近代ベンガル最大の文学者。インド西ベンガル州カルカッタ生れ。父デベーンドラナート・タゴールはインドの近代宗教運動に重要な役割を果たした宗教家。兄弟・親戚にも優れた芸術家・思想家が多い。恵まれた環境の中でインド古典を学び,イギリス留学などを通じて西欧ロマン派文学に親しんだ。若い頃からバンキムチャンドラらに詩人としての才能を認められる。1890年から約10年間,父に農村の土地管理を任され,初めてベンガルの農村文化に深く触れる機会を得る。この時の体験から1901年,父の宗教実践の地シャンティニケトン(シャンティニケータン)に寄宿学校を開設,以後終生ここを拠点として,自然の中での全人教育と農民の精神的・経済的自立を目ざす農村改革運動を進めた。05年,植民地政府のベンガル分割法制定を機に盛り上がった民族運動で指導的立場に立つが,やがて運動に失望し政治の舞台から退く。
13年,英訳詩集《ギーターンジャリ》がノーベル賞の対象となり,名声が内外に高まった。この頃から彼は積極的に世界各地を訪れ,ロマン・ロラン,アインシュタインらの知識人と交流,視野を広める。日本にも5度訪れたが,日本の軍国主義を反ナショナリズムの立場から批判したため,快く受け入れられなかった。ことに,日中戦争の評価をめぐり,野口米次郎と激しい論争を戦わせたことは名高い。国内的にはインド独立運動の精神的支柱としての役割を果たし,ガンディーと論争を交わしたこともある(1921)。晩年は人間宗教の立場に立ち,西欧文明に絶望しながらも人類の未来への希望を失わなかった。代表作に,詩集《黄金の舟Sonār Tarī》(1894),《渡る白鳥Balākā》(1916),《追伸Punaśca》(1933),《木の葉の皿Patrapuṭ》(1936),《絶筆Śeṣ Lekhā》(1941),長編小説《ゴーラGorā》(1910),《物語集Galpaguccha》(1926),戯曲《王Rājā》(1910),舞踊劇《チットランゴダCitrāṅgodā》(1936),講演《人間の宗教Mānuṣer Dharma》(1933),《文明の危機Sabhyatār Saṁkaṭ》(1941)等がある。絵画・歌曲も数多い。
日本でのタゴールの紹介は,これまでほとんど英語・フランス語からの重訳を通して行われてきた。第2次大戦前の翻訳は1914年に始まり,タゴール初期・中期の抒情詩,宗教詩,抒情的短編小説,《郵便局》《暗室の王(原題《王》)》などの象徴神秘劇,インド知識人の民族主義から普遍主義への脱皮を描いた中期の思想小説《ゴーラ》,代表的な宗教論《生の実現》,欧米や日本のナショナリズムを批判した評論《国家主義》などが紹介された。しかし,タゴールの文学・思想を総合的にとらえる試みはほとんどなされなかった。第2次大戦後,山室静,片山敏彦らによってタゴール再評価の動きが高まり,アポロン社版タゴール著作集(1959-61)で英語著作のほとんどが網羅された。ベンガル語原典からの翻訳としてまとまったものは,渡辺照宏訳の詩集《ギーターンジャリ》(初訳1961)に始まり,長編《ゴーラ》(初訳1982),最晩年の文明論《文明の危機》(初訳1981)などで,第三文明社版タゴール全集(1979-)と我妻和男著《タゴール》(1981)によってようやくその端緒についたばかりである。
→インド文学[ベンガル文学]
執筆者:大西 正幸
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インドの詩人、思想家、教育者。5月7日、カルカッタ(現、コルカタ)生まれ。家はベンガル地方の名家で、宗教思想家として名高い父デーベーンドラナートDebendranath Tagore(1817―1905)のもとに育ち、伝統的なインド固有の宗教、文学に親しむとともに、イギリス文学も学び、進歩的な父の思想的影響を受けた。1877年渡英し約1年滞在して帰国したが、詩人の心は憂悶(ゆうもん)に低迷した。しかし1880年、忽然(こつぜん)として世界の美と神秘が彼の心に開かれ、詩集『朝の歌』(1883)によって彼の芸術の基礎が確立された。文壇における彼の地位は安定し、叙情詩のほか小説や戯曲を多数発表するとともに、文学、宗教、教育、社会問題に関する論文も書いた。1901年、父が冥想(めいそう)の地としていたシャーンティ・ニケータンに学校を開いて子弟のため特殊な教育を行った。これが現在のビシュババーラティー大学の前身である。
その後、彼は長編小説『ゴーラ』(1907~1909)や愛国的な詩を発表。また、1910年詩集『ギーターンジャリ』を刊行、1912年これを英訳してイギリスで発表、非常な賞賛を博して、翌1913年、東洋で初めてのノーベル文学賞を受賞した。彼はつとに東西文化の融合、思想の交流に着目し、世界各国を歴訪、日本にも3回来訪している。また、文学的活動のほか、絵も描けば音楽の造詣(ぞうけい)も深く、芸術家であると同時に実践家でもあり、教育家、社会改革論者、また独立運動を支援する愛国者でもあった。著作は多く、300を超えるといわれ、その内容も多岐にわたっているが、本領は叙情詩にあったものと思われる。彼の作品は母国語のベンガリーで書かれ、自らそれを英訳しているので、外国人の理解者も多い。1941年8月7日カルカッタで没した。
[田中於莵弥]
『『タゴール著作集』全8巻(1959・アポロン社)』▽『『タゴール著作集』全12巻(1981~1993・第三文明社)』
近代インドの宗教思想家。ベンガルの大地主の家に生まれ、幼時より『ウパニシャッド』などの宗教文献に親しんだ。1839年には「真理にめざめる会」を結成、ベンガルの知識人たちを中心にインドの伝統的な民族主義思想の鼓吹に努めた。1842年には、彼はこの会を率いてR・M・ローイの宗教・社会改革団体ブラフマ・サマージに参加し、以後、社会教育活動に専念した。有名な詩人のR・タゴールは彼の息子である。
