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ザンビア Zambia

翻訳|Zambia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ザンビア
Zambia

正式名称 ザンビア共和国 Republic of Zambia
面積 75万2612km2
人口 1330万6000(2011推計)。
首都 ルサカ

アフリカ大陸中南部の内陸国。北はコンゴ民主共和国とタンザニア,東はマラウイとモザンビーク,南はジンバブエとナミビア,西はアンゴラに国境を接する。ノーザン,イースタン,ウェスタン,セントラル,ノースウェスタン,サザン,コパーベルト,ルアプラ,ルサカの9州からなる。北東部のムチンガ山脈を除くと,国土の大部分は標高 1000~1500mのサバナの高原で,ナミビア,ジンバブエとの国境をなすザンベジ川とその諸支流が深い谷を刻む。気温は冷涼季 (5~7月) で 16~27℃,暑季は 27~38℃であるが,標高が高いため一般にしのぎやすい。年降水量は北部で 1250mm,南部で 500~800mm。すでに 200万~100万年前から人類が居住していた跡があり,前期石器時代の遺跡や,後期石器時代の絵画,彫刻が洞窟などに残っている。 1798年現モザンビークのテテから来たポルトガル人が交易を開始,アラブ人の奴隷商人も暗躍。 1889年と 1900年にイギリスがこの地を北西ローデシア,北東ローデシアの二つの保護領としイギリス南アフリカ会社が統治,1911年この二つが北ローデシアとして合併,1924年直轄植民地となった。 1953年,南ローデシア (現ジンバブエ) ,ニアサランド (現マラウイ) とともにローデシア=ニアサランド連邦が結成されたが,アフリカ人民会議 ANCと統一民族独立党 UNIPが半自治政府を組織,1963年末に連邦は解体,1964年 10月にザンビア共和国として独立。独立以来 UNIPの一党制だったが,1990年複数政党制に移行。地下資源が豊富で,経済は埋蔵量,産出量ともに世界有数を誇る銅に大きく依存し,ほかにコバルト,亜鉛,マンガンなども産する。タバコ,トウモロコシを主とする農産物も輸出。住民の大部分はバンツー語系諸族で,多くの部族に分かれ,固有の言語,宗教をもつ。公用語は英語。人口の 70%以上がキリスト教徒。生活・教育水準はアフリカでは最も高い部類に属する。

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デジタル大辞泉の解説

ザンビア(Zambia)

アフリカ南部の内陸にある共和国。首都ルサカビクトリア滝がある。銅を産出。もと英国領で北ローデシアとよばれ、1964年に独立。人口1346万(2010)。

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百科事典マイペディアの解説

ザンビア

◎正式名称−ザンビア共和国Republic of Zambia。◎面積−75万2612km2。◎人口−1309万人(2010)。◎首都−ルサカLusaka(175万人,2010)。

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世界大百科事典 第2版の解説

ザンビア【Zambia】

正式名称=ザンビア共和国Republic of Zambia面積=75万2614km2人口(1996)=971万人首都=ルサカLusaka(日本との時差=-7時間)主要言語=英語,ニャンジャ語,ベンバ語,ロジ語,カオンデ語,ルンダ語,ルバレ語,トンガ語通貨=ザンビア・クワチャZambian Kwacha南部アフリカの北辺にある共和国。旧イギリス領北ローデシアNorthern Rhodesia。北から時計回りにコンゴ民主共和国,タンザニア,マラウィ,モザンビーク,ジンバブウェ,ナミビア,アンゴラに囲まれ,海をもたない。

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大辞林 第三版の解説

ザンビア【Zambia】

アフリカ南部にある高原状の内陸国。共和制。もとイギリス保護領で1964年独立。地下資源が豊富で、銅の世界的な産出国。首都ルサカ。住民は黒人。主要言語は英語・ニャンジャ語。旧称、北ローデシア。面積75万3千平方キロメートル。人口1170万( 2005)。正称、ザンビア共和国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ザンビア
ざんびあ
Zambia

