作品,とくに《母》(1906),ファジェーエフの《壊滅》(1927),N.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932‐34)などが挙げられた。…
…ロシアの作家ゴーリキー作の4幕の戯曲。1902年10月モスクワ芸術座によって上演され大成功を博し,続いてベルリンをはじめヨーロッパ各地で翻訳上演され,ゴーリキーの名は世界中に知られるようになった。…
…ゴーリキーの長編小説。1906年アメリカで第1部が,翌07年初めにイタリアのカプリ島で第2部が書かれた。…
…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…
…20世紀初頭のロシア革命の中で,ブルジョア文学に対立するものとしてその概念が明確化され,1905年レーニンは《党の組織と党の文学》で,〈プロレタリアートと公然と結びついた文学〉の必要を強調した。実作的にはゴーリキーの戯曲《敵》(1906),長編《母》(1907)がその草分けとされ,14年にはゴーリキー編で労働者作家の作品集も出る。D.ベードヌイの風刺,扇動詩も読者を獲得した。…
…この二人を除くと,文学史的にはロシアの劇作は,1作家1作品という形での作品群のつながりといってよいだろう。グリボエードフは《知恵の悲しみ》,レールモントフは《仮面舞踏会》,ゴーゴリは《検察官》,ツルゲーネフは《村のひと月》,L.トルストイは《闇の力》,ゴーリキーは《どん底》でそれぞれ記憶されている。これらの作家はみな他にも劇作品を書いてはいるが,演劇愛好者の目から見れば,それぞれ1作が記憶にとどまるだけであろう。…
※「ゴーリキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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