改訂新版 世界大百科事典 「ティベリウス」の意味・わかりやすい解説
ティベリウス
Tiberius Julius Caesar Augustus
生没年:前42-後37
ローマ皇帝。在位,14-37年。リウィアが後の皇帝アウグストゥス(当時オクタウィアヌス)と再婚する前に,夫ティベリウス・クラウディウス・ネロTiberius Claudius Neroとの間にもうけた息子。軍事に優れ,パルティア,ゲルマニア,パンノニア,イリュリクムの各地の鎮圧に功があった。前12年,将軍アグリッパが死ぬと,その妻であったアウグストゥスの娘ユリアと結婚させられ,そのためにすでに1子ドルススをもうけていた妻を離婚。しかしアウグストゥスの後継者の地位は容易に与えられず,忿懣(ふんまん)のうちに一時ロドス島に隠棲(前6)。後4年,ようやく後継者の地位を与えられたが,弟N.C.ドルススの息子ゲルマニクスの養子採用をも強いられた。
即位ののちはアウグストゥスへの忠誠を政治の基本線とし,アウグストゥスを神格化し彼の神殿を建てるなどして,皇帝の死後神化の先例を開いたが,自己の神化は固辞し,皇帝の生前神化を避ける原則のもとをつくった。彼の治下,パンノニア,下部ゲルマニアなどの軍団の反乱,パルティアとの紛争など困難が続き,ゲルマニクスの皇帝擁立事件もあったが切り抜け,17年カッパドキア属州が設置された。内政においては,親衛隊長セイアヌスの専横を許し,その差金で26年カプリ島に隠棲,そこからセイアヌスを通して統治したが,その情報によって絶えず暗殺と陰謀におびえ,100以上の反逆罪裁判によって多くの貴族の生命と財産を奪った。しかし真に帝位を狙っていたのはセイアヌスで,彼によるティベリウスの息子ドルススの暗殺(23),それに先立つ甥ゲルマニクスの急死(19)の後は,後者の3人の息子が皇帝に血縁ある男性であったが,そのうち末子ガイウス(後の皇帝カリグラ)を除く2人も,セイアヌスによって投獄され自殺に追い込まれた。31年セイアヌスの処刑によってこの暗黒劇は終わったが,ティベリウスの抑うつ的性格はこれによって強められ,不明瞭な言語,皮肉な表現も手伝って民衆にも不人気で,彼の死の報知はローマ市でも歓迎された。
執筆者:弓削 達
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報