ザンビア(英語表記)Zambia

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精選版 日本国語大辞典 「ザンビア」の意味・読み・例文・類語

ザンビア

  1. ( Zambia ) アフリカの中南部にある共和国。一九六四年イギリスから独立。首都ルサカ。銅、コバルト、鉛、亜鉛、マンガンなどの鉱産資源が豊富。旧名北ローデシア

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改訂新版 世界大百科事典 「ザンビア」の意味・わかりやすい解説

ザンビア
Zambia

基本情報
正式名称ザンビア共和国Republic of Zambia 
面積=75万2612km2 
人口(2010)=1293万 
首都=ルサカLusaka(日本との時差=-7時間) 
主要言語=英語,ニャンジャ語,ベンバ語,ロジ語,カオンデ語,ルンダ語,ルバレ語,トンガ語 
通貨=ザンビア・クワチャZambian Kwacha

南部アフリカの北辺にある共和国。旧イギリス領北ローデシアNorthern Rhodesia。北から時計回りにコンゴ民主共和国,タンザニアマラウィモザンビーク,ジンバブウェ,ナミビア,アンゴラに囲まれ,海をもたない。鉱産,とくに産銅国として知られる。

南緯8°~18°にわたる国土は,一般に南西から北東へ標高を増す900~1500mの高原面を主体とする。先カンブリア界の結晶質岩とこれを貫くカコウ岩体を基盤とし,中生代末から第三紀にかけて形成された3段の浸食面群が広く保存されている。西部はいわゆるカラハリ盆地に属し,古第三系をのせる。最高点はマラウィ国境北部の2160m,最低点はモザンビーク国境部の325mである。国土の大半はザンベジ川とその支流カフエ川,ルアングワ川その他によってインド洋に排水され,北東部はコンゴ川水系に属するチャンベシ川,ルアプラ川の流域である。

 熱帯内陸の半乾半湿の気候下にあり,一年はほぼ4~8月の涼乾季,8~11月の暑乾季,11~4月の暖雨季に区分される。最涼月は6月または7月で,平均15~17℃,一方,最暖月は10月または11月で,平均23~26℃である。降水量は年変動が少なくないが,平均で年700~1400mm,一般に南に小で北に大,高所に大で低所に小の傾向を示す。しかも降水量の90%以上が,熱帯収束帯(ITC)が国土上を往復する11~4月の暖雨季に集中するのが特色である。
執筆者:

世界第2の銅産出国であり,いわゆるコッパー・ベルトを中心に都市化の進展が著しい。したがって,住民も近代化の波を受け,生活も変化しているが,伝統的な自給農耕の生活様式を残している人々も多い。

 伝統的な部族分布は,北部にベンバ,ビサ,ララ,ランバなどの中央バントゥー系の諸部族が居住し,南部,西部にはイラ,トンガ,ロジ,カオンデなどの中央ザンベジ・バントゥー系の諸部族が居住する。これらの部族はすべてバントゥー系の農耕民であるが,北部はツェツェバエの分布域であるため牛を飼養しないが,南部,西部では飼育する。多くの部族は,現在のコンゴ民主共和国(ザイール)の地にあったルンダ王国ルバ王国から分かれて移住してきたことを物語る伝承をもっている。伝統的な社会の政治的統合は多様な形態をとっていた。南部のトンガ族などは王国を形成しなかったが,ロジ族やベンバ族などは,奴隷や象牙の交易の富を蓄積して強力な王国を形成した。また,この地域のバントゥー系諸部族は,アンゴラからザンビア,モザンビークにかけて中央アフリカを帯状に広がる母系ベルトに属して,母系社会を形成することで有名である。

 ザンビアの広大な乾燥疎開林に居住する農耕民の生業は雑穀を主作物とする焼畑農耕である。とくに木の枝を伐採し,1ヵ所に集めて火入れを行って焼畑を造成するチテメネ・システムという特殊な方法をとる。

