精選版 日本国語大辞典 「ブランデンブルク」の意味・読み・例文・類語
ブランデンブルク
- ( Brandenburg )
- [ 一 ] ドイツ北東部からポーランド西部にまたがる地方。一二世紀ブランデンブルク辺境伯領、一五世紀ブランデンブルク選帝侯領が設けられ、一七〇一年プロイセン王国の一州となる。
- [ 二 ] ドイツ東部の州名。州都ポツダム。
プロイセン王国の中核となったドイツの領邦(ラント)。ドイツの北東部,エルベ川の西岸からオーデル川にいたる一帯を占め,ハーフェルHavel川とシュプレー川がこの地域の主要な水路をなす。土地はあまり肥沃でなく,沼沢が多い。紀元前2世紀ごろまでは,ゲルマン人の一部族のセムノネスが居住していたが,その後スラブ系のウェンド人がこの地に入り込んで定住した。
10世紀はじめにドイツ王国が成立すると,国王オットー1世は,ウェンド人に対する防衛のため,この地域に辺境領ノルトマルクを設けた。辺境伯ゲロGero(?-965)は,940年ごろエルベ川以東を征服し,キリスト教化の拠点として司教座ブランデンブルクを建設したが,その後ウェンド人は反乱をくりかえし,983年,ドイツ人はエルベ川の線まで後退を余儀なくされた。1134年,アスカニア家AskanierのアルブレヒトAlbrecht der Bär(?-1170)が,このエルベ以西(アルトマルク)の辺境伯に封ぜられると,彼は57年までの間にエルベ川以東のスラブ人を再び服属せしめ,またさかんに北西部ドイツから移民を誘致して村や町を建て,みずからブランデンブルク辺境伯と称した。アルブレヒトのあとを継ぐアスカニア家の辺境伯たちのもとで,ブランデンブルクの領域はさらに東方へ拡張され,13世紀の後半にはオーデル川の彼岸(ノイマルク)まで進出,それと並行してドイツ人の植民も推進された。また,14世紀初頭までには,ボヘミア北方のラウジッツも獲得している。13世紀前半につくられた法書《ザクセンシュピーゲル》において,ブランデンブルク辺境伯は選帝侯の一人に数えられるにいたった。
1320年にアスカニア家が断絶すると,ブランデンブルクは帝国に帰属し,そのため,皇帝ルートウィヒ4世をつうじてウィッテルスバハ家(1324-73)が,皇帝カール4世をつうじてルクセンブルク家(1373-1415)があい次いでこの地の辺境伯の位を保有した。しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。15年にいたって,皇帝ジギスムントは,ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ6世を,ブランデンブルク辺境伯(フリードリヒ1世)に封じ,選帝侯位をも与えた(授封式典は1417年)。フリードリヒは領内の秩序再建につとめ,都市と結んで貴族の勢力をおさえ,また近隣諸侯の攻撃をもしりぞけて威信を高めた。その子フリードリヒ2世Friedrich Ⅱ der Eiserne(在位1437-70)は,貴族を優遇して都市を圧迫する政策に転じ,わけても有力なハンザ都市ベルリン(当時はシュプレー川対岸のケルンとの複合都市)と激しく闘って,1442年,その政治的独立と諸特権を奪った。また,ノイマルクやラウジッツの一部を買い戻すなど,領土の拡大にも意を用いた。次の辺境伯アルブレヒト・アヒレス(在位1470-86)は,フランケン地方にあるホーエンツォレルン家の本領からブランデンブルクを行政上分離し,その子ヨハン・ツィツェロJohann Cicero(在位1486-99)は86年ベルリンに居城を定めたので,これ以後ベルリンがブランデンブルク(のちにはプロイセン王国)の首府となった。ヨハンはさらに領土を広げる一方,国内ではフリードリヒ2世の貴族優遇政策を継承し,都市の地位をいっそう低下せしめた。
こうして都市が経済的にも政治的にも没落する反面,ユンカーと呼ばれる地方貴族の勢力がめざましく台頭し,16世紀には所領の農民から土地を収奪して農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)を発展させた。ユンカーは辺境伯の財政難に乗じて,領主裁判権や免税権など大きな特権を獲得し,領邦議会でも領邦行政でも力をふるうようになった。選帝侯ヨアヒム2世Joachim Ⅱ(在位1535-71)は,1539年ルター主義を採用して宗教改革を行ったが,教会・修道院財産の没収もここではユンカーの勢力強化に役だてられ,農村における彼らの支配権をいよいよ不動のものたらしめる結果を生んだ。
こうしてブランデンブルクでは,17世紀の中葉まで貴族優位の身分制国家体制が続くが,この間に選帝侯ヨハン・ジギスムントJohann Sigismund(在位1608-19)は1613年カルバン主義に改宗,14年にはライン下流域の小領邦クレーベ,マルク,ラーフェンスベルクを,18年にはプロイセン公国を継承権にもとづいて獲得することにより,領土を拡大した。三十年戦争の際,ブランデンブルクは,スウェーデンの介入に対して最初のうち反抗的な態度をとったため,スウェーデン軍・皇帝軍の双方によって国土を荒らされ,ユンカーの勢力もかなり弱まった。
1640年に〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640-88)が即位すると,彼はフランス,スウェーデン,ポーランドなどの間で巧みな外交政策を展開し,ウェストファリア条約で東部ポンメルンを獲得したほか,60年にはこれまでポーランドの宗主権に服していたプロイセン公国に対する完全な主権をかちとって,北ドイツの強国としてのプロイセンの基礎をすえた。また,国内政治の面でも,ユンカーをはじめとする諸領域の特権身分の抵抗を排して,常備軍と租税制度を確立し,中央集権的な官僚行政機構の建設にとりかかった。1701年,選帝侯フリードリヒ3世(在位1688-)が,皇帝からプロイセン王フリードリヒ1世Friedrich Ⅰ(1701-13)の称号を授けられて以来,18世紀のあいだに,フリードリヒ・ウィルヘルム1世,フリードリヒ2世(大王)という2代のすぐれた国王のもとで,かつての選帝侯国ブランデンブルクは,絶対主義国家プロイセンの中核部分として,この王国の中へ発展的な解消をとげた。しかし,それと同時に,中世末期以来ブランデンブルク選帝侯の統治を特徴づけてきたユンカーに対する社会的優遇政策は,都市経済と市民階層の順調な発展を妨げ,絶対主義の時代をへて19世紀にいたるまで,プロイセンの政治・社会に深い刻印をのこしたのである。
