スキー(読み)すきー(英語表記)skiing 英語

デジタル大辞泉 「スキー」の意味・読み・例文・類語

スキー(ski)

雪上を滑走したり移動したりするために、両足につける細長い板状の用具。
雪上で1を用いて行うスポーツや競技。また、それを履いて雪上を滑ること。 冬》
[類語]ウインタースポーツスケートアイスホッケー

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精選版 日本国語大辞典 「スキー」の意味・読み・例文・類語

スキー

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] ski )
  2. 雪上を滑走したり移動したりするための用具。ふつう、木・合板・グラスファイバー・軽金属などで作られ、先端が上にそった一対の細長い板で、木部と靴を連結する部分とからなる。大別して一般用、距離競技用、ジャンプ用の三種がある。
    1. [初出の実例]「積雪地に於ける斥候、伝令等には『スキー』を使用せしむるを得」(出典:作戦要務令(1939)一)
  3. をつけてする運動や競技。《 季語・冬 》
    1. [初出の実例]「スキーにでもかぶるやうな毛糸帽子を耳まで引っかぶった」(出典:伸子(1924‐26)〈宮本百合子〉六)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スキー」の意味・わかりやすい解説

スキー
すきー
skiing 英語
Skilauf ドイツ語
ski フランス語

スキーは本来、北欧で積雪地の日常生活における移動手段として歩行や滑走あるいは滑降に用いられていたが、やがて雪の傾斜面を滑降することを主とする近代スポーツとして発達し、現在では冬のレジャースポーツとなった。競技については別項「スキー競技」参照。

 スキーの語源は、古代ノルウェー語のシーScheitに由来し、元は木を裂き割ったものを意味していた。

[福岡孝純]

スキーの歴史

起源

スキーの歴史は古く、有史以前にさかのぼるとされ、約5000~6000年も以前からスカンジナビア半島の西岸からベーリング海峡に至るユーラシア大陸に広く分布し、ほぼ樺太(からふと)(サハリン)、間宮海峡の沿岸からバイカル湖、さらに西に延びてデンマークを結ぶ線から北側の地域で用いられていた。このころのスキーは、極地型といわれる歩行専用のもの、北方型といわれる歩行・滑走兼用のもの、南方型といわれる滑降専用のもの、に大別される。北欧神話を収録した『新エッダ』には、スキーをする2柱の神、男神ウルと女神スカディーが伝えられるが、ウルは北方型のスキーを使用している。フィンランドの国民詩『カレワラ』にも記述がみられる。またバイキングはスキーを武芸の一つとして積極的に取り上げ、その伝承に寄与している。これらのスキー物語は、沼沢地で発見された古代スキーやルーン石碑あるいは中国の古い文献により事実関係が裏づけられている。

[福岡孝純]

近代スキーの誕生と発展

神話につながる長い過去をもったスキーは、北欧で文明社会につながっていき、1769年クリスティアニア(現在のオスロ)で最初の競技会が行われ、その周辺でしだいにスポーツとして取り上げられるようになった。このスキーを世界に広め近代スキーの端緒を開いたのがノルウェーの探検家ナンセンである。彼はラップランドの人々のスキー能力に着目し、自らもスキーを用いて、グリーンランドを東から西へ40日間で横断した。この壮挙はスキーの偉大な力を人々に知らせ、その著書『スキーでグリーンランドを横断する』(1891)は、多くの人々にスキーの魅力を伝えることとなった。

 スキー界のニュートンとも称されるオーストリアのマチアス・ツダールスキーMathias Zdarsky(1856―1940)は、ナンセンの著書を読んで大きな影響を受け、スキーを始めた。教師、画家、彫刻家、思想家であるとともに体操の名人であった彼は、33歳でリリエンフェルトの山中にこもってスキー研究に没頭し、6冬目の40歳のとき、山岳スキー術(リリエンフェルト・スキー滑降術)を案出した。それまでのノルウェー流の技術にはなかったシュテムを基本とする技術体系を確立したのである。最初の金属締め具を考案し、1本の長い杖(つえ)を使って、急峻(きゅうしゅん)なアルプスの山地に適したツダールスキーのスキー術は、北欧の緩い丘陵地に発達した、テレマークとクリスチャニアに重点を置く技術との間に激しい論争を起こした。両派はやがて互いの長所を認め合って交流するようになったが、これにはオーストリアの陸軍大佐ゲオルク・ビルゲリーGeorg Bilgeri(1873―1934)の努力に負うところが大きい。彼は両派の長所を生かしたアルペンスキー術を発表したが、ショートスキーの発案者でもある。

 ツダールスキーとビルゲリーらによって確立された、両杖を使い、ホッケ姿勢(屈身)を基本としたシュテム系技術はアルプス地方で盛んになり、ハンネス・シュナイダーHannes Schneider(1890―1955)によりアルペンスキーは大飛躍を遂げた。彼はオーストリア、シュトゥーベンの寒村に生まれ、17歳でスキー教師となり、第一次世界大戦中はスキー兵の速習に携わった。大戦後彼の才能は、ドイツの美術史家・映画監督で、当時山岳とスキー映画に新世界を求めたアーノルド・ファンクArnold Fanck(1889―1974)博士に認められ、シュナイダーらのアールベルク地方のスキー技術は映画『スキーの驚異』に結実されて全世界に紹介され、スキーのすばらしさが一般スキーヤーを魅了した。彼は『スキーの驚異(アールベルク・バイブル)』(1924)を出版し、ザンクト・アントンの彼のスキー学校はスキーのメッカとよばれるようになった。シュテムを基本とした彼のスキー術はアールベルク・スキーとよばれ、一般に普及した。また1928年イギリスのアーノルド・ランArnold Lunn(1888―1974)と協力して、アールベルク・カンダハー・レースを創出し、アルペン競技の基礎を築いた。

 一方、北欧では比較的地勢がなだらかなため、平坦(へいたん)地や丘陵のスキー術として距離競走とジャンプ(飛躍競技)が発達した。1880年クリスティアニアにスキー学校が設けられ、1883年にはノルウェー・スキー連盟が創設されて、ホルメンコーレンを舞台に、ジャンプと距離のノルディック競技が発展した。

