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サトー サトー Ernest Mason Satow

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デジタル大辞泉の解説

サトー(Ernest Mason Satow)

[1843~1929]英国の外交官。日本名、佐藤愛之助。号、薩道。文久2年(1862)英国領事館員として来日。パークス公使を助けて対日政策に貢献。明治28年(1895)公使として再び来日。日本・東洋研究家としても多くの業績を残した。著「一外交官の見た明治維新」など。

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百科事典マイペディアの解説

サトー

英国の外交官。ロンドン生れ。1861年日本領事部門の通訳生として英国外務省に入省。約4ヵ月の北京滞在を経て1862年横浜に来日。日本語を駆使する外交官の先駆者として倒幕勢と幅広く接触,情報を収集し駐日公使パークスの対日政策の樹立を助けた。
→関連項目アストン

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

サトー Satow, Sir Ernest Mason

1843-1929 イギリスの外交官。
1843年6月30日生まれ。文久2年(1862)横浜領事館員として来日。オールコック,パークス公使につかえる。「ジャパン-タイムズ」に匿名で発表した「英国策論」は倒幕派に影響をあたえた。のち駐日公使,駐清(しん)公使などを歴任。通算22年滞日。内妻武田兼との間に武田栄太郎・久吉の2子がいる。1929年8月26日死去。86歳。ロンドン出身。ユニバーシティー-カレッジ卒。日本名は佐藤愛之助。号は薩道。著作に「一外交官の見た明治維新」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

サトー【Ernest Mason Satow】

1843‐1929
イギリスの外交官。ロンドンに生まれ,ユニバーシティ・カレッジに学び,1861年8月,日本の領事部門に勤務する通訳生としてイギリス外務省に入省。その後約4ヵ月の北京滞在を経て,62年9月(文久2年8月)横浜着。生麦事件勃発の6日前であった。それから第1回の賜暇で帰国する69年2月(明治2年1月)までの経歴は,サトー自身の回想録《一外交官の見た明治維新A Diplomat in Japan》(1921)にくわしい。

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大辞林 第三版の解説

サトー【Ernest Mason Satow】

1843~1929) イギリスの外交官。日本名佐藤愛之助または薩道。1862年来日。倒幕勢力と広く接触をもち、パークス公使を助けて対日政策形成に貢献。1895年(明治28)駐日公使として再来日。著「一外交官の見た明治維新」「会話篇」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

サトー
さとー
Sir Ernest Mason Satow
(1843―1929)

幕末~明治期の駐日イギリス外交官で、日本文化研究の先駆者の一人。佐藤愛之助の日本名と薩道(サットー)の雅号をもつ。6月30日ロンドンに生まれる。ローレンス・オリファントの著書を読んで日本にあこがれをもち、ユニバーシティ・カレッジ卒業後、外務省通訳生となり、日本駐在を命じられ、1862年(文久2)着任。1866年(慶応2)外字新聞『ジャパン・タイムス』に匿名の論説English policy「英国策論」を発表、朝廷の下に幕府、諸雄藩の連合政権を樹立することが望ましいと論じた。この論説は、幕府を日本の責任政府とみなす従来の対日政策に修正を加えるもので、すでに前任公使オールコックがとりつつあった修正路線を継承したものである。その判断は、政局の不安、通商の阻害を招いている原因が、貿易の利益にあずかりたい諸藩の希望を封ずる幕府の貿易独占にあるとの見解に基づいていた。この論説によってサトーは、倒幕派の指導者たちに好感をもって迎えられ、やがて西郷吉之助(きちのすけ)(のちの西郷隆盛)や桂小五郎(かつらこごろう)(のちの木戸孝允)ら薩長の指導者と交流、倒幕を教唆するに至るが、新任公使パークスは黙認していた。1868年(明治1)書記官に任ぜられる。王政復古後は、明治新政府と密接な連絡を保ち、戊辰(ぼしん)戦争では列国に局外中立を要望する良策を助言した。1883年日本を去り、シャム、モロッコ駐在代表を経て、1895年日清(にっしん)戦争直後の日本に全権公使として赴任。極東でロシアの進出防止を図るイギリスの立場から日英提携に尽力、1900年(明治33)、駐清(しん)全権大使に転じたのちも、引き続き日英同盟締結に貢献した。この間日本、東洋に関する優れた研究業績をあげ、神道(しんとう)・仏教研究、イエズス会布教研究など、多数の論著で学位を取得、サーの称号を与えられたが、とくに『一外交官の見た明治維新』A Diplomat in Japan(1921・岩波文庫)は、幕末維新の政局変動を知るうえに貴重な記録である。1929年8月29日没。[田中時彦]

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世界大百科事典内のサトーの言及

【渡し】より

…例えば戸田渡し場では,〈御関所川渡場番所相勤候分〉として人足数が記載されており,また高札には〈女人手負其外不審成ものは,いづれの舟場にても留置,早々至江戸可申上候事〉など,関所機能をもっていることを実証づけている。またイギリスの外交官アーネスト・サトーは川崎の六郷川を渡るとき,〈われわれはがんこな渡し場の船頭にぶつかって手間取った〉と記している。このように近世の渡しは,幕藩体制を支える重要な政治政策の一つでもあった。…

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