ガリカニスム(その他表記)gallicanisme

改訂新版 世界大百科事典 「ガリカニスム」の意味・わかりやすい解説

ガリカニスム
gallicanisme

フランスカトリック教会が,教皇権の管理下から神学的・政治的に独立しようと試みた傾向とその根拠となった思想。フランスの古名ガリアに由来し,ガリカン教会主義国家教会主義ともいう。その主旨はP.ピトゥーの《フランス教会の特権》(1594)やモー司教ボシュエの《フランス教会の聖職者宣言》(1682)に次の4項目として要約されている。(1)国王は世俗的事項に関しては教皇の裁きを免れ,その臣下も忠誠義務を解除されない。(2)普遍公会議は宗教的事項に関して教皇職の上位にある。(3)フランスの伝統的宗規は教皇権をも拘束する。(4)信仰に関する教皇の決定は全教会の同意によってのみ不変なものとされる。

 中世フランスのカペー王朝は12~13世紀を通じ王権の向上をめざし,直轄領の増加や裁判権の集中につとめ,特に〈レガリア権〉(君主が空位司教座の聖職禄を取得し,その授与権を行使する特権)を確保することによって西欧諸国中最も早く聖俗両界にまたがる強力な封建君主に成長した。また12世紀のローマ法の復活期に専門的法曹(レジスト)を官僚制に組みこみ,メロビング朝以来のカリスマ的王権の伝統を強化し,教皇と最高権威の座を争うまでになった。14世紀初頭教皇ボニファティウス8世の神裁政治的教説に対抗するレジスト(パリのジャン,P.デュボアら)は王権が直接神より授けられたこと,聖職者は官僚として国家に服従すべきことなどを説いた。《平和の擁護者》(1324)の著者パドバのマルシリウス,ジャン・ド・ジャンダンらが教授であったパリ大学神学部はこの思想の温床となった。15世紀の教会大分裂時代に提唱された〈公会議至上主義〉はパリ大学のP.ダイイやJ.ジェルソンらの支持によりガリカニスムを補強する役割を果たし,百年戦争末期のフランス王シャルル7世はこの教説を《ブールジュ国本勅定》(1438)に盛りこんだ。16世紀以来パリの高等法院は〈政教協定(コンコルダート)〉の承認を,勅令登記の拒否によって阻止し,〈政治的ガリカニスム〉の牙城となった。宗教改革末期のトリエント公会議の宗規関係決議事項は,フランス王の〈ブロア勅令〉(1579)という形式でしかフランス教会に受けいれられなかった。絶対主義の極盛期をなしたルイ14世時代にガリカニスムも最高潮に達し,前記ボシュエの《宣言》が国法として公布され,神学校や大学で強制的に教えられた。フランス革命時代の〈聖職者基本法〉(1790)は聖職者の官僚化をおし進め,国家教会制度への道を開いたが,ナポレオンの没落後の王政復古時代には〈教皇権至上主義(ウルトラモンタニズム)〉と激しく対立し,七月革命以後カトリック教会が国教の地位を失ったことや,1905年以降の政教分離政策の実現によって事実上ガリカニスムはその存在理由を見失い,フランス教会は宗教的領域においてはローマ教皇権の下に復帰することとなった。
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百科事典マイペディア 「ガリカニスム」の意味・わかりやすい解説

ガリカニスム

〈ガリア主義〉〈ガリカン教会主義〉と訳。ローマ教皇からの独立を図ったフランス(古名ガリア)のカトリック教会の神学的・政治的立場をいう語。フランス主権伸長と中央集権化に軌を一にする傾向で,世俗的事項に関して国王が教皇の裁可を免れること,公会議が教皇権に優越することなどを主張する。ルイ14世の治下に最高潮に達し,ボシュエが代表的論者。1830年七月革命以降は衰退した。
→関連項目シャルル[7世]ジャンセニスム

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ガリカニスム」の解説

ガリカニスム
gallicanisme

フランス国家教会主義。カトリック教を守りながら教皇権の支配外にフランスの司教権を独立させる主張。起源は中世にあるが,顕著になったのは16世紀初め以後で,1682年パリの「ガリカニスム4条宣言」により,フランス王の教権からの独立,フランスの古来の習俗尊重,教皇の教会会議への服従および教会会議の承認を受けない教皇裁決の無効などを明らかにした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ガリカニスム」の解説

ガリカニスム
Gallicanisme

カトリック内において教皇権からの神学的・政治的独立をめざした,フランスにおける国家教会主義のこと
フランスの古名ガリアに由来する。王権の進展をねらうカペー朝以来主張され,ルイ14世時代に確立した。しかし19世紀にカトリックが国教の地位を失い,政教分離が進む中で,その意義を失った。

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世界大百科事典(旧版)内のガリカニスムの言及

【ウルトラモンタニズム】より

…近代国民国家の成立とそれに結びついた地域主義,自由主義,世俗主義などの台頭に対して,カトリック知識人が示した教会の統一と権威を求める傾向の表現であった。すなわちガリカニスムジャンセニスム,フェブロニアニズム(ホントハイムJ.N.von Hontheimがフェブロニウスの名で表明した立場で,教皇は教会会議に従属すべきだとする),ヨーゼフ2世の宗教政策などの各国教会の独自性を主張する動きと対立するもので,とくに第1バチカン公会議では教皇の不可謬性に関する定義が発布されるように強く働きかける運動をした。広い意味では,ベルギー,ドイツなど一部キリスト教政党の傾向についても使われた。…

【キリスト教】より

…以後各国の司教は総司教を通じて国王の統治に服し,時には教皇にそむいても国に忠誠をつくすようになった。教皇至上主義(パパリズム)に対して会議主義(コンシリアズム)が起こったのもこのころのことで,イギリスの神学者グロステストやオッカム(オッカムのウィリアム)が強く支持し,ガリカニスムを主張する国民主義的なフランス人もこれを受けいれた。捕囚はグレゴリウス11世の帰還で終わったとはいえ,フランスの枢機卿らはクレメンス7世(在位1378‐94)をアビニョンにおいてローマに対する対立教皇とし,1417年まで〈大離教〉と呼ばれるこの分離をつづけた。…

【宗教改革】より

… 第1は,教会大分裂の克服,教会統治の刷新をめざして開かれた,コンスタンツ公会議(1414‐18),バーゼル公会議(1431‐49)の両公会議に表現される,改革公会議運動である。これは,司教階層が中心となって,教会統治体制を,従来の教皇絶対主義から一種の立憲君主制に変えようとするものであり,15世紀中葉におけるガリカニスム(フランス国民教会主義)の成立が示すごとく,国王による中央集権化の努力とそれに伴う萌芽的なナショナリズムがこれと結びついていた。しかもこの体制改革運動の背後には,俗権と教権の分離を唱える神学者オッカムらの新しい教会統治理念が働いていたが,カトリシズムの中心的な教義内容に対する批判にまで進むことはなかった。…

※「ガリカニスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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