[福岡孝純]

冬季オリンピックの開催

1924年第1回の冬季オリンピックがシャモニー(フランス)で開かれ、1928年サン・モリッツ(スイス)で行われた第2回大会でスキーが正式種目に採用された。この大会では、北欧種目(ノルディック)の長距離、耐久、リレー、ジャンプのみしか行われなかった。第3回のレーク・プラシッド(アメリカ)の大会も変化なく、1936年の第4回大会(ドイツ、ガルミッシュ・パルテンキルヘン)で初めてアルペン種目の滑降と回転が採用され、ここに、山岳で育ったアルペンスキー術は、いちおうの普及と技術的発達を遂げたのである。

[福岡孝純]

技術論争

高速を追求する競技は新しい技術を求める。オーストリアのホシェックとウォルフガングは、アールベルク・スキー術のようなシュテムを廃しパラレル(スキーを平行にする)の操作を主張し、これには強いローテーション(体の回転方向への回し込み=ひねり込み)と立ち上り抜重(ばつじゅう)が必要であると主張した。オーストリアのアントン・ゼーロスAnton "Toni" Seelos(1911―2006)は「シュテムの伝統のうえにたって」といいながらもこの「ひねり」を多用したテンポ・パラレルシュブンク(ゼーロスシュブンク)で圧倒的な成績(1933、1935、FISの回転、新複合優勝)を収めた。これに対しフランスの国立パリ・スキー学校のコーチをしていたクルト・ラインルKurt Reinlとトニー・ドゥツィアToni Ducia(いずれもオーストリア人)は、運動学からひねらないスキーを主張、同時期ミュンヘン大学のオイゲン・マティアス(ドイツ)とサン・モリッツのジョバンニ・テスタは、運動生理学的に傷害の面から安全なひねらない外向・外傾のスキーを主張した。一方、フランスではゼーロスの指導を受けたエミール・アレーEmile Allais(1912―2012)が、ひねる(回し込む)ローテーションのスキーを主張し、1937年にFIS回転、滑降、新複合で優勝し、この経験を「フランス・スキー術」として発表した。こうしてひねるひねらないかは大論争となったが、第二次世界大戦後の1950年代に入り、オーストリアの新人ノークラー、ガブル、シュピース、プラウダ、ザイラーAnton "Toni" Sailer(1935―2009)などが台頭し始め、フランスの優勢を崩し始めた。そこでオーストリアでは国立スキー教師養成所の教授クルッケンハウザーStefan Kruckenhauser(1905―1988)などが優秀な選手の滑りについて、国を問わずに高速度映画で撮影し比較検討分析した。この結果、優れた選手はみな共通の動作をしており、それらは脚部の動きが主体となっている動き(バインシュピール)であることが解明された。第7回冬季オリンピック(コルティーナ・ダンペッツォ大会)の三冠王であるザイラーは典型的にこの技術を使ったほか、これ以後の世界的に著名な選手、ジャン・クロード・キリーJean-Claude Killy(1943― 。フランス、第10回グルノーブル大会三冠王)、1970年代前半のグスタボ・トエニGustavo Thoeni(1951― 。イタリア)、1970年代後半のインゲマル・ステンマルクIngemar Stenmark(1956― 。スウェーデン)らはみなこのバインシュピール系統の技術を取り入れている。その後用品・用具のイノベーション(革新)が相次ぎ、とくにアイスバーンに対応して、短いがサイドカーブのきついカービングスキーが取り入れられた。現在のレースは100分の1秒のスピードを争い、より最適の技術を求めて各国がしのぎを削っている。一方、バインシュピール技術はその安全性と機能性から世界中に広まり、レジャースキーの発達に寄与している。レースのスキーが人間の体力限界に挑む高度な専門的機能を追求するのに対して、一般のスキー技術は高度な技術を取り入れながらも傷害の危険の少ない、安全でかつ疲れない快適なスキーを指向するようになった。スキーの楽しみ方も多様化し、単にピステ(整備されたスキーコース)のみにとどまらず、オフピステにも拡大している。

[福岡孝純]

日本のスキー

最初にスキーについて記録を残したのは間宮林蔵である。彼は1808年(文化5)から北辺を調査し、沿海州に至っているが、その紀行に先住民のスキーについて記している。また、雪国には「かんじき」という踏雪具もあったが、スキーはヨーロッパ経由で輸入されるまで知られなかった。系統的にスキーが指導され日本に定着したのは、1911年(明治44)にオーストリアの参謀少佐テオドール・エドラー・フォン・レルヒTheodor Edler von Lerch(1869―1945)が新潟県高田(現、上越市)の歩兵五八連隊にスキーを指導したことから始まる。これ以前にも紹介されてはいたが、普及までには至らなかった。レルヒはオーストリアの武人の家柄で、ツダールスキーの弟子であった。翌1912年1月21日に初の競技会が高田の金谷山(かなやさん)で行われた。2月11日には越信スキークラブの発会式が行われ、陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)が開会のスピーチでスキーの有益性を強調している。日本のスキーは軍隊から始まったが、本意は雪国を雪の重圧から解放し、体育振興を図ることにあった。

 スキーはしだいに普及し、1923年(大正12)2月10日小樽(おたる)で第1回全日本選手権大会が開催された。1925年には全日本スキー連盟(SAJ)が結成され、翌年国際スキー連盟(FIS)へ加盟するといったように急速に内外の体制が整備されていった。1928年(昭和3)にはサン・モリッツの第2回冬季オリンピック大会に5名の選手団が参加、翌1929年の冬にはノルウェーの中尉オラフ・ヘルセットOlaf Helset(1892―1960)一行3名を招き、ジャンプと距離競技に多くのアドバイスを受けた。1930年成城学園(小原国芳(おばらくによし)園長)の招きでシュナイダーが来日し、1か月間講演と実地指導にあたり、アールベルク・スキーの真の姿を伝えた。スキーは一般にも普及し、スキー列車が出されたり講習会が行われて、スキー人口が増大した。