南部アフリカの内陸にある共和国。正称はザンビア共和国Republic of Zambia、独立以前は北ローデシアと称した。北はタンザニア、コンゴ民主共和国、東はマラウイ、モザンビーク、西はアンゴラ、南はナミビア、ボツワナ、ジンバブエと国境を接する。面積75万2614平方キロメートル、人口1072万(2000推計)。首都はルサカ。[林 晃史]

自然

全国土が標高900~1500メートルの高地で、南側ジンバブエとの国境はザンベジ川が流れている。北部のムウェル湖、バングウェウル湖、南部のカフエ人造湖、カリバ人造湖などの湖沼のほか、中部にルカンガ沼沢地があるが、大部分は高地サバンナ帯である。南部の町リビングストン(現マランバ)近くのザンベジ川には、この町名の由来となった大探検家リビングストンが発見し命名したアフリカ大陸最大の瀑布(ばくふ)ビクトリア滝がある。また、中部のコンゴ民主共和国国境付近にはコッパー・ベルトとよばれる大産銅地帯がある。東部と南部の鉄道沿線の赤色、赤褐色ローム層地帯は白人によって市場向け大農場が発達しているが、残りの地域は地味もやせておりアフリカ人が自給自足農業を行っている。[林 晃史]

歴史

1889年セシル・ローズのイギリス南アフリカ会社はリンポポ川北方への進出を企て、南ローデシア(現ジンバブエ)を手に入れたのち、ザンベジ川上流のロジ王国のレワニカ王から90年鉱物採掘権を入手した。さらに97~99年には北方のベンバ人をヌゴニ人の襲撃から保護する名目で北ローデシア全域を支配下に置いた。しかし会社の関心は南ローデシアの鉱産資源と白人入植農場にあり、北ローデシアでは1909年カブウェに通じる鉄道が建設されただけであった。20年代初め白人入植者の会社支配に対する反感が高まり、国民投票の結果24年会社支配は終わり、植民地省の統治するイギリス保護領となった。北ローデシアが南ローデシアから区別されたのはこのとき以来である。20年代末コッパー・ベルトで銅の富鉱が発見され、採掘にはアメリカ系ローン・セレクション社と南アフリカ系アングロ・アメリカン社があたり、第二次世界大戦後には全世界銅生産高の8分の1を生産した。南ローデシアの白人入植者はこの銅資源に目をつけ、またニアサランド(現マラウイ)の黒人労働力にも関心を示して、南ローデシア、北ローデシア、ニアサランド3国で連邦を結成することを企て、1953年ローデシア・ニアサランド連邦が成立した。白人の利益を図る連邦に対し3国のアフリカ人たちは反対し、北ローデシアでは51年H・ヌクンブラがアフリカ民族会議(ANC)を結成、K・D・カウンダもそれに加わった。58年急進的なカウンダは脱退し、新党を結成したが非合法化され投獄された。60年統一民族独立党(UNIP)の党首となったカウンダは連邦反対と独立を要求してイギリス政府と交渉し、63年12月ローデシア・ニアサランド連邦は解体し、北ローデシアは翌64年10月24日独立してザンビア共和国と国名を改めた。[林 晃史]

