旺文社世界史事典 三訂版 「ソ連共産党」の解説
ソ連共産党
ソれんきょうさんとう
Kommunisticheskaya Partiya Sovetskogo Soyuza
1903年にロシア社会民主労働党が分裂し,独立したレーニンらボリシェヴィキがロシア革命後の18年,ロシア共産党と改称した。1923年スターリンが書記長に就任して,翌年レーニンが死去すると,一国社会主義論を力説して,世界革命論に固執するトロツキー派との間に激烈な党内闘争を展開した。1927年のトロツキー除名後はカーメネフ・ジノヴィエフ・ブハーリンら幹部をつぎつぎに除名し,ナチスの政権獲得後の緊迫した国際関係を背景に36年を頂点とする粛清を強行してスターリン独裁体制を確立,同年スターリン憲法を制定した。この間,党名を1925年より全連邦共産党と改称し,コミンテルン(1919〜43)を通じて各国共産党にソ連防衛の至上課題を遂行させた。第二次世界大戦後もこの傾向は続いたが,1953年スターリンが死去すると,集団指導体制に移行した。1956年第20回党大会でフルシチョフ第一書記がスターリン批判を開始し,中国共産党との対立が顕在化した。1964年農業政策などの失敗でフルシチョフが失脚すると,ブレジネフ・コスイギンの指導体制に転換。中ソ対立の激化や各国共産党の自主路線の強化,国内少数派知識人による政策批判といった諸問題をかかえながら,1977年6月ブレジネフ書記長が連邦最高ソヴィエト幹部会議長(国家元首)に就任して彼の全権支配体制が確立した。1980年代後半からペレストロイカを進めたゴルバチョフ書記長が1990年一党独裁制の廃止に踏み切ると,実権を急速に失い,91年8月ついに解散した。
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