 コッパー・ベルトの鉱山都市が開けたため,早くから成人男子の出稼ぎ労働が盛んに行われている。しかし,銅の国際価格の低落のため,住民の生活水準は停滞を余儀なくされている。現在,国語としては英語のほかに,ベンバ,カオンデ,ロジ,ルンダ,ルバレ,ニャンジャ,トンガの各部族語があり,行政や教育に用いられている。
執筆者:

ザンビア各地で石器時代の初期・中期・後期遺跡が発見されている。8~12世紀ころバントゥー語系住民が北から移住し,先住民サン(ブッシュマン)を駆逐して農耕,牧畜を始めた。1000年ころにはトンガ・イラ文化がザンベジ川渓谷沿いに栄えた。17世紀にはコンゴ地方からロジ族,南方からベンバ族が来住し,それぞれ中央集権的な王国を建設した。

 18世紀末のポルトガル人の遠征に続いて,19世紀半ばリビングストンがイギリス人として初めて訪れた。19世紀末C.ローズのイギリス南アフリカ会社は南アフリカからさらに北方への進出を企て,リンポポ川以北のマタベレランド,マショナランド,マニカランドを手に入れ,南ローデシア(現在のジンバブウェ共和国)をつくった。つづいて1890年にザンベジ川上流域のロジ王国のレワニカ王から鉱山採掘権を入手し,さらに北方のベンバ族を強敵ヌゴニ族から守るという名目で99年にはほぼ現在のザンビア(北ローデシア)全域を手に入れた。しかし会社の関心は鉱産資源の多い南ローデシアに集中し,北ローデシアへの白人の入植は遅れた。1920年代初め会社の独占的支配に対する白人入植者の反感が高まり,住民投票の結果,24年会社の南・北ローデシア支配は終わり,北ローデシアはイギリスの植民地省が統治する直轄植民地となった。

 1920年代末,北ローデシア中部のコンゴ国境沿いのコッパー・ベルトで銅の富鉱が発見され,その採掘にはローン・セレクション・トラスト社(RST。アメリカ系)とアングロ・アメリカン社(AAC。南アフリカ系)が従事した。大恐慌後,銅の生産は著しく伸び,北ローデシア経済の大宗となった。南ローデシアの白人入植者はこの資源に着目し,イギリス領ニヤサランド(現在のマラウィ共和国)のアフリカ人労働力と合わせて3植民地で連邦を結成することを計り,イギリスとアフリカ人の反対を押し切って53年にローデシア・ニヤサランド連邦を結成した。白人の利益を優先する連邦結成にアフリカ人は反対し,H.ヌクンブラがアフリカ人民族会議(ANC)を結成,カウンダも参加した。しかし急進的なカウンダは58年脱党し新党をつくったが,非合法化され投獄された。59年釈放されたカウンダは統一民族独立党(UNIP)の党首となり,連邦反対と独立を要求してイギリス政府と交渉した。63年末ローデシア・ニヤサランド連邦は解体し,北ローデシアは翌64年10月24日独立してザンビア共和国となった。

大統領となったカウンダは国内の部族主義を克服する意図をもって,70年ロジ族,トンガ族を基盤とする野党ANCを非合法化し,72年にはUNIPから除名された前副大統領S.カプウェプウェの連合進歩党(UPP)も非合法化した。同時にザンビアの一党制化を進めるための新憲法草案の作成,党規約の改正を諮問する委員会を設置した。同年12月法案は可決され,翌73年8月の新憲法発効とともに,ザンビアはヒューマニズム哲学に基づく一党制民主主義を標榜した。カウンダは大統領に再選され,新たに首相として前副大統領M.チョーナが任命された。新憲法の下,党と議会の関係は以下のようになった。大統領は単一政党UNIPの党首も兼ね,党書記長が新設された。首相は行政府の長となり,25名から成る党中央委員会の長は書記長であり,首相も中央委員会の委員を兼ねた。そして中央委員会の下に八つの小委員会として(1)防衛・安全保障,(2)選挙,(3)経済・財政,(4)政治・憲法・法律・外交,(5)任命・懲戒,(6)社会・文化,(7)農村開発,(8)青年・スポーツの各委員会が置かれた。また議会は一院制で,定員135名(選出125名,大統領任命10名,任期5年)から成り,他に諮問機関として各州を代表する首長会議(27名)が置かれた。

