シュライヒャー(英語表記)August Schleicher

精選版 日本国語大辞典 「シュライヒャー」の意味・読み・例文・類語

シュライヒャー

(Kurt von Schleicher クルト=フォン━) ドイツの軍人、政治家国防軍を背景に第一次世界大戦後のドイツ政界で活躍、国防相次いで首相となった。軍部独裁を企てて失敗。失脚後ナチスに暗殺された。(一八八二‐一九三四

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改訂新版 世界大百科事典 「シュライヒャー」の意味・わかりやすい解説

シュライヒャー
August Schleicher
生没年:1821-68

ドイツの言語学者。チュービンゲン大学,ボン大学に学び,ヘーゲルの哲学に強い影響をうけた。1850年よりプラハ大学で比較言語学を教え,リトアニアに旅し,バルト語研究に進む。プラハで反オーストリア的人物の疑いをうけたため,数年後にイェーナ大学に移り,ここで長く比較言語学とドイツ文献学の教授を務めた。言語学は,言語を話す民族の歴史的な運命と直接関係することなく,言語そのものを対象にする学問で,それは自然史の一部をなし,その研究は自然科学の方法によるべきである,と彼は考えていた。ワイマールで刊行された大著《印欧語比較文法要説Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen》(1861-62,4版1876)において,彼はF.ボップにはじまる印欧語(インド・ヨーロッパ語族)研究を集大成すると同時に,比較によってそれぞれの形の原型を求め,理論的にインド・ヨーロッパ語の共通基語(祖語)Urspracheを再建するという新しい試みを展開した。そしてその共通基語からインド・ヨーロッパ諸語がどのように分化したかを,木の幹が枝分れしていくように,1本の系統樹Stammbaumに描いた。この説明は弟子シュミットJohannes Schmidt(1843-1901)の〈波紋説Wellentheorie〉によって論破されたが,語派相互の関係を考えるきっかけをあたえ,その研究は次にくるK.ブルクマンら〈青年文法学派〉の発展の基礎を築いた。
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シュライヒャー
Kurt von Schleicher
生没年:1882-1934

ドイツ,ワイマール共和制の最後の首相。第1次大戦末期,陸軍参謀次長グレーナーに参謀将校として仕え,1918年のドイツ革命では,革命派を鎮圧する義勇軍組織化に努力。ワイマール共和制のもとでは,国防軍を代表する立場から政界の裏面工作従事,グレーナー国防相を支えたが,32年4月,ナチス突撃隊解散令に反対してグレーナーを退陣させ,パーペン内閣国防相を経て首相に就任。ヒトラー内閣登場によって引退したが,ヒトラーの恨みを買って,レーム事件の際にナチスに暗殺された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュライヒャー」の意味・わかりやすい解説

シュライヒャー
Schleicher, Kurt von

[生]1882.4.7. ブランデンブルク
[没]1934.6.30. ポツダム
ドイツの軍人,政治家。 1918年兵站総監 W.グレーナーの秘書として義勇軍 (フライコール) の編成に奔走,23年陸軍司令官 H.ゼークトの副官となった。 25年 P.ヒンデンブルクの大統領就任とともに国防軍のなかで次第に勢力を拡張。 32年 F.フォン・パーペン内閣の国防相,同年 12月パーペンの辞任後ワイマール共和国最後の首相となった。彼は国防軍を利用して,A.ヒトラーとナチスの勢力を抑えようとしたが失敗,33年1月以降政界を引退したものの,34年6月レーム事件SSによって暗殺された。

シュライヒャー
Schleicher, August

[生]1821.2.19. マイニンゲン
[没]1868.12.6. イェナ
ドイツの言語学者。プラハ大学,イェナ大学教授。インド=ヨーロッパ語族の研究に従事し,その比較文法の発達に大きな貢献をした。特に,初めて祖語の再構成を試みたことは特筆に値する。ヘーゲルの歴史哲学とダーウィンの進化論の影響のもとに,言語はそれ自体の生命をもち,進化をとげる有機体であるという言語観をもって,言語系統樹説を提唱した。著書に『印欧諸語比較文法便覧』 Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen (1861) など多数ある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シュライヒャー」の解説

シュライヒャー
Kurt von Schleicher

1882~1934

ドイツの軍人,政治家。1918~19年グレーナーのもとで政治将校として頭角を現し,ついでゼークトに密接に協力,26年以降国防省の政治面を担当し,再軍備政策の実現に努めた。ヒンデンブルクに近く,ブリューニング内閣の成立と崩壊に関与し,32年パーペン内閣の国防相,ついで首相となった。軍部独裁を企てたが失敗し,33年1月辞職。レーム粛清の際殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「シュライヒャー」の解説

シュライヒャー
Kurt von Schleicher

1882〜1934
ドイツの軍人・政治家
ヒンデンブルク大統領の側近としてヴァイマル共和国末期の政局を左右し,パーペン内閣の国防相をへて,1932年12月に超党派内閣を組織。ナチスと共産党に挾撃され,2か月でヒトラーに政権を譲った。ヒトラーによるレーム粛清の際,夫人とともに殺害された。

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世界大百科事典(旧版)内のシュライヒャーの言及

【スラブ学】より

…さらにはスラブ圏のわくを超え,西ヨーロッパにおいても学問分野として認められた。1849年にウィーン大学にスラブ文献学の講座が設けられ,スロベニア人で《スラブ語比較文法》で知られるミクロシッチFranz Miklošič(1813‐91)がその講座を担当し,同じころ開設されたプラハのカレル大学の講座を担当したドイツ人でインド・ヨーロッパ語学者A.シュライヒャーとともに,多数のすぐれたスラブ学者を養成した。87年よりウィーン大学の講座を担当したクロアチア人のヤギチVatroslav Jagić(1838‐1923)は,ドイツやロシアでも教壇に立ち,各国の研究者の連係をはかった。…

【ヒトラー】より

…32年7月の国会選挙で第一党の地位を確保したが,ヒトラーは,パーペン内閣への入閣を拒否。32年12月シュライヒャー首相によるG.シュトラッサー入閣の画策の失敗後,33年1月30日大統領ヒンデンブルクにより首相に任命される。 1933年3月5日の国会選挙でナチスは647議席のうち288議席を獲得し,同年3月23日の授権法により議会政治を排除,5月以降,政党,労働組合の解散を強行し,ナチスによる一党支配を確立した。…

※「シュライヒャー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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