百科事典マイペディア「チャールズ[1世]」の解説
チャールズ[1世]【チャールズ】
→関連項目チャールズ[2世]|ノッティンガム|ハリントン|ルパート
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…国王の奥の間cabinetで秘密会議が開かれたのが名称の起源であるが,公式の国政諮問機関であり内閣会議の母体でもある枢密院Privy Councilの権能を簒奪し,国王専制を担う君側の奸(かん)のたまり場になると非難,警戒された。ためにチャールズ2世は外交委員会という名の事実上の内閣廃止を,一度は宣言せざるを得なかった。近代政党partyの起源も同じチャールズ治下の,親王権派トーリーと,これに対抗するホイッグの抗争に求められることが多い。…
…厳密にはエリザベス女王(1世)の在位期(1558‐1603)を指すが,文学史の区分としては通常,そのあとのジェームズ1世(1603‐25)およびチャールズ1世(1625‐49)の治世を含めたイギリス・ルネサンスの最盛期をいう。この時代は中世の封建制から中央集権的な近代国家体制への過渡期に当たり,宮廷は権力とともに文化の中心となりつつあったが,半面,資本主義の勃興による都市ブルジョアジーの台頭は,ロンドンの市民生活を活気あるものにしていた。…
…スコットランド宗教改革は親イングランド的運動でもあり,イングランド女王エリザベスの支持を受けた新教勢力とカトリック女王メアリーとの対立はメアリーの退位として終わり(1567),その後を継いだジェームズ6世は,1603年イングランド王兼摂(スコットランドとイングランドの同君連合)のためロンドンに赴くまで,貴族・牧師層を懐柔して巧みな統治を行った。チャールズ1世は父王と異なり政治目標の実現に急であり,世俗領化していた教会領の収入を旧に復し,かつスコットランド教会とイングランド教会の信仰の統一を実現しようとした。その第一歩として1637年に《祈禱書》を一片の勅令で国民に課した。…
…これがイングランドにおけるスチュアート朝の始まりである。 初期の2人の王ジェームズ1世とチャールズ1世は,イングランドの慣習を無視して専制を行い,議会との対立を深めてピューリタン革命となり,49年チャールズ1世は処刑され,以後60年まで王位は空位となってスチュアート朝は断絶した。この間1651年スコットランド王として戴冠していた息子のチャールズ2世は,60年の王政復古によって帰国し,復位した。…
…ニューイングランドでは祖国イングランドで達成できなかった改革の理想を〈神政政治〉として実現しようとした。 しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。…
…かくて議会を中心にジェントリー,コモン・ロー専門家,ピューリタンの3者が共同戦線を組んで,国王と宮廷に挑戦した。 1625年父王を継いだチャールズ1世の治世には,緊張はさらに高まり,28年その第3議会は,クックが中心になって〈権利請願Petition of Right〉を国王に提出した。それは献金の強制,議会の同意なき課税,不法な逮捕・投獄,兵士の無料宿泊,軍法裁判の濫用といった国王の行為は,13世紀の〈マグナ・カルタ〉をはじめとするコモン・ローによって保障されてきたイギリス人の権利と自由を侵すものであることを訴えたものであった。…
※「チャールズ[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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