1990年,ドイツ統一によってこの地域に新しいラント(州)としてベルリンとブランデンブルクが創設された。ブランデンブルク州の面積は2万9481km2,人口は257万(2004),州都はポツダム。
→プロイセン
執筆者:成瀬 治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ベルリンを中心にしてドイツ北東部からポーランド西部にかけて広がっていた歴史的地域。12世紀にブランデンブルク辺境伯領となり、プロイセン王国時代にはその中心的な一州をなした。第二次世界大戦後ポーランド領となったオーデル川以東地域を除いて旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)の一州となり、1952年には4県に分割されたが、1989~90年のドイツ再統一の過程でふたたび州として復活。現在はドイツ連邦共和国の一州。ベルリンが独立して一州となったため、現在はポツダムが州都。
[坂井榮八郎]
民族移動期以後この地はスラブ系ウェンド人の居住地となっていた。10世紀ザクセン朝のドイツ国王はエルベ、オーデル両川の間に辺境伯領ノルトマルクを設定し、またハーフェル河畔にブランデンブルク司教座を置いてウェンド人の平定とキリスト教化を図ったが、ウェンド人の抵抗により所期の目的は達せられなかった。1134年に辺境伯に封ぜられたアスカニエル家のアルブレヒト熊伯(ゆうはく)Albrecht der Bär(1100?―70)がようやくこの地に支配権を確立、1157年以降ブランデンブルク辺境伯と称した。以後アスカニエル家の下でドイツ人の植民が進められ、領土もオーデル川以東(ノイマルク)に広がった。この間スラブ人は大部分ドイツに同化したのである。
しかし1320年アスカニエル家が断絶したのち支配者が一定せず、辺境伯(1356年の金印勅書で選帝侯の資格が与えられた)の権力が弱体化する一方、都市や貴族領主の勢力が伸びた。ベルリン、フランクフルト・アン・デア・オーデルなどの都市はハンザ同盟に加わり、貴族領主は領邦議会に結集して君主権を制約した。1417年ホーエンツォレルン家のフリードリヒが辺境伯・選帝侯に任ぜられて以後、同家の支配下でふたたび君主権が強化された。都市の特権は奪われ、16世紀には宗教改革が推し進められて教会が君主権に服属させられた。三十年戦争中ブランデンブルクは戦火に荒らされたが、この間ホーエンツォレルン家は相続によってドイツ各地に多くの領地を獲得した(プロイセン、ポメラニア、マクデブルク、クレーウェ、ミンデンなど)。
これら諸領は当初それぞれが別個の領邦で、ホーエンツォレルン家の下に同君連合によって結合されていたにすぎなかったが、三十年戦争末期に即位した「大選帝侯」フリードリヒ・ウィルヘルムの下で常備軍の建設や中央統治機関の整備がなされ、また従来租税承認権を握って君主に対抗してきた各地の領邦議会が無力化させられて、統一君主国体制が整えられた。ブランデンブルクの領邦議会は1653年以後開かれていない。しかし貴族領主は君主権力の承認と引き換えに自己の領地に対する支配権を確認されてグーツヘルシャフト(広大な領主直営農場を中心とする領主制の一形態)を発展させたのであった。次代のフリードリヒ1世が1701年プロイセンの王位を得たことによって、以後ブランデンブルクの歴史はプロイセン王国の歴史のなかに解消する。しかしプロイセン王国の首都はベルリンであり、ベルリンを含むブランデンブルクは王国の中心であり続けたのである。
[坂井榮八郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ドイツ東北部のエルベ川からオーデル川に至る地域(同名の都市もある)。6世紀以来ヴェンド人が居住し,これに対抗するため10世紀以降ノルトマルク,12世紀以降辺境伯領が設けられた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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[スウェーデン戦争(1630‐35)]
皇帝勢力の北進は,北ヨーロッパでの勢力拡張をはかっていたスウェーデン王グスタブ2世アドルフの介入を誘発した。グスタブ2世はフランスの援助の確約をとりつけて,1630年6月ポンメルン(現,ポモジェ)に上陸し,新教派の有力諸侯ブランデンブルク選帝侯,ザクセン選帝侯の協力を得,31年9月にザクセンのブライテンフェルトBreitenfeldにティリを大敗させ(ブライテンフェルトの戦),南ドイツ,西ドイツへと進出し,31年にはボヘミアのプラハをも占領した。この劣勢に皇帝はワレンシュタインを再度皇帝軍総司令官に起用することに決し,ワレンシュタインは32年11月ライプチヒ近くのリュツェンLützenにグスタブ2世と会戦して,戦いには敗れたが,王を戦死させた(リュツェンの戦)。…
※「ブランデンブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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