日本大百科全書(ニッポニカ) 「マラウイ」の意味・わかりやすい解説
マラウイ
まらうい
Malawi
アフリカ南東部にある内陸国。正称はマラウイ共和国Republic of Malawi。北半部は東側をタンザニア、西側をザンビア、南半部は東西ともにモザンビークに接する。旧称イギリス領ニアサランド。イギリス連邦加盟国。面積11万7726平方キロメートル(2020)、人口1275万8000(2006推計)、1320万(2008)、1756万3749(2018センサス)。首都はリロングウェ。
[林 晃史・高根 務]
自然
東側の大半(総面積の約5分の1)をアフリカ第3位の面積をもつマラウイ湖(旧称ニアサ湖。イギリス領時代の名称ニアサランドはニアサ湖に由来)が占める。マラウイ湖の南側にはさらに二つの小さな湖(マロンベ湖とチルワ湖)がある。マラウイ湖の南端からシレ川が流出しモザンビーク領でザンベジ川に合流する。国土はアフリカ大地溝帯(ニアサ・リフト・バレー)の中にあり、平野部は平均標高500メートルであるが、北部のニカ高地と南部のシレ高地は標高1000~2500メートルに達する。気候は、5月から10月の乾期と11月から4月の雨期に分かれ、気温は平野部で21~29℃、高地で14~21℃程度である。ニカ高地では霜の降りることもある。年降水量は高地で2000ミリメートル、平野部で600~900ミリメートルである。植生も地形の高低によって異なり、高地は森林と草地、平野部はサバナであるが湖岸は叢林(そうりん)帯となっている。
[林 晃史・高根 務]
歴史
4~11世紀にかけてバントゥー系住民の大移動とともに、その一部が北西方からこの地に定着した。16世紀後半、ピリ人がこの地にマラビMaravi王国を建国し、インド洋海岸部と内陸を結ぶ長距離交易で発展した。しかし17世紀のポルトガル人の来航、アラブ人奴隷商人の侵入によって衰退に向かい、19世紀初めにはアラブ商人との交易を行うヤオ人がマラビ王国にとってかわった。
1859年、スコットランド人の宣教師で探検家のリビングストンが初めてマラウイ湖に達し、その後ヨーロッパ人によるキリスト教布教活動が盛んになるとともに、布教活動を助けるためイギリスの交易会社アフリカ湖沼会社が設立された。同会社はたびたびアフリカ人、アラブ人の抵抗にあい、さらにポルトガルがシレ高地の領有を主張した。1890年イギリスは探検家H・ジョンストンを派遣し、イギリス南アフリカ会社(1889年、南部アフリカ地域での貿易を目的に設立)を通じてニアサランドの開発を援助し、1991年にはニアサランドを正式にイギリスの保護領とした。その後、シレ高地では入植者による茶や綿花栽培が盛んになり、1908年には鉄道が敷設された。
第一次世界大戦中の1915年、植民地支配に反対するチレンブエの反乱が起こったが鎮圧された。第二次世界大戦後の1953年、南・北ローデシアとニアサランドを統合する連邦(ローデシア・ニアサランド連邦)が結成されるとともにアフリカ人の連邦反対運動が高まり、1958年、ガーナから帰国したH・K・バンダがその中心となって闘った。翌1959年バンダらは逮捕されたが、同年マラウイ会議党(MCP)が結成され、以後連邦反対闘争の柱になった。1960年バンダが釈放されMCP議長に選ばれた。同年ロンドンで制憲会議が開かれ、同会議に基づき、1961年に総選挙が実施されてMCPが圧勝した。1962年12月宗主国イギリスはニアサランドの連邦脱退を認め、1963年12月連邦は解体し、翌1964年7月6日ニアサランドは独立してマラウイとなり、バンダが初代首相となった。2年後の1966年マラウイは共和国に移行、それに伴いバンダは大統領となった。
[林 晃史・高根 務]
政治
大統領は行政府の最高指導者である。独立以来、1993年6月までマラウイ会議党(MCP)の一党体制が続き、バンダは1970年終身大統領となった。しかし、バンダの独裁化、とくに人権侵害に対する教会や国際社会からの批判が起こり、1993年6月の国民投票により複数政党制に移行した。1994年5月、大統領選挙と議会選挙が実施され、統一民主戦線(UDF)のB・ムルジElson Bakili Muluzi(1943― )が得票率47%を得て大統領に選出された。同時に行われた議会選挙でもUDFが最大議席数を獲得したが、議会の過半数を占めるには至らなかった。その後1999年6月の大統領選挙でもムルジが再選された。再選後のムルジは3選を禁止する憲法の改定を進めようとしたが、国内外の反対にあって断念し、後継にB・ムタリカBingu wa Mutharika(1934― )を指名した。2004年5月の大統領選挙ではUDFのムタリカが36%の得票を得て大統領に選出されたが、議会選挙ではMCPが第一党となった。2005年にムタリカはUDFを脱退して民主進歩党(DPP)を結成した。2009年5月に行われた大統領選挙ではムタリカが再選を果たし、議会選挙でもDPPが最大議席数を獲得した。