 独立後ザンビアは直ちに国連,イギリス連邦,アフリカ統一機構(OAU)に加盟し,反人種主義,非同盟主義を外交の基本とした。特に南部アフリカの白人支配に対するアフリカ人解放闘争に対しては,その置かれた地理的環境から積極的に対応した。対南部アフリカ政策の基本は〈破壊よりも交渉を優先させる〉という1969年の〈ルサカ宣言〉にあり,同宣言はOAUでも採択された。そして74年のポルトガルの軍事クーデタに伴うアンゴラ,モザンビーク植民地解放の動きにいち早く対応した南アフリカ共和国のデタント政策には,直ちに〈アフリカ人民が待ち望んでいた理性の声〉として歓迎し,同年結成されたフロント・ライン諸国グループの中では穏健派を代表した。しかし穏健派路線をとる背後には常にザンビアの経済的利害,なかんずく銅の搬出路の確保があり,ジンバブウェ解放闘争ではヌコモのジンバブウェ・アフリカ人民同盟(ZAPU),アンゴラ内戦ではサビンビのアンゴラ全面独立国民連合(UNITA)といった穏健派を支持し,78年には国内経済の危機から,後述するようにローデシア(南ローデシア)との鉄道を再開し,他の前線諸国の非難を浴びた。1975年チョーナは首相の職を解かれ(1978年党書記長),後任にはD.リスロが就任した。78年の大統領選挙でカウンダは4選されたが,同年の総選挙で4名の前閣僚が落選し,また政府の経済政策に対し労働組合の不満が高まり,80年10月にはクーデタ未遂事件が起こった。そのため大統領は首相をN.ムンディア,党書記長をH.ムレムバに替えるとともに,81年7月労働組合指導者を逮捕した。そして83年の大統領選挙および総選挙ではUNIPは圧勝し,カウンダは5選された。

 84年以降の政治の争点は,政府指導者の政治腐敗と,社会主義化と経済自由化との矛盾にあった。85年に前閣僚,公社総裁,党幹部らの政治腐敗が暴露され逮捕にまで発展,翌86年にはカウンダ大統領の息子にまで及んだ。一方,銅価格の下落によって経済苦境にあるザンビアは83年以来,IMF,世界銀行と交渉し一連の構造調整プログラムを実施せざるをえなかった。しかし,87年5月に大統領は〈自らの資源で成長を〉という新経済復興計画を発表し,それまでの経済自由化政策を180度転換し社会主義化路線を歩みはじめた。冷戦終結後,一党独裁体制に対する国民の批判が高まり,カウンダ大統領は90年複数政党制を認め,翌91年10月に複数政党制下での大統領および国政選挙が実施された。その結果,複数政党制民主主義運動党(MMD)のチルバFrederick Chiluba(1943- )党首が勝ち,国政選挙でもMMDが圧勝した。

 しかしチルバ政権は発足後,内部抗争,汚職・麻薬問題などで分裂した。96年11月の選挙では憲法改正によりカウンダ前大統領の出馬を不可能にしたため,UNIPは投票を拒否,チルバは再選されたが国際社会の非難を浴びた。

