スペイン北西部,ガリシア地方の都市。人口9万0188(2001)。中世ヨーロッパでは,エルサレムとローマに比肩するキリスト教三大巡礼地のひとつだった。ロマネスク様式の大聖堂をはじめ,36の修道院と46の教会があり,16世紀に創立された大学もある。サンチアゴはキリストの十二使徒の中の大ヤコブのスペイン語名。そしてコンポステラは一般にはラテン語campusstellae(星の原),また一説にはcompositum(墓場)に由来するといわれるが,はっきりしたことは不明。ただ今日の発掘調査によって,現在の大聖堂がローマ時代3世紀ころの墓の上に建っていることは確認されている。
サンチアゴ・デ・コンポステラ(以下サンチアゴと略記)は,中世キリスト教徒スペイン人の信仰から生まれ発展した。この信仰の起源についてはいくつか仮説があるものの,これまた決定的なものはまだない。伝承によれば,9世紀初頭,司教テオドミーロが明るい星に導かれてヤコブの墓を発見し,これがしだいに人々の信仰を集めていった。そして同じ頃かつての西ゴート王国の復興を目ざすアストゥリアス王アルフォンソ2世が,ヤコブの墓とされるものの上にこれを守る教会の建設を命じた。この信仰を支えるのは,ヤコブがイベリアに伝道し,エルサレムでの殉教後遺体が弟子たちの手でイベリアに運ばれて葬られたという伝説だが,これは文献の裏づけに乏しく史実とは認め難い。さしあたっては,初期アストゥリアス王国が置かれたほとんど絶望的な生存状況,当初の寛大策を捨てて厳しい対決姿勢を採り始めたアル・アンダルスのイスラム教徒からの圧力,784年にトレド大司教エリパンドゥスElipandus(718ころ-802ころ)の唱えたキリストを神の養子とする異端説が巻き起こした宗教論争,さらにはカール大帝による西ヨーロッパの政治統合などが交差する時代雰囲気がこの特異な信仰の誘因となったと考えられる。確かにこの時代,弱小で不安定なアストゥリアスは独自の教会組織をもってその王権を補強する必要に迫られていた。この意味で前述エリパンドゥスの異端説を論駁したリエバナのベアトゥスBeatus(ベアトBeato)(?-798)の文筆活動が墓の発見とほぼ時を同じくしたのは興味深く,あえて言うならヤコブ信仰は,新興アストゥリアス王国が必要としていた新しい教会の礎となるものだった。
10世紀までにこの新しい信仰はイベリア半島北部一帯に広まり,11世紀にはピレネー山脈を越えた。そしてこの頃から西ヨーロッパはもとより,遠く北ヨーロッパや東ヨーロッパからも貴賤を問わず多くの巡礼者がサンチアゴへの道をたどり始めた。国土回復戦争(レコンキスタ)が全面対決の段階を迎えてピレネー山脈以北の支援を必要としたキリスト教スペインの諸王は,巡礼を大いに歓迎してその保護や巡礼路の整備に努めた。最盛期の12世紀には年間の巡礼者数は50万ともいわれ,彼らのための〈案内書〉まで著された。巡礼でにぎわうサンチアゴの教会をアル・アンダルスの作家たちが自分たちの聖地メッカのカーバにたとえれば,ダンテはサンチアゴを目ざしてこそ真の巡礼と書いた。997年,アル・アンダルスの独裁者マンスールは,サンチアゴを破壊したが,ヤコブの墓にはあえて手を触れなかった。17世紀まで続くサンチアゴ巡礼は,ヨーロッパとイベリアを結ぶ太い動脈だった。
他方,11世紀以降のレコンキスタの現場ではヤコブはしだいに新たにキリスト教スペイン人の守護聖人とみなされるようになっていった。彼らは“サンチアゴ”と叫びながら敵軍に切り込み,苦戦に陥ると白馬にまたがって天から降ってイスラム教徒を撃つヤコブの勇姿を期待した。いわゆる〈イスラム教徒殺しのヤコブSantiago matamoros〉像の誕生である。こうしてヤコブ信仰はレコンキスタに聖戦的性格を付加し,同時にこれを15世紀末のグラナダ王国征服にまで推し進める最大のエネルギー源となった。