 1937年には伊吹山で全日本スキー連盟の主催する最初の本格的な滑降、回転の全日本選手権が行われた。1939年にはスキー連盟が一般スキーの指導者制度を確立し、その指導に乗り出した。技術的にもスキー界はヨーロッパと同じ流れをたどった。したがって日本でも第二次世界大戦後、ひねるスキーとひねらないスキーの論争が起こった。戦後の数年は外傾のひねらないスキーが行われていたが、ふたたびフランス・スキーが取り入れられ、この傾向は1954年(昭和29)にフランスからピエール・ギョーとアンリ・オレイエHenri Oreiller(1925―1962)が来日したことによりピークに達した。しかし、世界的な傾向となった外傾のバインシュピール技術が、選手の海外遠征を通じて採用され国内にも反映し始めた。1956年にコルティーナ・ダンペッツォ(イタリア)で行われた第7回冬季オリンピック大会で、猪谷千春(いがやちはる)がスラローム(回転)で2位になり、スキーで日本初の入賞と銀メダルをかちえて、国民のスキーへの関心をかき立てた。同大会でアルペン3種目に優勝したオーストリアのトニー・ザイラーとヨスル・リーダーの1957年の来日は、日本のスキー技術をひねらないバインシュピール技術へ導いた。この年『オーストリアスキー教程』が福岡孝行(たかゆき)(1913―1981)により世界で初めて翻訳紹介され、翌1958年の1月アールベルク・スキー学校長のルディ・マットが来日し、最新の技術をわかりやすく教示した。こうしてレルヒ、シュナイダー、マットと続くオーストリアのスキー術、とくにバインシュピール技術は一般にも広まりつつあったが、これに決定的な流れを与えたのが、成城、玉川の両大学と日墺(にちおう)スキー友好協会が招待したオーストリア国立スキー教師養成所のクルッケンハウザー教授の1963年の来日である。その完全な指導法と方法論の展開により、日本のスキーはヨーロッパの一般スキーヤーと比肩されるまでになった。1972年札幌で第11回冬季オリンピック大会が開かれ、日本がジャンプの70メートル級で笠谷幸生(かさやゆきお)(1943―2024)の1位のほか2、3位を独占し、ノルディック種目もポピュラーなものとなった。

 また、1988年の冬季オリンピック(カルガリー)で公開競技になったのがきっかけとなり、モーグル(急斜面のこぶコースを滑降するスピードと途中2回のジャンプを競う)やエアリアル(特設のジャンプ台を利用して、回転やひねりなど空中演技を競う)といったフリースタイルスキーが、日本でも一般に知られるようになった。1998年(平成10)の長野冬季オリンピック大会では、女子フリースタイルスキー・モーグルで、里谷多英(さとやたえ)(1976― )が優勝、競技人口が増えつつある。

[福岡孝純]

一般スキーの現況

現在、スキーは競技ばかりではなく国民の冬季のレジャー、スポーツとして重要な役割を果たしている。これに伴いスキー指導者の役割はますます重要になってきた。全日本スキー連盟は指導者の質を高めるために1965年国際スキー教育連盟に加盟し、同連盟のインタースキー(国際スキー教育会議)のバドガシュタイン(オーストリア)大会から積極的に参加、情報や人的交流を行い国際化を図っている。デモンストレーター・チームを送ったり講演発表や意見交換を活発に行い、現在では理事国に選ばれ、三つの部会(職業スキー教師、アマチュア指導者、学校教育スキー指導者)に役員を派遣している。また、1979年山形県の蔵王(ざおう)で日本では初めての第11回のインタースキー大会を開いた。さらに1995年(平成7)には長野県の野沢温泉村で第15回目の大会が史上最大の規模で開かれた。1998年には同じ長野県で第18回オリンピック冬季大会が開催された。

 スキー人口はバブル経済の崩壊もあり、1993年の1850万人をピークに減少を続け、2010年(平成22)には570万人と3分の1程度まで激減した。これには情報通信機器、AV機器の普及等が原因とされている。一方、1990年代から盛んになったスノーボードは若者を中心に支持を広げ、200万人の活動人口まで増加した。2010年ごろからスキーもふたたび自然回帰の動きが出ており増加に転じつつある。しかし、日本のスキーは依然技術指向が根強く、ヨーロッパなどのリゾート指向と大きく異なっている。一般スキーヤーが安全で快適に、健康やレジャー、あるいはスポーツとして生涯にわたりスキーを行える環境を整備することが、今後は競技力の向上施策以上に重要なこととされている。

[福岡孝純]

スキー技術と指導法

現代のスキー技術は多様化、専門化している。スキーヤーの行動動機が能力(競技)指向、健康指向、レジャー指向と分化してきたためである。スキーの技術もその指向する動機により異なるが、最近はレジャー活動としてのスキーが盛んで、これらのスキーは一般スキーあるいは基礎スキーとよばれ、競技スキーとは区別される。高速リフトや人工降雪機など機械力の発達、スキー場の整備、指導法あるいは用品用具の発達により、今日ではだれでも手軽にスキー技術をマスターできるようになってきた。カービングスキーの普及はこの傾向に拍車をかけた。

[福岡孝純]

スキー技術の構成

スキー技術の3要素はバランス、スキー(板)を回すこと、舵(かじ)をとることで、初歩的な動作からむずかしい動作へと順次移行し練習することが必要である。初心者は性急に最先端の技術を求めがちだが、簡単な動作から複雑な動作へ、荒削りの動作から洗練された動作への移行が望まれる。最近はシンプル・イズ・ベストから楽なスキーへと指導法が変化するなかで、技術や指導法が簡易化されているが、その要点は次のとおり。

(1)スキーにしっかりのるバランスの習得。

(2)スキーの舵をとりながら回すこと→基本ターンの習得。

(3)基礎課程と上級課程との関連をつける。

(4)地形、機械力の適切な選択・利用(カービングスキーの活用も含む)。

(5)技術・到達目標・練習形式・用具などは、年齢・体力・性別などに応じて区別し、画一的プログラムを押し付けないことなどである。

[福岡孝純]

