日本大百科全書(ニッポニカ) 「石造建築」の意味・わかりやすい解説
石造建築
せきぞうけんちく
主体構造部(躯体(くたい))を石材で構成した建築をいい、組積式構造に属する。石造建築は壁体を石積みにし、かつボールトまたはドーム構法を用いて石材で屋蓋(おくがい)や床をつくる場合と、小屋組みや床組みは木骨で組む場合とがある。石造建築とはこれらすべてを含めた呼称である。
石積みの方法には乱(らん)石積みと整(せい)石積みがある。乱石積みは天然の石をそのまま積み上げるもの、整石積みは一定の形に加工した石を積み上げるものである。積み上げにはモルタルを使用して相互の接着を図るのが普通であるが、大きい石を積む場合は接触面の摩擦力に依存することがあり、それをより確実にするため枘(ほぞ)をつくりだし、あるいは太枘(だぼ)といって接触面の双方に孔(あな)をうがち、そこへ鉄の芯(しん)を差し込んで緊結するくふうもなされている。いずれの場合も芋目地(いもめじ)(垂直方向に一直線に通る目地)を避けなければならないことはれんが積みと同様である。整石積みにおいて壁厚が大きくなるときは壁体の内部には粗加工の石を置き、表面のみに精巧に加工した石を積むが、その場合、内部の石積みを野(の)積み、表面のそれを化粧積みという。化粧積みの石の面は平滑に磨き上げるもののほか、粗面に仕上げることもあり、その粗さの程度によって小叩(こたた)き、びしゃん、瘤出(こぶだ)しなどの別があり、さらに、その面の四周を一定の幅に縁どりするものを日本では江戸切りとよぶ。これに対し乱石積みの場合をも含め、加工を施さない面を野面(のづら)という。
石造建築に用いる石材の種類は花崗岩(かこうがん)、安山岩(以上火成岩)、石灰岩、砂岩(以上堆積(たいせき)岩)など多様で、一般に火成岩は硬く緻密(ちみつ)であるが加工しにくく、堆積岩は逆の特徴をもつ。また野積みと化粧積みとで材種をかえる場合もある。たとえば野積みには普通の石灰岩を用い、化粧積みには大理石(石灰岩の一種)や花崗岩を用いるなどである。
[山田幸一]
歴史
石造建築はまず石材資源の豊富な地域に発達することは当然で、古代エジプトがその典型である。この点、そこに隣接し、ほぼ同じ時代に高い文明を築いたメソポタミアでは石材に乏しかったため、同じく組積式構造とはいいながら主としてれんが造に終始したのと対照的である。エジプトは石灰岩に恵まれ、またナイル中流のアスワンには花崗岩を産する。大ピラミッド(前2500ころ)は野積みに石灰岩の粗石、表面の化粧に磨いた石灰岩を用い、内部の石室には花崗岩を積んでいる。しかしエジプトで石造を代表するものは神殿建築にとどめを刺す。ハトシェプスト女王葬祭殿(前1500ころ)やアモン大神殿(前1100ころ)はその好例であるが、古代エジプトでは初歩的な迫(せり)出し式アーチは知られていても、真のアーチは使用されておらず、石材による楣(まぐさ)式構法が採用されていた。このため大スパンの空間をとることが困難で、いきおい柱を密に立てざるをえず、このことがエジプト神殿の一つの特徴となっている。この石造による楣式構法は古典ギリシアでも同様で、均斉美を称揚されるパルテノン神殿(前438)をはじめギリシア神殿はすべてこの構法によっている。石造でアーチを自由に使いこなすようになるのはローマ時代に入ってからで、したがってドームやボールトによる大スパン空間をつくることも可能となった。ビザンティン建築の代表例であるハギア・ソフィア寺院(537)では径31メートルに及ぶ石造大ドームを架している。以来、ヨーロッパにおいてはれんが造と並んで石造が建築の主流をなす。いずれも壁体は耐力壁となるから壁の表現は重厚で、日本の建築が屋根を目だたせるのに比し「壁の建築」とよぶにふさわしい外観をつくることになる。
中国では無梁殿(むりょうでん)と称する石または塼(せん)(窯焼きれんが)築の寺院が元代以降建設されている(例、霊谷寺、14世紀後半)。これは石でボールトの屋蓋をつくり、木造における梁(はり)のような軸材を用いないのでこの名があるが、これをそのまま地下に移して墳墓とする場合もある。明(みん)十三陵のうちの定陵(神宗陵、1620号)がその好例で、地下宮殿とよぶにふさわしい壮麗な石造建築を築いている。しかし中国では総じてれんが造が普及し、石造はヨーロッパほどには用いられていない。この傾向は朝鮮半島でも同様であるが、ただ特記すべきものとして慶州石窟庵(せっくつあん)(8世紀中葉)がある。ここでは径約7メートルの石造ドームが架されており、規模こそ西欧のそれに比して劣るが、ドームを構成する石材の形状を使用部位によって変化させて構造の強化を図り、かつ石材そのものに花紋などの彫刻を施して装飾した独創性はみるべきである。
日本では古墳の石槨(せっかく)(例、高松塚。材種は凝灰岩)などに用いることはあっても、地上構築物での石材の使用は土木工事(石橋など)に限られ、建築工事には基壇、礎石などにとどまり、これで躯体を構成することは、れんが造の場合と同様、江戸時代末まで絶えてなかった。『筑紫国風土記(つくしのくにふどき)』に「石殿・石蔵」の記述はあるが、これは石人・石獣と併記されていることから、実用の建物ではなく模型と考えるべきものであろう。日本で石造建築がつくられるのは、幕末期の海防施設としての砲台(例、西宮石堡(せきほ)塔、1863)が最初である。以後、西欧文明の流入とともに石材の使用も増すが、純粋の石造建築は初期の小規模な例を除いて知られておらず、ほとんどがれんが積みと併用されている。東京ニコライ聖堂(1891、コンドル設計)の大ドームは一見石造を彷彿(ほうふつ)させるが、これも骨組は鉄骨であり、しかもこれとて関東大震災で損傷を免れられず、その後、石造建築が事実上建てられなくなったことは、れんが造と軌を一にする。大谷石(おおやいし)を多産する北関東で土蔵にかわる倉庫として石造建築が用いられているのは全国的にみればむしろ例外的存在であろう。このように日本で石造建築が定着しなかった理由は、やはりれんが造の場合と同様、広い開口をとりにくく、地震に弱い組積造建築そのものの欠点が災いしたためと思われる。
現在の日本で石造建築の体裁を必要とするときは、鉄筋コンクリートなどで躯体をつくり、内外装に石材を張り付ける方法がとられている。この方法によった最大の建築が国会議事堂(1936)である。
[山田幸一]