マラウイは1964年12月国連に加盟し、翌1965年2月にアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合に改組)のメンバーになった。さらにイギリス連邦の一員であり、また非同盟諸国会議のメンバーであるが、周辺の諸国が南アフリカ共和国の人種差別政策および白人支配に対して強力に反対したのに対し、親南アフリカ共和国政策をとり、ナカラ鉄道敷設やリロングウェへの遷都に対し同国から援助を得た。しかし1975年モザンビークとアンゴラ、1980年ジンバブエが独立し、南部アフリカ開発調整会議が結成されるとそれに加盟した。また1975年のEC(ヨーロッパ共同体)とのロメ協定および2000年にはロメ協定にかわるコトヌー協定にも調印した。東南部アフリカ共同市場(COMESA)の加盟国でもある。軍隊は陸軍5300人、うち湖上海兵隊220人、空軍200人(2010)。
[林 晃史・高根 務]
産業・経済
マラウイ経済の中心は農業であり、国内総生産(GDP)の30~40%、輸出の約90%以上、就業人口の約85%以上を占める。農業は、アフリカ人の家族経営による小農部門と、白人およびアフリカ人経営の大規模経営部門に分かれる。小農部門では主食であるトウモロコシや換金作物の葉タバコが、大規模経営部門では輸出用農産物の葉タバコ、サトウキビ、綿花、茶などが栽培されている。マラウイ湖では淡水漁業も行われている。
鉱業はボーキサイト、アスベスト、黒鉛、雲母(うんも)などの埋蔵量が確認されているが、採掘はほとんど進んでいない。
製造工業は、国内総生産の約11%、就業人口の8%強を占める。製茶工場、繰綿工場、たばこ工場、製材所などの農林産物加工業がほとんどであるが、そのほか外資系企業によるせっけん、油脂、製靴、マッチ、醸造、タイヤ再生、セメントなどの工場がある。エネルギーの大部分は火力発電に依存してきたが、シレ川のテザニ水力発電所の完成により水力発電の比重が増した。
主要輸出品は葉タバコ、茶、砂糖、綿花などの農産物以外にはなく、輸入は石油製品、肥料、石炭などである。おもな貿易相手国はイギリスなどEU諸国および南アフリカ共和国などの南部アフリカ諸国である。国内はマラウイ湖などの観光資源に恵まれているが、観光産業の発展は不十分でこの部門のGDPに占める割合は2%にとどまっている。
輸送部門では、鉄道がサリマから南下しモザンビーク国境のヌサンジェに至る本線(モザンビークのベイラ港に連絡)のほか、バラカから支線がモザンビーク国境に達している(モザンビークのナカラ港に連絡)。また、1979年にはサリマ―リロングウェ間の鉄道が完成、さらにザンビア国境のムチンジまでの鉄道も完成した(タンザン鉄道に直結)。道路総延長は1万5451キロメートルに達する。以前は南部のブランタイアが国際空港であったが、1983年リロングウェに新国際空港が開かれた。マラウイ湖上の船舶輸送も重要な輸送手段である。通貨はマラウイ・クワチャ。
[林 晃史・高根 務]
社会・文化
住民はバントゥー系のチュワ人、トンガ人、ヤオ人、トゥンブカ人などで、ほかにインド人12万人、ヨーロッパ人7000人がいる。公用語は英語とチェワ語。1人当り国民総所得(GNI)は290ドル(2009)ときわめて低く、国連が定めた分類の後発開発途上国(LDC)に属する。アフリカ人の大半は農村に住み小規模農業を営んでいる。工業が未発達のため雇用機会が少なく、多くのマラウイ人が南アフリカ共和国、ジンバブエ、ザンビアへ出稼ぎに出ている。とくに南アフリカ共和国の金鉱山は最大の出稼ぎ先であったが、1974年飛行機事故でマラウイ人出稼ぎ労働者が死亡して一時出稼ぎを中止、1977年以降再開した。
教育制度は、独立後もイギリス植民地時代の制度がそのまま残り、初等教育は8年制、中等教育は4年制である。
宗教は、早くから布教活動が行われたためキリスト教徒が多いが、その宗派はさまざまで、カトリック260万人、プロテスタント207万人のほか多くの宗派がある。またイスラム教徒も156万人いるといわれている。
[林 晃史・高根 務]
日本との関係
独立直後の1964年(昭和39)7月日本がマラウイを正式に承認したことに始まり、現在はおもに貿易、経済・技術援助を通して密接な関係がある。貿易関係では、マラウイが一次産品輸出国であるため、マラウイの輸入超過が続いていたが、近年は資源輸出が多くなり輸出超過となっている(輸入13.4億円、輸出35.8億円。2009)。マラウイに対する日本の協力は1971年(昭和46)の青年海外協力隊派遣以降継続して行われており、2009年(平成21)時点で円借款累計332.5億円、無償資金協力は累計559.1億円、技術協力は累計331億円に上っている。
[林 晃史・高根 務]