スキー技術の実際

スキー技術は初歩的動作である歩行・登行からプルークに入り、すぐにプルーク・ボーゲンに導入、これをマスターしたら、シュテム、パラレル、ステップの各ターンへとアプローチする。ベーシックなシュテム・ターンがマスターできれば、あとはリフトや地形、斜面を上手に利用し楽しみながら上達が可能である。

〔1〕初歩動作 スキー板をつけて雪に慣れるために、平地で雪を押さえ踏み締めるようにして歩く。スキー(板)を雪面から離さない。ハの字形にして歩いたり平行移動したりしながら、ストックの使い方、傾斜地への対応(角付(かどづけ)登行)、歩行変換(ハの字形にして向きを変えていく)を習得。

〔2〕プルーク スキー(板)をテールを開いた形(V字形)にして軽く内側のエッジを立てて滑る。

〔3〕プルーク・ボーゲン すべてのターンの基礎となる回転技術で、スキーをV字形にしたままで曲がりたい方向の反対側のスキー(山スキー、外スキー)を軽く押し出すようにすると容易に曲がれる。連続ターンの練習をしてリズミカルに外スキーを押し出して回る。

〔4〕シュテム・ターン シュテム・クリスチャニアともいう。始めはプルーク・ボーゲンと同じ要領で行うが、ターンの後半に内側のスキー(山スキー)を外スキーにそろえて平行にする。この瞬間の姿勢を基本制御姿勢という。かつては斜滑降あるいは横滑りの姿勢とよばれた。次のターンはこの姿勢から反対側のスキーを押すようにV字形に開き出して行う。要領はプルーク・ボーゲンと同じ。

〔5〕パラレル・ターン 基本制御姿勢(斜滑降または横滑り)から反対側の同じ姿勢へと両スキーを平行にしたままで行うターン技術。要領はスピードによるターンの遠心力をうまく利用し、両スキーを押さえるようにして雪面からの反力を利用しスキーを脚でひねるように回していく。軽い上下動も有効である。ターン中、姿勢は遠心力に対応するため軽い「くの字」(上体が立ち下半身が内側に傾いた)姿勢となる。カービングスキーの普及に伴い技術の習得は驚くほど容易になった。

〔6〕ステップ・ターン パラレル・ターンをより積極的に行えばステップ・ターンとなる。ステップとは踏み換えあるいは乗り換えの意味で、基本制御姿勢からターンの始動をする際にスキーを踏み出すようにする。踏み出し方によりシュテム、パラレル、シェーレ(鋏(はさみ)状形)に分類される。今日のレーサーの滑りはステップ・ターンが多用されている。

〔7〕ウェーデルン 上半身はあまり動かさず、下半身(とくに脚部)を犬が尾を振るように左右に軽快に動かす連続小回りクリスチャニア。第二次世界大戦後アルペン競技から生まれた技術だが、一般にも普及した。リズミカルな動きなので、新雪や雪の回転抵抗の多いとき、急斜面などその応用範囲も広い。前のターンの終わりが次のターンのきっかけになる。

[福岡孝純]

スキーの検定

一般スキーヤーが自分の能力を客観的に評価できるような各種の検定制度がある。もっとも一般的なものがSAJの行っているバッジテストで、技能テストの形式をとっている。1級から5級までの段階があり、数字の少ないほど上級である。そのうえにテクニカルプライズ(準指導員と同等の技能)、クラウンプライズ(指導員と同等の技能)のバッジがある。ジュニアには1級から6級までがある。さらに、一般スキーヤーで指導者を目ざす人のために、SAJの指導員・準指導員の検定制度がある。指導員検定には技能のみならず、指導する能力が要請され、スキーに関する理論もその対象となっている。このほかSIA(日本職業スキー教師協会)の行うスキーテストおよび教師・助教師の認定がある。

[福岡孝純]

環境とマナー

最近のスキー場はロープウェー、リフトなどの交通機関が発達し大規模なものが増えてきた。そのためスキーヤーは技術がなくても山上へ登ることができるが、滑降してくるときは、それぞれの能力に見合ったコースを選択する必要がある。スキーの傷害のほとんどを占める衝突事故を防ぐためには、スキーのセルフコントロールとマナーが厳しく要求される。そのため、必要な措置として、(1)用具を正しく調節する、(2)斜面の途中でスキーヤーの流れに逆らって急停止しない、(3)メインのコースに横から飛び出さない、(4)無理な追い越しをしない、(5)転倒したらできるだけ早く起きコースをあける、(6)先の見えない見通しの悪い所はスピードを落とす、(7)コース以外の所にみだりに立ち入らない、(8)停止している人のわきを高速で通過しない、などがあげられる。一方、スキーヤーのマナーとともに重要なことはスキー場の整備で、ゲレンデは、凹凸やこぶなどを平らにし、スキーコースごとに適切な表示、たとえば、指示(能力別コース分類)、誘導(地理的方向性)、注意(危険箇所)などの管理がある。要は各自がスキー場を公共のスポーツエリアとして考え、だれもが楽しくスキー活動を行おうという態度が基本的に要求される。最近衝突事故の多いヨーロッパではスキーヤーにヘルメットの着用を勧めている。

[福岡孝純]

スキー用具

一般にスキーの用具として、スキー本体(板)、スキー靴、バインディング(締め具)、ストック、ウエア、サングラス(ゴーグル)、手袋(グローブ)などが必要である。使用する用具も最近では専門化の傾向が著しく、それぞれ目的別・行動別に最適のものを選ぶ必要がある。

[福岡孝純]