ザンビア独立後の1965年11月に南隣のローデシアの白人入植者が一方的独立宣言を行い,それに対し国連がローデシアへの経済制裁措置を決議した。ザンビアもその措置に荷担したため,従来ローデシアの精油所から送られていた石油供給は停止され,またザンビア産の銅の搬出に使われていたローデシア鉄道の使用も制限された。このため一時期アメリカとカナダがタンザニアのダル・エス・サラーム港から石油を空輸し,またイタリアの国営会社ENI(エニ)がダル・エス・サラーム港と産銅地帯を結ぶ石油パイプラインを建設した(1968年9月完成)。銅輸送についてはアンゴラ経由のベンゲラ鉄道へ比重を移しながらも,ローデシア国内だけは外国会社が輸送するという条件で一時的に問題を解決した。長期的には世界銀行の援助でダル・エス・サラーム港への舗装道路建設,また70年からは中国の援助で同じくダル・エス・サラーム港に通じるタンザン鉄道の建設が開始された(1975完成)。

 このような経済的危機に直面した内陸国ザンビアは国家の介入を強める一連の経済改革を実施した。まず1968年4月には〈ムルングシ宣言〉によって,外資系25社に対し国営産業開発公社(INDECO)が株式の51%を取得し,同時に外国企業の本国送金を制限した。またインド人を中心とする非ザンビア人への商業許可証の発給を制限し,商業面でのザンビア人化をはかった。さらに翌69年8月には〈マテロ宣言〉を行い,ザンビアの基幹産業である銅鉱業の国有化に踏み切った。外資系二大銅山会社であるAAC社とRST社の株式の51%を取得してそれぞれ政府系のヌチャンガ・コンソリデーテッド銅鉱山会社(NCCM)とローン・コンソリデーテッド鉱山会社(RCM)を設立し,両社を国営鉱業開発公社(MINDECO)の傘下に入れた。そして70年11月には外国商業銀行の国有化が行われ,国営金融開発公社(FINDECO)が51%の株式を取得し,これによってザンビア政府は国内の金融活動のほぼ95%を支配することになった。

 一方,独立から74年までは銅の国際価格が高水準にあり,銅モノカルチャー経済のザンビアは輸送問題を除き好況で,この時期実施された第1次国家開発計画(1966-70)では年平均経済成長率は10.6%とほぼ目標通りであったが,一面,農業開発は等閑視された。しかし,73年1月のローデシアとの国境閉鎖に伴うローデシア鉄道使用停止,同年10月の石油危機,75年の銅価格の暴落,同年8月の隣国アンゴラでの内戦激化に伴うベンゲラ鉄道の運行停止によってザンビア経済は危機に直面した。輸送に関しては75年にタンザン鉄道が開通したにもかかわらず,技術者の不足,ダル・エス・サラーム港の混雑などによって十分稼働しなかった。また銅価格の低迷によって生産費が価格を上回り,政府は生産制限措置をとったため重要な歳入源を失い,他の産業部門の活動も停滞した。第2次国家開発計画(1972-76)は目標を大幅に下回り,年平均経済成長率は3.4%にとどまった。国内では食料品をはじめ日常生活必需物資が不足し,主食のトウモロコシを敵対する南ア共和国から輸入する事態も起こった。

 この経済危機を打開するため,政府は初めて銅依存経済(輸出の約90%が銅)からの脱却を目ざして農業開発に本格的に取り組み,78年10月にはトウモロコシ栽培に必要な肥料を緊急に輸入するためにローデシア鉄道再開に踏み切り,周辺の黒人独立国家の非難を浴びた。一方,世界銀行,IMFをはじめとする国際金融機関から多額の援助を受け,経済の立直しをはかろうとしている。第3次国家開発計画(1980-84)においては,銅依存経済から経済の多角化を目ざし,特に食糧自給化をはかる農業開発に力点を置いた。チルバ政権はIMF・世界銀行の支援を受けて構造調整計画をすすめ,規制緩和,為替の自由化,民営化を実施しているが,その効果はなかなかあがっていない。
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百科事典マイペディア 「ザンビア」の意味・わかりやすい解説