[増原良彦 2018年5月21日]
インド近代産業のパイオニア、慈善事業家。詩人R・タゴールの祖父。大地主の養子として早くから英語教育を受けて育つ。地主、商人、官吏としてインジゴ栽培や銀行を設立したが、1834年イギリス人とパートナーシップを組んでカー・タゴール商会を設立。以後これを中核として、石炭、曳船(ひきぶね)、ドック、製塩、製茶などに進出。石炭と製茶は、ベンガル石炭会社およびアッサム会社として今日まで存続する。また、インドの宗教改革運動であるブラフマ・サマージ運動の熱心な支持者であり、カルカッタ(現コルカタ)の公共施設で彼の寄付によらないものはないといわれるほどの慈善事業家として知られている。
[三上敦史]
『K・クリパラーニ著、森本達雄訳『タゴールの生涯』(1979・第三文明社)』
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1861~1941
インドの詩人,小説家。教育者,作曲家,画家としても重要。カルカッタに生まれ,ベンガル語で文学活動をした。ベンガルが生んだ最大・最高の文学者とされる。1913年,英訳詩集『ギーターンジャリ(歌の捧げもの)』によりノーベル文学賞を受賞した。ヨーロッパのロマン主義文学の影響下に創作活動に入ったが,1890年からの10年間の農村生活を通じて,ベンガルの民衆文化に開眼した。作風は幅広く,独特の高揚感と深みを持つ。1905年,ベンガル分割反対運動の指導者となるが,政治に失望し,シャンティニケトンの学園(01年設立)に拠って,全人教育と農村改革の理想を追求した。広く世界を旅し,ロマン・ロラン,アインシュタインなどと親交を結び,西欧文明の行き詰まりに警鐘を鳴らした。来日は5度に及ぶ。
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…インド各地には,そのほか,いわゆるフォークダンスといわれるジャンルに属するグループ舞踊があり,それぞれ,地域の特徴を備えている。 20世紀初頭には,ラビンドラナート・タゴールやウダイ・シャンカル(1900‐77)によって新しい舞踊の創作が行われた。創作舞踊は,ヌリッタやアビナヤの理論を離れた新しい形を目ざしたが,この創作理念を受け継ぐ舞踊家や演出家が少なく,2人の死後はあまり盛んではない。…
…ことにバンキムチャンドラはベンガル近代散文の確立者として批評・随筆の領域にも幅広い功績を残した。彼によって切り開かれた近代散文をさらに展開すると共に,詩の領域に比類ない業績を残したのはタゴール(タークル)である。この2人によってベンガル文学の黄金時代が築かれたと言えよう。…
…秋田雨雀,大杉栄,中村彝(つね),竹久夢二,小坂狷二,相馬黒光,神近市子,片上伸らと交友,日本語による口述筆記で作品を発表した(処女作《提灯の話》1916)。16年,来日していたインドの詩人タゴールに会い,本能的な放浪者であったエロシェンコは東洋の他の弱小民族の生活を知るためにタイ,ビルマ(現ミャンマー),インドに旅立つ。19年再来日,早大聴講生となり,第2次《種蒔く人》の同人となり,次々と童話を発表した。…
…インド,ベンガル地方の詩人タゴールの代表詩集(1910)。原題は《ギタンジョリ(〈歌の捧げ物〉の意)》。…
…しかしヨーロッパの植民地となったインドには,民族的自覚と結びついた近代のめざめが訪れるまで,新しい児童文学がそだつ基盤がなかった。ノーベル賞作家タゴールはインドの夜明けをつげるかのような,少年を描いた詩的な戯曲《郵便局》(1914)を書いたが,新しいインドが伝統を生かして児童文学をゆたかに創造することは今後に期待される。1956年にインドで開かれたアジア作家会議の中心議題の一つが児童文学であったことも象徴的である。…
…ビシュバ・バーラティーVisva Bhāratī(インド国際)大学の所在地として有名である。1863年,詩人R.タゴールの父がここに宗教道場を開き,のちにはタゴール自身が学校を設立した。タゴールは1913年に受賞したノーベル文学賞の賞金を学校運営にあて,同校は21年,東洋と西洋との相互理解の促進をめざす大学へと発展,インド独立後の51年には国立大学となった。…
…ガンガー(ガンジス),ブラフマプトラ,メグナといった大河川の形成するデルタ地帯に広がるバングラデシュは,雨季にはその国土の大部分が水没する。しかし同時に洪水が運んでくる肥沃な土壌は農産物の豊かな産出を約束し,収穫時には国歌(R.タゴール作詞・作曲)に歌われるように〈黄金のベンガル〉が出現する。ムガル帝国時代にはインドの穀倉と称せられた緑豊かな国柄である。…
…また,インドの民族楽器シタールを使ったラビ・シャンカルの音楽も世界的に注目を浴びた。 サタジット・レイは〈詩聖〉タゴールと親交のある家庭に育ち,タゴールの創設した大学に学んで薫陶をうけ,《女神》(1960),《三人の娘》(1961),《チャルラータ》(1964)などタゴールの作品を原作とした映画も多く,《詩聖タゴール》(1961)という記録映画も撮っている。レイの映画はベンガル語映画であるが,《チェスをする人》(1977)のように,観客層を広げるためにヒンディー語映画として製作されたものもある。…
※「タゴール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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