スキー板

競技用(アルペン、ノルディック、フリースタイル)と一般用に分けられる。

 競技用は、アルペンでは滑降用(比較的前半部が軟らかく、長くてスピード追求型)、回転用(短めでシャープに回転しやすい性質)、大回転用はその中間の性質のものが用いられる。ノルディックは、ジャンプ用(空中安定を得るために重くて長く、滑走面は直進性向上のため3本の溝がある)と、距離(クロスカントリー)用の軽く、細くて走りやすいものに大別される。現在のスキー板はほとんどが芯(しん)材として合板やプラスチック材(主としてウレタン)やアルミニウムのハネカム材を用い、その上・下面にグラスファイバーのシートや、上面にメタル(ジュラルミンなど)を使用している。最近はカーボンファイバーやケブラーなどの新素材が多用される傾向にある。

 1990年代からあらゆるスキーの領域でカービングスキーが普及し、スキー(板)の長さは全体的に劇的に短くなり、身長より短めのスキーを使用することが普通となっている。カービングスキーは前部と後部が幅広く中央部が細く、スキーの曲率半径が大幅に小さくなりターンしやすくなっている。このほかにもさまざまなニーズに応じて多様なスキーが選べるようになってきた。

[福岡孝純]

スキー靴

ほとんどがプラスチックの一体成型で、インナーブーツを内装している。一時は後方から足入れするリヤ・エントリー式が多かったが、現在ではほとんどが機能重視のフロントバックル型となっている。保温や操作性も向上している。よくフィットし指先にゆとりのあるものがよいとされる。上級者ほど高め(ハイバック)で固めのシェルのものを使用する。

[福岡孝純]

バインディング

傷害の危険がある強いショックを受けると外れるセーフティーバインディングがほとんどである。ビンディングともよばれる。主流はステップイン(踏み込み)式で、トーピースに靴の先端を入れ、ヒールの部分は踏み込むだけで固定される。このほかレバー(ワンタッチ)式やプレート式(ブーツの下にプレートが前後に通っている)もある。専門知識・技術をもった者による正しいアジャストが傷害予防には必要である。

[福岡孝純]

ストック

ほとんどがアルミニウム、ジュラルミンやカーボンファイバーのテーパー仕上げとなった。性能は甲乙つけがたいが、バランスのよいものが必要。長さは、逆に立ててリングが腰の辺りになる短めのものがカービングスキーには適当。

[福岡孝純]

ウエアその他

用具のほかに必要な用品としては、帽子、サングラス(ゴーグル)、アンダーウエア(タートルネックシャツ、タイツ)、アノラック(ウィンドブレーカー)、ジャケット(ダウン、キルト)、スキーパンツ、手袋など種々あるが、スキー行の規模・目的などにより調える。ウエア類は機能とくに保温性、活動性、防水・防風性などに重点を置く。なお、クロスカントリーにはそれぞれ専用のものがある。

[福岡孝純]

『福岡孝行・福岡孝純著『スキー』(1976・ベースボール・マガジン社)』『日本職業スキー教師協会編『SIAスキー教程』(1996・実業之日本社)』『全日本スキー連盟編『日本スキー教程』(1998・スキージャーナル)』『全日本スキー連盟教育本部編著『教育本部 スキー指導と検定 2013年度』(2012・スキージャーナル)』『日本職業スキー教師協会著『SIA公式スキー&スノーボードメソッド』(2012・芸文社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「スキー」の意味・わかりやすい解説

スキー
ski

雪の上を歩いたり滑ったりするために,両足にそれぞれはいて用いる1対の板状の道具,およびこれを用いて行うスポーツをさす。スキーという名称は,もともとスカンジナビア地方から出た言葉で,現在のスキーの形式および使用法は,スカンジナビアの国々で進歩発達したものである。

スキーは元来は雪上でトナカイなどの野獣を狩るための交通手段として利用されていた。16~17世紀には北欧とロシアにおいて軍隊の交通手段に盛んに使われた。19世紀にはいり,とくにノルウェーでは楽しみのためのスキーが非常な人気を集めて近代スキー発祥の地となる。首都クリスティアニア(オスロの古名)から西へ約270km,テレマーク地方のモルゲダールに住むノルトハイムSøndre Nordheimは,1840年ころ,斜面に着地するジャンプを試みるとともに,締具を改良して体重の移動によるターンを可能にし,急斜面でも深い雪でも自由に滑り降りた。68年には仲間らとクリスティアニアでその技術を披露し,片足を前に出して両膝を曲げた大半径のターンはテレマークの名で普及,1930年代まで使われた。最初のレースは1866年,ジャンプ競技会は77年に開催されている。これは,のちに有名なホルメンコーレン大会(ノルウェー選手権大会)として受け継がれていく。北ヨーロッパの丘陵で発達した技術は,距離競技とジャンプに大別できるが,合わせてノルディック種目Nordicと呼ばれる。

 北ヨーロッパのスキー術はついでアルプス地方に伝えられた。おりからグリーンランドをスキーで横断したF.ナンセンの手記も出版され(英語訳1890,ドイツ語訳1891),これに刺激されたオーストリアのズダルスキーMattias Zdarsky(1856-1940)は,リリエンフェルトの山小屋にこもって実験をかさね,アルプスの急峻な斜面に適応できるスキー術を開発し,軍人に教えた。リリエンフェルト派といわれるもので,長い1本づえを用い,シュテムボーゲン(スキーのテールを開く制動による回転)を基本にしている。ノルウェー派とリリエンフェルト派の優劣をめぐる論争も起きたが,やがて両派は長所をとり入れ合い,オーストリアのアールベルクのスキー教師H.シュナイダーアールベルク派といわれるアルプス・スキー術にまとめた。これがアルペン競技Alpineの基本技術で,アレーÉmile Allaisを中心とするフランス派なども現れて,アルペン競技はドイツ,スイスを含め発展していく。

 1924年には国際スキー連盟Fédération internationale de ski(FIS)が結成され,同年の第1回オリンピック冬季大会(シャモニー)にスキーも登場したが,男子ノルディック種目のみであった。アルペン種目は36年の第4回大会(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)から行われるようになった。1926年から連盟主催の世界選手権大会(31年からアルペン種目開設)が開かれ,67年からは民間のスポンサーによるワールドカップが始まった。これはシーズン中に各地を転戦する方式で,初めはアルペン競技であったが,のちにノルディック競技,さらにフリースタイルも登場した。