政治

大統領となったカウンダは、ヒューマニズムに基づくアフリカ社会主義を掲げ、基幹産業の国有化を行った。一方、憲法を改正して野党の統一党(UP)や統一進歩党(VPP)を非合法化し、1973年UNIPの一党体制を確立した。しかし、73年の石油危機、75年の銅の国際価格の暴落により、ザンビア経済は危機に直面した。この経済危機を克服するためカウンダ大統領は、IMF(国際通貨基金)・世界銀行の構造調整計画(SAP)を受け入れることを余儀なくされた。経済の自由化を図るSAPはとくに都市住民に大きな打撃を与え、鉱山労働組合のF・チルバを中心に複数政党制民主主義運動(MMD)が90年7月に結成され、複数政党制への移行を要求する一大運動となった。
 この事態を受けてUNIPは1990年9月に憲法改正委員会を設置し、UNIP以外の政党の結成を禁じた第4条を廃止した。この結果、91年10月に複数政党制下で大統領選挙と国政選挙が行われ、大統領選挙ではチルバが勝ち、また国政選挙でもMMDが圧勝し、独立以来27年間続いたカウンダ政権は敗北した。
 しかし、チルバ政権成立後、大統領の指導力の欠如、閣僚の汚職に対するMMD党内の批判が起こり、MMDは分裂していった。この事態を見て、いったん政界から引退したカウンダは1996年大統領選挙に再度の立候補を表明した。それに対しチルバは憲法を改正して、大統領候補の資格として「2世代ザンビア国民であること」を掲げ、カウンダの出馬を不可能にした。その結果、96年11月の大統領選挙ではチルバが再選され、またMMDも圧勝した。UNIPは選挙をボイコットし、国際社会もチルバの改憲措置を非難した。2002年1月、任期満了に伴う大統領選挙が実施され、MMDのレビ・ムワナワサ(1948―2008)が当選した。なお、大統領の任期は5年である。[林 晃史]

外交・軍事

独立後、国際連合、イギリス連邦、アフリカ統一機構(OAU。現アフリカ連合)に加盟したザンビアは、反人種差別主義、非同盟主義を外交の基本とした。とくに南部アフリカの白人支配国に対するアフリカ人解放闘争には積極的役割を果たした。1969年、東・中部アフリカ14か国がルサカに集まって採択した「破壊よりも交渉を優先させる」というルサカ宣言はその後OAUでも採択され、南部アフリカ解放闘争の基本となった。また74年の南アフリカ共和国のデタント政策にはただちに「理性の声」として対応し、同年結成されたフロントライン諸国(ザンビア、タンザニア、アンゴラ、モザンビーク、ボツワナの5か国)のなかでは穏健派を代表した。穏健路線をとる背後にはつねに、ザンビアの経済的利害状況、とくに南アフリカ共和国の鉄道、港湾に依存せざるをえない銅搬出路の確保の問題がある。ジンバブエ闘争ではジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)、アンゴラ闘争ではアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)の穏健派を支援した。また1973年にジンバブエ解放闘争支援のため国境を閉鎖していたが、78年には国内経済の危機から、内陸国ザンビアにとって交通の要所であるこの国境を再開し、他のフロントライン諸国の非難を浴びた。南部アフリカの民族解放闘争の状況を反映して70年代末には国防費は国家予算の30%を占めた。1995年現在、軍隊は2万1600(陸軍2万、空軍1600)、戦闘機16機を有する。[林 晃史]

