スーダン地方(その他表記)Sūdān

改訂新版 世界大百科事典 「スーダン地方」の意味・わかりやすい解説

スーダン[地方]
Sūdān

アフリカの中央部,北緯15°の線を中心に,その南北をそれぞれ最大でも250kmの幅で大西洋から紅海まで帯状に連なるサバンナ地帯。中世のイスラム教徒がビラード・アッスーダーンbilād al-sūdān(黒人の国々)と呼んだのが,この名の起りである。地中海沿岸とスーダンとを結ぶ通商路は先史時代から開かれていたが,それがスーダンの住民のイスラム化をもたらしたのは,スーダン西部地域が最も早く,ムラービト朝は1076・77年にガーナ王国を滅ぼして,西スーダンのイスラム化の端緒を開いた。その後この地域にはマリ帝国ソンガイ帝国など黒人の王国が続いたが,その支配階級は国王以下すべてイスラム教徒で,国家制度もイスラムのそれを取り入れ,都市ではシャリーア(イスラム法)が施行され,カーディー(裁判官)が置かれていた。とくにトンブクトゥマドラサ(高等学院)では,フェスやカイロから迎えられたウラマー(学者,宗教指導者)が法学や神学を教え,西スーダンにおけるイスラムの学術の中心となっていた。

 遅れてイスラム化した中央スーダンや東スーダンにおいても,そのイスラム化の事情は西スーダンと同じく,北方からのウラマー,商人,移民の影響によるものであった。チャド湖東方のカネム帝国は,11世紀の末ころエジプトからの移住者によってイスラム化されたが,18世紀までイスラムは都市以外には普及しなかった。東スーダンのダルフール地方は,14世紀にチュニジアからの移住者(おそらく商人)によってイスラム化されたが,そこから西方のワダイ,バギルミ地方で原住民の改宗が進んだのは16世紀末からである。ハウサ地方のイスラム化も同じころに始まったが,ギニア海岸に設けられたヨーロッパ諸国の通商基地からの影響が内陸部に及ぶようになると,西スーダンではウスマン・ダン・フォディオハジ・ウマルらのジハード国家が建設された。一方,東スーダンではエジプトから南下するイギリスに対してマフディー派が強い抵抗力を発揮した。現在では,西からセネガル,マリ,ブルキナファソニジェール,チャド,スーダンなどの独立国家が誕生している。
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スーダンで栄えた各王国(帝国)は,多くの建築,彫刻,工芸品を残した。代表的なものとして,ナイル上流(現在のスーダン共和国)に前900年ころから後4世紀まで栄えたクシュ王国石造建築,彫刻,金属製品,このクシュを滅ぼしたエチオピアアクスム王国の石碑や彫刻,ナイジェリアヨルバ族イフェ王国)やビニ族(ベニン王国)の写実的な青銅彫刻ガーナアシャンティ族金属工芸などが知られる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スーダン地方」の意味・わかりやすい解説

スーダン地方
スーダンちほう
Sudan

12世紀以来使用された地理学上の用語で,アフリカ大陸の北はサハラ砂漠,南は熱帯雨林地域に挟まれ,西は大西洋から東はエチオピア高原を越えて紅海,インド洋まで帯状に横たわる地域を呼ぶ広義の呼称。草原と,アカシアなどの疎林からなるサバナで,年降水量 100mm(北部)~1500mm(南部)。東部の山地を除くと,ほとんど標高 300~500m。アラビア語で「黒い人々の国々」を意味し,サハラ以南の呼び名であったが,15世紀以後,帯状地域に限定された。紀元前からインド洋づたいに,あるいはサハラ砂漠を越えて,北方の工芸品,塩などと,南方の金,奴隷,象牙,コーラナッツなどの交易が行なわれていたが,5世紀頃からベルベル人の移住もあり,10世紀頃からは強力なイスラム王朝が盛衰した。民族的,言語的にはハム=セム系の影響がみられ,南方のバンツー系と異なる。遊牧とともに,雑穀栽培を中心とする農業が分布する。文化的にもイスラム・アフリカとでも呼ぶべき特色をもつ。19世紀に入ると,ほとんどがイギリス,フランスの植民地として分割されたが,1965年のガンビアを最後にいずれも独立し,東部がスーダンとして国名にこの名を付した。

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