フランスの政治家。ブルジョアジーの柱石といわれ,第三共和政の成立に力を尽くし,初代の大統領となった。彼ははじめ王政復古期(1814-30)のフランスで極右王党派と対立する自由派の代議士や銀行家のラフィットなどと親密となった。1824年から27年にかけて《フランス革命史Histoire de la Révolution》全10巻を書き,その自由派の立場に立った文筆の才で名声を得,30年1月にミニエーとともに新聞《ナシヨナル》を創刊した。7月にシャルル10世が勅令を発布すると,《ナシヨナル》の編集室には43人のジャーナリストらが集まるが,ティエールはその中心になって,この七月勅令に対する共同抗議文を起草した。これは七月革命の発生を促す契機となり,蜂起した民衆は共和政の実現を期待した。しかし彼はラフィットやカジミール・ペリエらとともにルイ・フィリップを擁立し,七月王政を樹立させた。
この七月王政下の32年から34年まで,彼は内相となる。この時期はパリのストライキ運動や34年4月の共和派の蜂起で社会的動揺が激しく,これを抑圧したティエールは,ブルジョア政治家として重要な経験をしたことになる。36年に外相,ついで短期間首相となり,40年に再び首相となったが,イギリスに対する外交で弱腰の国王ルイ・フィリップは,彼よりギゾーを信任する。48年の二月革命後の6月に憲法制定議会に当選。社会主義や民衆の動きと対決するため地方の名望家の結集に努め,秩序党をつくった。しかしルイ・ナポレオンの登場によって秩序党はしだいに力を失い,第二帝政の成立となる。
70年の第二帝政の崩壊,国防政府の成立で,再び政府の活動に外交面から加わった彼は,71年2月に成立した国民議会で行政長官(大統領)に任ぜられた。ここでパリ・コミューンの民衆蜂起に直面し,パリを逃亡してベルサイユに政府を置き,政府軍を結集して,パリ民衆に血の弾圧を加えた。しかしこの状況で革命の危険を防ぐためには王政ではなく,新しい政体は共和政でなければならぬと判断して,急進共和派のガンベッタとひそかに協力し,王党派を抑え,保守的な共和政の確立に向かって努力した。議会の王党派の攻撃により,73年に失脚するが,彼の共和政樹立の努力は,ガンベッタとの協力もあって,実を結んだ。
執筆者:喜安 朗
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1797~1877
フランスの政治家。復古王政期の反動政治を批判し『フランス革命史』(1823年)を書く。七月王政下36年と40年に首相。ギゾーの政敵として議会改革を主張。第二共和政議会では保守派。71年ボルドー議会で行政長官に任命され,パリ・コミューンを鎮圧し対ドイツ講和を結ぶ。ついで第三共和政初代大統領(在任1871~73)となるが,王党派の攻撃で辞職。フランス19世紀ブルジョワの柱石といわれる。
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[共和政の成立]
第三共和政の特徴はその成立過程のうちによく表現されている。1870年9月の普仏戦争で第二帝政が崩壊し,パリに共和派の国防政府が成立,翌年ボルドーに国民議会が成立し,ティエールが臨時の元首である行政長官に任じられた。パリ・コミューンの民衆蜂起に直面した彼は,これを鎮圧するとともに,革命の再発を回避する役割を果たすのは共和政以外にないと認識するにいたった。…
※「ティエール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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