日本に近代スキーがもたらされたのは1890年代であったが,組織的なスキー指導は,1911年1月,オーストリア・ハンガリーの陸軍少佐T.E.vonレルヒが,新潟県高田(現在の上越市)にあった歩兵第58連隊の営庭で,鶴見大尉ら14名のスキー専修員をコーチしたのが最初である。レルヒはズダルスキーの弟子で,物干竿のような長い1本づえを使うリリエンフェルト・スキー術の名手であった。翌年にはレルヒは北海道で教えた。これより少し前の1908年,札幌の東北帝国大学農科大学(現,北海道大学)のハンス・コラー講師は,2本づえスキーを持ち込み,学生に紹介したという。その後は,主としてリリエンフェルト派が信越地方で,ノルウェー派が北海道で普及していった。

 1923年に第1回全日本スキー選手権大会が小樽で開かれ,ホルメンコーレン大会を参考に2本づえのスキー術で,距離1km,4km,10km,8kmリレー,ジャンプ,テレマーク,クリスチャニアの7種目が競われた。ところが,山の上から滑り降りることしか知らなかった信越地方の選手は,ジャンプや山野を走り回る競技に猛反対したという。全日本スキー連盟は25年に発足,その翌年FISに加盟し,28年のサン・モリッツ冬季オリンピック大会に初めて選手団を送った。翌29年にはノルウェーから講師を招き,30年にはアールベルク派のシュナイダーが来日して全国を巡回するなど,日本のスキー術も急速に向上した。32年の第3回オリンピック冬季大会(レーク・プラシッド)で安達五郎がジャンプで8位,36年(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)には伊黒正次がジャンプで7位にはいった。第2次大戦後の56年の第7回大会(コルティナ・ダンペッツォ)には猪谷千春が回転で2位に入賞した。1位のオーストリアのザイラーToni Sailerは,大回転,滑降でも優勝し,アルペン三冠王となった。72年には札幌でオリンピックを開催,70m級ジャンプで笠谷幸生,金野昭次,青地清二が金,銀,銅メダルを獲得,ジャンプ王国ノルウェーを破って完勝した。80年の第13回大会(レーク・プラシッド)には70m級ジャンプで八木弘和が銀メダルを獲得した。

 ノルディックの複合競技団体は92年アルベールビル・オリンピックで初の金メダル(三ケ田礼一,河野孝典,荻原健司),94年リレハンメル・オリンピックでも連続優勝(河野,阿部雅司,荻原健司)。さらに93年(河野,阿部,荻原健司),95年(阿部,荻原次晴,荻原健司,河野)と世界選手権で連勝し,通算4連勝した。個人複合では93年と97年の世界選手権で荻原健司がともに1位に輝き,リレハンメル・オリンピックでは河野が銀メダルを獲得した。これに呼応するかのようにジャンプも低迷期を脱し,まず93年世界選手権のノーマルヒルで原田雅彦が72年以来の金メダルを日本にもたらし,リレハンメル・オリンピックではラージヒル団体で銀メダル(西方仁也,岡部孝信,葛西紀明,原田)を獲得した。97年の世界選手権では宿願の優勝(安崎直幹,斎藤浩哉,西方,岡部)を手中におさめた。またノーマルヒルでは岡部,斎藤が1,2位を独占,97年の世界選手権では原田がラージヒルで優勝した。98年の長野オリンピックでは船木和喜がラージヒルで金メダル,ノーマルヒルで銀メダル,原田がラージヒルで銅メダルを獲得,ラージヒル団体でも優勝(岡部,斎藤,原田,船木)した。一方,フリースタイル・スキーのモーグル女子では,長野オリンピックで里谷多英が優勝。日本の女子選手が冬季オリンピックで初めて獲得した金メダルとなった。

 なお,日本スキー連盟は他の競技団体と異なり,競技者でない一般人もメンバーに加え,技術の向上につとめている。

種目によってコースも競技方法も異なるが,ジャンプ以外は自然地形を利用したコースで行われる点がスキーの特徴である。そのため,安全を確保し,天候や雪質による条件差を減らすことが必要で,隔時スタート法やシードによるグループ分けなどが考案されている。また,電気計時の採用も陸上競技より早い。ノルディック,アルペンの両種目のほかに,フリースタイル・スキー,スノーボード,バイアスロンがある。

距離(クロスカントリー),ジャンプ,複合に分かれるが,女子部門は距離競技のみである。

(1)距離競技cross-country スキーレーシングski racing,ラングラウフLanglaufともいう。一般には5~50kmを走るが,短距離で争うスプリント,4人で走るリレーもある(オリンピック,世界選手権で行われる種目には,男子のスプリント,10km,15km,30km,50km,40kmリレー,女子のスプリント,5km,10km,15km,30km,20kmリレーなどがある)。そのコースは選手の能力をフルに発揮させるように,上り,下り,平地の三つをほとんど同じくらい入れて,変化に富んだものにする。身体の機能を考えると,スタート直後は比較的楽なものにし,急なターンや急な下りも好ましくない。コースには標識があって進行方向を示し,関門を設けて選手の通過を確かめる。追い抜く合図があってもコースをあけない選手は失格となる。30km以上の競技では,飲物や軽い食事を用意した給食所を途中に設ける。

(2)ジャンプ競技ski jump ジャンプ台(シャンツェ)の助走路(イン・ラン)を高速で滑り,踏切台で空中へ跳び出し,空中に放物線を描いて,飛型と飛距離を競う。空中の前半ではスキーを上向きにし,放物線の最高点をできるだけ前方にするように,ついで,身体の前傾角度を深くして失速を避ける。着地は片方の足を前に出し,テレマーク姿勢をとる。助走路で定められた地点より上からスタートすると失格,助走路で転倒すると飛型点はゼロになる(失格ではない)。飛距離とは,踏切台から着地点までの距離をいい,オリンピックや世界選手権などではノーマルヒル,ラージヒルの大小2種のジャンプ台を使用する。飛距離は点数に換算して,飛型点(5人または3人の審判員が20点満点で採点)と合算して順位を決める。さらに高い台を使って長い距離を飛ぶ競技はフライング競技ski flyingと呼ばれる。