ザンビア

◎正式名称−ザンビア共和国Republic of Zambia。◎面積−75万2612km2。◎人口−1309万人(2010)。◎首都−ルサカLusaka(175万人,2010)。◎住民−バロツェ,ベンバ,トンガ,ロジ,カオンデなどバントゥー民族。◎宗教−土着宗教が大部分,ほかにキリスト教。◎言語−英語(公用語),ニャンジャ語,ベンバ語,ロジ語,カオンデ語,ルンダ語,ルバレ語,トンガ語(以上,教育・行政面で使用)などバントゥー諸語。◎通貨−ザンビア・クワチャZambian Kwacha。◎元首−大統領,ルングEdgar C.Lungu(2015年1月就任,任期2016年9月まで)。◎憲法−1991年8月制定。◎国会−一院制(定員158,任期5年)。最近の選挙は2011年9月。◎GDP−143億ドル(2008)。◎1人当りGNP−630ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−71%(1997)。◎平均寿命−男56.3歳,女60.0歳(2013)。◎乳児死亡率−69‰(2010)。◎識字率−70.9%(2009)。    *    *アフリカ南部,イギリス連邦内の共和国。内陸国で,国土の大部分が標高1000m以上のサバンナ性高原。南のジンバブエとの境をザンベジ川が流れる。気候は熱帯的で,年降水量は500〜1500mm。高原にあるため,年平均気温は18〜24℃。世界的な銅産地で,コバルト,鉛,亜鉛,石炭などの鉱産もあり,輸出総額の大部分を銅が占める。農産物はタバコ,ラッカセイ,トウモロコシを主とする。小規模な食品・繊維・肥料工業のほか,製鋼圧延工場がある。 1798年ポルトガル人が,次いで1850年以後リビングストンがこの地方を探検した。1889年C.ローズがイギリス南アフリカ会社を創立して統治権を確立,のちローデシアと命名した。1911年北部の2保護領が合体して北ローデシアとなり,南ローデシア(現ジンバブエ)と分離,1924年同社の支配を離れて英国の直轄植民地となった。1953年南北ローデシアとニヤサランド(現マラウイ)でローデシア・ニヤサランド連邦を形成したが,1963年解体し,1964年ザンビアとして独立した。初代大統領カウンダは1973年発効の憲法で一党支配を定めたが,1990年の憲法改正で複数政党制を導入した。1991年の大統領選でカウンダは敗れ,複数政党制民主主義運動の党首チルバが当選(1996年再選)。1997年一部の反乱軍兵士によるクーデタ未遂があり,その関連容疑でカウンダらが一時逮捕された。2002年1月に大統領に就任したムワナワサは,政治面・軍事面での改革に乗り出し,チルバ前大統領時代の腐敗・汚職の捜査に着手した。2011年9月の総選挙で,サタ愛国戦線党首が大統領に就任した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ザンビア」の解説

ザンビア
Zambia

南部アフリカの共和国。旧北ローデシア。世界有数の産銅国。首都ルサカ。ベンバ人,ビサ人,トンガ人,ロジ人などが住む。1889年発足したイギリス南アフリカ会社の植民活動の結果,1911年ザンベジ川以北の領土が北ローデシアとなる。53年ローデシア・ニヤサランド連邦の一部となるが,63年同連邦は解消し,翌年独立。90年複数政党制が導入され,翌年の大統領選でカウンダ初代大統領が敗れた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ザンビア」の解説

ザンビア
Zambia

アフリカ大陸南部の内陸にある共和国。首都ルサカ
1850年,イギリスのリヴィングストンの探検以後,イギリス人の勢力が進出。1889年セシル=ローズの設立した南アフリカ会社が開発にあたり,彼の名にちなんでローデシアと呼ばれた。1911年南北に分割されて北ローデシアとなり,24年イギリスの保護領となった。1953年中央アフリカ連邦を結成したが,63年に解体し,64年10月24日にイギリス連邦内の共和国として独立した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

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