ヤコブ信仰はさらに政治思想にも作用を及ぼした。周知のように,キリストの十二使徒の中には聖書でキリストの兄弟と呼ばれ,キリストによく似ているといわれたもう一人のヤコブがいた。前述の大ヤコブと区別するために,こちらは小ヤコブと通称されるが,中世初期にあって両者は容易に混同された。その結果,大ヤコブは十二使徒の中で最もキリストに近い存在と見なされ,その墓があるサンチアゴはペテロが眠るローマと同格ないしはこれをしのぐという考えが生まれたらしい。事実,10世紀後半にはサンチアゴはローマにならって〈使徒の座〉を称し,その司教は12世紀までローマの司教にだけ許されるポンティフェクス・マクシムスPontifex maximus(教皇)の称号を帯びて,他の顰蹙(ひんしゆく)と非難とを買った。ちなみに同じ頃アストゥリアスの支配者は従来のプリンケプスprincepsに代わってインペラトルimperatorを称し始めたが,これまた西ヨーロッパの政治伝統と慣行とに反する行為だった。加えて一般民衆の間には,ヤコブの特別な加護の下にある自分たちの国は,他のキリスト教国よりも神の前に覚えがいいのだといった民族的自負心の芽生えを促した。以上のように,ヤコブ信仰は中世イベリア史の中できわめて重要な意味をもったが,グラナダ王国の征服すなわちレコンキスタの終了を境にしだいに従来の力を失っていった。
執筆者:小林 一宏
大ヤコブの遺骸発見の地にあった小さな教会堂は872年にアルフォンソ3世により改築され,さらに現在の大聖堂は1078年の起工である。周歩廊に5祭室,翼廊にも4礼拝堂が付き,側廊が堂内を一巡する,フランスのトゥールやトゥールーズで練り上げられた巡礼路様式のプランを,短期間に完成(頭部は1105年,全体は1128年)したため,様式の統一と充実という点でひときわ優れている。内部は,近世の主祭壇(この下の地下祭室にヤコブの遺骸が眠る)を除くと中世の雰囲気を残しているが,外部はさまざまな時代に増改築された。西正面は12世紀末に,工匠マテオMateoの彫刻による〈栄光の門〉に取り替えられ,後にその前面に増築がされる。南側の〈銀細工師の門〉だけは,1117年の反乱と火災後に多少の組替えはあったものの,ロマネスク彫刻を伝える。糸杉の間に立つヤコブ像,竪琴を奏でるダビデ王,獅子と女の主題などは,巡礼路に位置するトゥールーズやレオン,ハカにもまま見られ,建築的枠の中に納めきれないほどの量感,頭髪や衣襞の分厚い表現,交差した両脚なども共通で,巡礼路を往来した彫刻師の活躍が考えられる。大広場に面して,大聖堂南側に回廊(16世紀),北に王の施療院(16世紀初め。エガスEnrique Egas(1455-1534)によるプラテレスコ様式),向かいにルネサンス様式の宮殿などがある。
→巡礼
執筆者:五十嵐 ミドリ
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…【嶋田 襄平】
[キリスト教]
キリスト教文化圏では,巡礼とはいっても歴訪や巡回が意図されたのではなく,特定霊場をめざしたので,途上の諸霊場参詣はあくまでも副次的であった。エルサレム,使徒ペテロおよびパウロ以下おびただしい殉教者の墓のあるローマ,そしてイベリア半島北西端のサンチアゴ・デ・コンポステラが三大巡礼地であった。僧侶や学者は別として,一般人がエルサレム巡礼に出る風潮は4世紀ごろに始まったらしい。…
… このように王侯・貴族から商人にいたるまで,旅を生活の基本形態としていたことは,西欧中世の文化に特異な性格を与えることになった。エラスムスが《対話集》のなかにあげている4人の市民のサンチアゴ・デ・コンポステラ巡礼の話が,結局は1人だけがかろうじて尾羽打ち枯らして戻るという悲惨な結果に終わったように,中世において遠方の地への巡礼行は生命をかけた行為であった。地位も財産もできた中年の男性たちが,酒の上での約束にせよ,サンチアゴへの巡礼に旅立ってゆくということは,エラスムスの誇張ではなく現実にありうることである。…
…スペインに伝道し,数々の奇跡を起こしたとの伝説がある。9世紀初頭に遺骨が発見されたというスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ(サンチアゴは,スペイン語で〈聖ヤコブ〉の意)は,今日なお巡礼地として名高い。同地は中世には,帽子などにホタテガイの殻をつけた巡礼が西欧各地から集まり,キリスト教三大巡礼地の一つとして栄えた(なお,今日でもフランス語でホタテガイをcoquille Saint‐Jacques(聖ヤコブの貝)と呼ぶ)。…
※「サンチアゴデコンポステラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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