(3)複合競技Nordic combination 距離とジャンプの複合競技。個人,団体,スプリントの3種目で行われる。ノーマルヒル2本のジャンプの得点(スプリントはラージヒルで1本)と,通常は翌日の距離15km(スプリントは7.5km)を得点化し,その合計点で順位を競う。瞬発力と持久力を必要とする難しい種目で,複合優勝者はスキーの王者といわれる。

滑降,回転,大回転からなり,いずれも所要時間のみを競う。なお新たにスーパー大回転,複合(滑降と回転),スーパー複合が加わっている。

(1)滑降競技downhill 高速でのスキー技術,優れた敏しょう性,集中力の持続性,勇気などをテストするレースといわれ,瞬間時速は100kmを超える。高速で危険なため公式練習が義務づけられ,競技と同じ時間,同じ条件で行われる。コースは標高差800m以上,女子は500m以上を必要とし,タイムが男子は2分,女子は100秒くらいになるのが適当とされる。そして連続した下り斜面で,長いジャンプを含まず,ターンする地点のコースの外側は必ず高くなっていること,危害予防のネットなどをつける,などの規定がある。傷害予防用のクラッシュ・ヘルメットを着用する。

(2)回転競技slalom 男子が標高差180~220m,女子は130~180mで20~27度くらいの変化に富んだ斜面に,55~75(女子は45~60)の旗門gateを配列し,流れるようなターンが安全かつ迅速に行えるように構成する。雪面の条件を一定に保つため,コースをアイスバーン状に固める。旗門は上部に旗をつけたプラスチックのポール2本からなり,旗門の広さは4~6m,次の旗門との間隔は0.75m以上とする。旗門通過の判定は非常に難しいのでビデオかフィルムに記録し,判定に備える。試技は2回行われ,その合計タイムで順位を競うが,同じコースを2回滑る場合と異なったコースを滑る場合とがある。

(3)大回転giant slalom リーゼンスラロームともいう。滑降より大半径のターンを多くし,回転に比べ小半径のターンは少なくする。コースの標高差は男子250~400m,女子が250~350m,旗門の広さは4~8m,間隔は10m以上,旗門数は標高差の15%,2回の試技の合計タイムを競うのが原則である。さらに滑降に近い性格のものとして,オリンピックやワールドカップではスーパー大回転を採用している。旗門の広さ6~8m,間隔は15m以上である。ほかにも,パラレルスラロームと呼ぶ,並行に設定された二つのコースを同時スタートで滑走する競技がオリンピックやワールドカップで行われている。標高差80~100m,旗門数20~30である。

フリースタイル・スキーは,1924年オーストリアで発刊されたスキー指導書の中で基本要素が紹介されたのがルーツといわれている。国際スキー連盟は79年に世界各地の組織を吸収して傘下にフリースタイル・スキー委員会を開設,86年から世界選手権を男女のバレエballet skiing,モーグルmoguls,エアリアルaerials,3種目複合の4種目で開いた。また冬季オリンピックでは88年の公開競技に続いて92年には男女ともモーグルのみが正式種目に昇格,94年には男女のエアリアルも正式種目となり,98年の長野大会は男女ともこの2種目での開催となった。日本でも全日本スキー連盟が80年にフリースタイル・スキー委員会を設置,翌81年から全日本選手権が開催されている。

スノーボードはアメリカで誕生した競技である。その後日本でもポピュラー化し,1982年に日本スノーボード協会が設立された。94年には国際スキー連盟が世界各国のスノーボード組織を吸収し,日本でも直ちに日本スノーボード協会が全日本スキー連盟に加盟した。世界選手権は96年から開催されており,第1回はハーフパイプ,パラレル回転,大回転の3種目,翌97年にはスノーボードクロスが追加された。オリンピック正式種目となったのは長野大会(1998)からである。全日本選手権は95年から開かれている。

スキーは用具の改良とともに記録も向上した。操作がしやすくなって回転も楽になり,安全性も進歩したため,スキーを楽しむ人は増加する一方である。

 スキーの本体は,もとは木材の単体でつくられていた。イタヤ,ナラ,カバ,カシ,トネリコなどの弾力性のあるものが用いられ,北アメリカ産のヒッコリーが最良とされたが,1930年代には合板のものが開発され,50年代には表面に合成樹脂や軽合金の薄板を貼ったもの,グラスファイバーを芯にしたものが出現し,現在はこれらの長所をとり入れたものが各種つくられている。なお,ジャンプ用は長く,幅広く,重い。距離用は幅が狭く,軽い。

 スキー靴は革製の編上げであったが,60年代に改良が加えられ,70年代には合成樹脂製の固い靴で,内側は足をすきまなく確実に保持するものが考案され,深さも増したこととあいまって,身体の微妙な動きが直接スキーに伝えられるようになった。今後は,歩きやすくすることと軽量化が望まれる。クロスカントリー用の靴は,軽く,浅く,陸上競技のスパイクシューズに近い。

 締具はスキーと靴を結びつけるもので,アルペン・スキー術の発達とともに各種の構造のものが創案された。着脱が容易で,ふだんは靴をしっかり固定するが,不自然な力がかかったときは靴とスキーを切り離し,足のねんざ,骨折を防ぐ機能が要求される。1960年代につま先とかかとを別に固定し,足を踏みこめば自動的に締まり,転倒すれば外れるワンタッチ式セーフティ・バインディングが出現し,安全性も格段に高くなった。ノルディックではかかとのあがる締具を用いる。

 その他,つえ(ストック,ポールともいう)は木や竹からグラスファイバーや軽金属に変わり,服装も合成繊維の発達で伸縮性,防水性,断熱性に優れた素材を用いた,合理的なものが一般化してきた。
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百科事典マイペディア 「スキー」の意味・わかりやすい解説

