17,18世紀フランスの宗教,政治,社会に大きな影響を及ぼした宗教運動。字義どおりには神学者ヤンセン(フランス名ジャンセニウス)が主張し,ローマ教皇によって断罪された恩寵に関する教義を指すが,ヤンセンの支持者たち(ジャンセニスト)はそのような意味におけるジャンセニスムは実体のない幻影であるとして,教会当局さらには国家権力に抵抗した。したがってジャンセニスムは,たんにヤンセンの教説の枠を越えて,いわゆるジャンセニストたちの信仰,思想,行動の総体を指す呼称である。換言すればそれは恩寵に関する神学思想であるばかりでなく,信仰の実践と道徳における厳格主義,さらに教会組織の内側からの改革を目ざす教会論とそれに伴う実践運動でもある。ここにジャンセニスムの複雑さと多様性がある。
神学思想としてのジャンセニスムは,後期アウグスティヌスの恩寵観を奉じて,一方では神の預定と恩寵の絶対性を,他方では原罪以後の人間の無力さを強調する。これは,ルネサンスと宗教改革に衝撃を受け,近代世界にどう対応すべきか模索していたカトリック神学の一つの極限的解答であり,キリスト教とヒューマニズムとの調和を図る近代主義的傾向--その代表がイエズス会である--の対極にある立場である。この両傾向は16世紀中ごろからしばしば論争を重ねてきたが,1640年ヤンセンの遺著《アウグスティヌス》の出版とともに論争は再燃し,53年同書から引き出されたと称する〈五命題〉がローマ教皇により異端宣告を受けた。これに対してヤンセンの友人サン・シランの指導を受けたポール・ロアイヤル修道院に集う人々は神学者A.アルノーを中心として,五命題そのものの異端性は認めながらも,それが《アウグスティヌス》中に見いだされることを否定することによって,彼らの目には正統アウグスティヌス的と見える恩寵論を擁護しようとした。パスカルが有名な《プロバンシャル》の論陣を張ったのもこの時であった。しかしローマ教皇庁,フランス司教団,王権の三者は結託して,五命題に関するローマの決定への服従を誓う〈信仰宣誓書〉の署名を全フランスの聖職者に要求し,これに抵抗するポール・ロアイヤルとその同調者にさまざまの弾圧を加えた。やがて政治上の理由から〈教会の和約〉(1669-79)と呼ばれる妥協が成立し,ポール・ロアイヤルはつかの間の平安と隆盛を味わった。この間ジャンセニスムはしだいに党派の様相を呈するに至ったが,アルノーの死(1694)後,その指導者となったのはケネルPasquier Quesnel(1634-1719)である。問題は18世紀に入ると再燃し,1709年にはポール・ロアイヤルが閉鎖され,13年にはローマ教皇の大勅書《ウニゲニトゥス》が発布されてケネルの教説を断罪するが,運動は鎮静化せず,ローマの決定に異を唱える多数の聖職者たちが公会議の開催を上訴するに至る。以後運動は急速に政治化してガリカニスムに接近し,高等法院と結んで絶対主義政治体制に批判的な一つの勢力として大革命まで存続したが,宗教的には奇跡,神がかり等の狂信的形態を取ることが多くなった。ジャンセニスムはこうして神学思想として出発しながら,聖職者の枠を越えて一般信徒に浸透し,その運動を通じて信仰と自由検討,宗教的政治的権威と良心の自由の関係をどう考えどう生きるかという難問を当時のカトリック教会とアンシャン・レジーム体制につきつけることになった。
→ポール・ロアイヤル運動
執筆者:塩川 徹也
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信仰上人間の自由意志よりも神の恩恵を重視するアウグスティヌスの思想を実践しようとして、17、18世紀にフランスを中心に展開された宗教運動。名称は、オランダの神学者ヤンセン(フランス語でジャンセニウス)に由来する。彼の同学の友、通称サン・シランことジャン・デュベルジエ・ド・オランヌJean Duvergier de Hauranne(1581―1643)は、ヤンセンとベリュルPierre de Bérulle(1575―1629)の感化を受けて、アウグスティヌスの思想に基づく司祭と信徒の意識変革を目ざしたが、宰相リシュリューの方針と相いれず、投獄され(1638)、リシュリューの没後に釈放されたが、まもなく他界。またサン・シランの指導下にあったポール・ロアイヤル修道院も王権とイエズス会から弾圧され、ついには王命により破壊された(1711)。彼の愛(まな)弟子アルノーは、ヤンセンの遺著『アウグスティヌス』(1640)に異端の五命題ありとするイエズス会士の告発に応じる教皇庁の裁定が出た際、ポール・ロアイヤルの隠士たちと協力してアウグスティヌス主義を擁護すべく論陣を張り、パスカルも『プロバンシアル書簡』(1656~57)を書いて参加した。当初純粋に宗教的であったこの運動も、ルイ王権による弾圧に抵抗する過程でしだいに政治的運動へと変質した。そして18世紀の民衆のジャンセニストである痙攣(けいれん)派を最後に、退潮の一途をたどる。しかし、地上の絶対主義権力に対抗してまで、伝統的な信仰と個人の内面の自由とに固執したジャンセニストの態度は、近代的良心への道を準備したともいわれ、思想、文学、芸術の各領域に及ぼした影響は計り知れないものがある。
[西川宏人]