経済

ザンビアは典型的な銅依存のモノカルチュア(単一商品)経済で、銅は国内総生産(GDP)の18.5%、国家歳入の50%、輸出の95%を占めている(1996)。独立後ヒューマニズム社会主義政策に基づき1968年ムルングシ宣言を発表、主要外国系民間企業26社に対し国営の産業開発公社(INDECO)が51%の株式を取得することとし、あわせて本国への送金を制限した。翌69年には基幹産業である銅鉱業に対しても国営の鉱業開発公社(MINDECO)が同様の51%株式取得を行い、従来の二大外国系銅会社であるローン・セレクション・トラスト社はローン・コンソリデイテッド鉱山会社(RCM)に、アングロ・アメリカン社はヌチャンガ・コンソリデイテッド銅鉱山会社(NCCM)に移譲された。さらに70年には外国商業銀行にかわって国営金融開発公社(FINDECO)が過半数株式を取得し、政府は金融活動の95%を支配することになった。以上の措置によって経済のザンビア化を行ったものの、銅の搬出路と銅の国際価格の変動とによってザンビア経済は1970年代後半から危機的状況に陥った。65年11月の隣国ローデシア(現ジンバブエ)の白人勢力が一方的独立宣言を行った際、それに対する国連の経済制裁措置に協力したため、従来銅輸送の3分の2を依存していたローデシア鉄道の使用が困難となり代替路を模索した。70年中国がタンザニアと産銅地帯を結ぶ長さ1600キロメートルのタンザン鉄道の建設に乗り出し75年完成したが、同年8月に隣国アンゴラの内戦によって、ローデシア鉄道と並ぶ輸送力のもう一つの柱であるベンゲラ鉄道が破壊されたため、銅輸送はこのタンザン鉄道に集中した。しかし同鉄道の効率の悪さ、港の積出し能力の低さによって銅搬出は危機状況に陥った。
 一方、1973年のオイル危機後の世界経済の不況を反映して、75年以降銅の国際価格が下落し生産費を下回ったため、政府は銅会社に生産制限を課した。このためザンビアの外貨は減り必需品の輸入も削減されたため、物資不足とインフレが国民の不満を高めた。政府は世界銀行、国際通貨基金(IMF)からの多額の借款によって経済危機に対処するとともに、78年10月にはフロントライン諸国の反対を押し切ってローデシア鉄道使用を再開した。このように問題を抱えている銅への過度の依存を反省して、政府は国内の農業開発、とくに食糧の自給化に力を注いでいる。
 鉄道沿線の市場向け白人農場(トウモロコシ、小麦、サトウキビ、タバコ)と、それ以外のアフリカ人自給自足農業地域(トウモロコシ、米、ラッカセイ、綿花)との地域格差は大きく、後者に対し政府は灌漑(かんがい)、種子、肥料などの援助によって生産性向上を図っている。1983年、IMF・世界銀行の要請により導入された構造調整計画(SAP)は、社会主義路線と対立し、国民(とくに都市住民)の不満を高め、都市暴動となって現れた。91年に発足したチルバ政権もSAPを引き継ぎ、規制緩和、為替(かわせ)の自由化、公企業の民営化を進めたが、それに伴いインフレが高進し国民生活を圧迫している。[林 晃史]

社会・文化

ザンビアの人口密度は1平方キロメートル当り14人と低いが、人口増加率は3.1%(1990~98年)と高い。住民は73の部族からなり、おもな部族はトンガ(中・南部)、ニャンジャ(東部)、ベンバ(北部、コッパー・ベルト)、ルンダ(北西部)、ロジ(西部)である。公用語は英語であるが、その他各部族語も使われている。地方では伝統的宗教が信仰されているが、都市ではキリスト教徒が多く、約600万人といわれている。前述した地域格差が原因して農村から都市への人口移動はきわめて高く、人口の都市化率は1970年の30%から95年には50%に増え、失業者の増大、住宅難、医療、教育施設の不足など深刻な経済・社会問題が発生している。
 また急激なザンビア化政策は逆に国営公社内での非能率、非効率を引き起こし、1977年には産業開発法を制定して外国民間資本投資に対して優遇措置を図るとともに、国営公社の組織改革をしばしば行っている。82年4月には二大銅公社もザンビア・コンソリデイテッド鉱業会社(ZCM)に統合された。
 独立当時大学卒業者はわずか100人足らずであったが、その後教育には力点を置き、毎年歳出の14%、国内総生産(GDP)の5%を投資した結果、1995年の小学校(7~13歳)就学率75%、成人の識字率73%となっている。新聞は英字日刊紙『タイムズ・オブ・ザンビア』と『ザンビア・デイリー・メール』が発刊され、ラジオ・テレビ放送は国営2社によって行われている。[林 晃史]

日本との関係

銅地金(じがね)の輸入を通して日本は毎年貿易収支は入超となっており、1995年輸入額は2億2182万ドル、輸出額は6005万ドルで、日本からの輸出はおもに輸送機械、通信機器、化学肥料などである。政府援助は72年の第一次円借款から95年まで900億2400万円が輸送・通信部門に供与された。1980年9月のカウンダ大統領訪日に際して、約2億円相当の米の無償援助が行われた。さらに、青年海外協力隊、専門家派遣と研修生受け入れなどの技術協力が実施されているほか、民間ベース投資(肥料、爆薬工場、自動車、銀行)が行われている。[林 晃史]
『小倉充夫著『労働移動と社会変動―ザンビアの人々の営みから』(1995・有信堂高文社)』

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