スキー

雪の上を滑走するための用具。また,その用具を用いてスピード,距離,ジャンプ,演技などを競うスポーツ。スキーの起源や発祥地については諸説があるが,定説はない。むしろ,スキーの起源や発祥地を特定するよりは,積雪地に住む人びとは古くからスキー,またはそれに似た雪上歩行や滑走用の用具をもっていた,と考えるのが妥当であろう。そして,それぞれの地域に必要なだけ改良・工夫が加えられ,独自の進展をみていた,と考えるべきであろう。つまり,雪原移動のためのスキーや,急峻(きゅうしゅん)な山を滑り降りるためのスキー,狩猟をするためのスキー,戦闘のためのスキー,遊び・娯楽のためのスキーなど地域によってさまざまな形態があった。 これらが,今日のようなスポーツとしてのスキーに統合されるのは19世紀に入ってからである。そのさきがけとなったのは1840年ころのノルウェーのテレマーク地方(オスロから西へ約270km)である。この地でジャンプをしたり,ターン(方向変換)をしたりする技術を競うことが始まった。そのために必要な用具の改良(とりわけ,スキー板と足がフィットするよう固定するための締具(しめぐ)の改良)が急速に進み,それに伴って新しい回転技術も開発された。1868年,この地に住むノルトハイムS.Nordheimは仲間と一緒にクリスティアニア(現オスロ)にやってきて,脚を前後に開き,後脚の膝(ひざ)を深く曲げて山側に体重移動させながらターンをする〈テレマーク・ターン〉を披露した。こうして,スキーのジャンプと距離を競う競技会(1877年,ホルメンコーレン大会=ノルウェー選手権大会)が始まった。 この情報はアルプス地方にも伝わった。オーストリアのズダルスキーMattias Zdarsky〔1856-1940〕は,リリエンフェルトの山小屋にこもり,急峻な山を安全に滑り降りるためのスキー術を開発した。その技術は,長い1本の杖(つえ)を使って,スキーのテール(後端)を開き出しながら制動をかけ,体重移動をして回転する〈シュテム・ボーゲンStemmbogen〉であった。この技術にさらに磨きをかけたのは,オーストリアのシュナイダーH.Schneider〔1890-1955〕である。彼は,1909年にアールベルクのザンクト・アントンにスキー学校を開き,今日のアルペン競技の基になる滑降技術をつぎつぎに開発していった。最終的に今日のスキー技術を集大成したのは,オーストリアのクルッケンハウザーStefan Kruckenhauser〔1905-1988〕であった。1951年,彼は国際スキー会議(インター・スキー)を組織し,世界のスキーの専門家を集め,もっとも合理的で科学的なスキー技術の体系化につとめた。こうして,権威ある《オーストリア・スキー教程》(1956年)が作り上げられていった。 一方,1960年代ころから米国でフリースタイルスキーが流行しはじめ,今日のエアリアルaerialsやモーグルmogulsが競技化していった。また,スノーボードsnow boading(snow boad)も急速に普及し,1996年には世界選手権が開催され,ハーフパイプ,パラレル回転,大回転の3種目が,1997年にはスノーボードクロスが追加され,行われるようになった。 日本では1890年代に近代スキーが導入され,1911年にオーストリア・ハンガリー陸軍のT.E.vonレルヒが新潟県高田の歩兵軍隊で14名のスキー専修員をコーチしたのが組織的なスキー指導の最初。それより以前の1908年には,東北帝国大学農科大学のハスンス・コラー講師が札幌で2本杖スキーを学生に紹介したという。1923年,小樽で第1回全日本スキー選手権大会が開かれた。
→関連項目ウェーデルングラススキークリスチャニアシュナイダーズダルスキースラローム冬季オリンピックバイアスロンボーゲンモーグル

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スキー」の意味・わかりやすい解説

スキー
ski

木,グラスファイバ,メタルなどでつくった細長い板。またそれを両足につけ,雪上を滑ること。さらにスキー競技そのものもさす。古代のノルウェー語 skīth (薄板の意) が語源。交通手段,狩猟などの生活用具として雪国の古代人に使われ,北ヨーロッパでは 1200年頃のスキーに関する記述がみられる。 1767年ノルウェーで軍隊スキー競技会が行なわれ,以後スポーツとして北ヨーロッパで発達した。 1867年ノルウェーで「スキーを国技に」の宣言があり,1877年最古のスキークラブの一つであるクリスチャニア・スキークラブが誕生した。一方,1890年代半ばアルプス地方から中部ヨーロッパで登山スキーが広まり,以後,北ヨーロッパのノルディックスキーに対する技術としてアルペンスキーが生まれた。 20世紀にかけヨーロッパ各国にスキークラブが生まれ,競技会も盛んに行なわれるようになり,両派の技術の交流もはかられた。 1910年国際スキー会議が開かれ,1924年のシャモニーモンブラン・オリンピック冬季競技大会の開催を機に国際スキー連盟が組織された。日本へ渡来したのは 1911年で,オーストリアの陸軍少佐テオドール・エドラー・フォン・レルヒが新潟県高田市の青年将校スキー専修員を指導したことに始まる。 1923年第1回日本スキー選手権大会が開かれ,1925年には全日本スキー連盟が結成された。競技にはアルペンスキーの滑降回転大回転スーパー大回転と複合,およびノルディックスキーのクロスカントリースキージャンプノルディック複合フリースタイルスキースノーボードがある。このほか,スキーマラソングラススキーなども普及している。

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デジタル大辞泉プラス 「スキー」の解説

スキー

日本の唱歌の題名。作詞:時雨音羽、作曲:平井康三郎。発表年は1942年。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定された。

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世界大百科事典(旧版)内のスキーの言及

【着陸装置】より

…航空機が地上にあるときその脚になる部分で,降着装置ともいう。離着陸の際に滑走しなければならない飛行機では車輪式が多いが,ヘリコプターやグライダーではそりを利用したそり式着陸装置もよく見られ,また雪上ではスキーが用いられることもあり,水上機には舟形をした浮きのフロートfloatが使われる。エアクッション式の着陸装置も研究されている。…

※「スキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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