『L・コニェ著、朝倉剛・倉田清訳『ジャンセニスム』(白水社・文庫クセジュ)』▽『L・ゴルドマン著、山形頼洋・名田丈夫訳『隠れたる神 下』(1973・社会思想社)』▽『中村雄二郎著『パスカルとその時代』(1965・東京大学出版会)』▽『支倉崇晴著「ジャンセニスム」(『フランス文学講座5 思想』所収・1977・大修館書店)』▽『E・モロ・シール著、広田昌義訳『パスカルの形而上学』(1981・人文書院)』▽『飯塚勝久著『フランス・ジャンセニスムの精神史的研究』(1984・未来社)』
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…ギリシア正教においても異端が生まれたが,ローマ・カトリック教会ではその後,中世11~15世紀にワルド派,カタリ派をはじめとする多数の異端運動が起こり,キリスト教会を動揺させた。また宗教改革以後も,カトリック教会内ではジャンセニスムなどの例をみることができる。教会の正統側は,異端の禁圧のため,しばしば凶暴性をおびる審問裁判(異端審問)を行ったり,軍事的掃討をくわだてるなど,多くの犠牲者を生んだ。…
…近代国民国家の成立とそれに結びついた地域主義,自由主義,世俗主義などの台頭に対して,カトリック知識人が示した教会の統一と権威を求める傾向の表現であった。すなわちガリカニスム,ジャンセニスム,フェブロニアニズム(ホントハイムJ.N.von Hontheimがフェブロニウスの名で表明した立場で,教皇は教会会議に従属すべきだとする),ヨーゼフ2世の宗教政策などの各国教会の独自性を主張する動きと対立するもので,とくに第1バチカン公会議では教皇の不可謬性に関する定義が発布されるように強く働きかける運動をした。広い意味では,ベルギー,ドイツなど一部キリスト教政党の傾向についても使われた。…
…38年政治,信仰上の複合的な理由からリシュリューの命で捕らえられ,42年釈放されるとまもなく没した。恩寵の働きを重視し,回心の必要を強調した彼の行動と教えはジャンセニスムの誕生と発展に決定的な影響を及ぼした。【塩川 徹也】。…
…法曹の家系に生まれ,ブールジュ大学に学び,弁護士を経て,1655年以降30年間,生地クレルモン・フェランの上座裁判所検事を務めた。同郷のB.パスカルとは生涯の親友で,ともにジャンセニスムの信仰擁護のために闘い,その最期には個人的書類を託されてもいる。彼の独創性は,ローマ法の諸原則を宗教的諸原理(神の愛)と時代の必要(隣人愛)の観点から,すなわち自然法的・合理的秩序に従って再構成したことにあり,この仕事がルイ14世に認められ,85年以降パリ近郊ポール・ロアイヤル修道院の隠士として著作に専念した。…
…また真空に関するトリチェリの実験の報が伝えられると,当時学界で論議の的であった真空の存在を確証するために種々の実験を試み,〈トリチェリの真空〉が大気の重さ,さらに一般的には流体の平衡に基づいて生ずる現象であることを明らかにし,いわゆる〈パスカルの原理〉を確立した。しかし科学研究と並行して,46年パスカルは家族とともに当時の宗教界に深い影響を及ぼしたサン・シランの弟子たちの感化を受けて宗教的自覚を体験し,後にジャンセニスムと呼ばれる傾向に接近する(第1の回心)。 47年健康を害した彼はパリに戻り,医者のすすめで気晴しの機会を求めたが,それは結果として宗教的情熱の減退をもたらすことになった。…
…その活動のなかには,新しい自然研究の奨励もあれば,商取引の促進もあった。
[ジャンセニスム]
だが,精神史的にみて少なくとももう一つ,見落とすことのできないカトリック・バロックの源泉として,ジャンセニスムがあった。ジャンセニストたちは,イエズス会士とは正反対にキリスト教信仰の純粋さを時代の現実からいわばみずから疎外することによって保持し,高めようとしたのである。…
…修道院は1635年からサン・シランの指導を受けるが,37年には彼の影響下に回心し現世での栄達を捨てて修道院の近辺に隠遁生活を送る男性信徒の小集団が成立し,以後ポール・ロアイヤルは両者の総称として用いられることになる。サン・シランを師と仰ぎ,その弟子A.アルノーを理論的指導者とするポール・ロアイヤルはカトリック宗教改革運動の一翼を担うが,他方ジャンセニスムの本拠地とみなされ,教権,俗権の双方から数々の弾圧を受け,1709年修道院は閉鎖され,運動は終りをつげた。しかしその間,ポール・ロアイヤルはその運動の担い手と関係者の中から,アルノー,パスカル,P.ニコル,ラシーヌといった著名な思想家,文学者を輩出し,フランス古典期の文化に大きく貢献した。…
…1617年祖国に戻り,ルーバン大学教授として研究,教育,大学行政に活躍し,36年にはイーペルの司教に任じられ,同地に没した。死後出版された主著《アウグスティヌス》(1640)において,イエズス会に代表される人間中心主義的神学とくにモリニスムに対抗して,神の絶対性を強調したアウグスティヌスの恩寵論を復興することを試みたが,これが激しい論争を引き起こし,彼はジャンセニスムの理論的始祖とみなされるに至った。ほかに《モーセ五書注解》《四福音書注解》,三十年戦争におけるフランスの対外政策を厳しく批判した《フランスの軍神》等の著作がある。…
※「ジャンセニスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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