テオドシウス(読み)ておどしうす(英語表記)Theodosius Ⅰ

デジタル大辞泉 「テオドシウス」の意味・読み・例文・類語

テオドシウス(Theodosius)

(1世)[347~395]ローマ皇帝。在位379~395。乱れていたローマ帝国を再統一、キリスト教を国教とした。死に際して帝国を再び東西に二分し二子に残した。通称、大帝。
(2世)[401~450]東ローマ皇帝。在位408~450。の孫。「テオドシウス法典」を編纂へんさん

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精選版 日本国語大辞典 「テオドシウス」の意味・読み・例文・類語

テオドシウス

  1. ( Theodosius )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) ローマ皇帝(在位三七九‐三九五)。サルマティア人やゴート人の侵入に対処して帝国の危機を救い、全帝国を再統一したが、後に帝国を二分して二子に残した。キリスト教を国教とした。テオドシウス大帝。(三四七‐三九五
  3. [ 二 ] ( 二世 ) 東ローマ皇帝(在位四〇八‐四五〇)。アルカディウス帝の子。一世の孫。能書家として、また、テオドシウス法典の編纂で知られる。(四〇一‐四五〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「テオドシウス」の意味・わかりやすい解説

テオドシウス(1世)
ておどしうす
Theodosius Ⅰ
(347―395)

ローマ皇帝(在位379~395)。ウァレンティニアヌス1世(在位364~375)に仕えた将軍テオドシウスの息子としてスペイン北西部に生まれる。368年父のブリタニア遠征に同行し、翌369年末には対アラマン人遠征にも参加。374年上モエシア州軍司令官となる。376年父が突然カルタゴで処刑(理由は不明)されると、彼は保身のため一時スペインの所領に隠遁(いんとん)。しかし、378年アドリアノープルの戦いで東帝ウァレンスが西ゴートに敗死すると、西帝グラティアヌスGratianus(在位367~383)は西ゴートに対処させるべくテオドシウスを軍司令長官に任じ、続いて379年1月彼をアウグストゥスとして東方諸州およびダキア、マケドニア両管区の統治をゆだねた。

[後藤篤子 2017年11月17日]

帝国の内憂外患

即位後、テオドシウスは東部軍再編と、西ゴートに蹂躙(じゅうりん)されていたバルカン地方の治安回復に尽力したが、西ゴートを帝国領内から駆逐することはできず、382年これと同盟を締結。それにより、西ゴートはローマに対し軍事援助の義務を負うかわりに、ドナウ・バルカン間の地方への定住と独自の王をいただいての自治を認められた。西方では、383年簒奪(さんだつ)帝マクシムスMagnus Maximus(在位383~388)がグラティアヌス帝を倒してブリタニア、ガリア、スペインを勢力下に収めたが、テオドシウスは事態を黙認せざるをえなかった。386/387年ころテオドシウスはササン朝ペルシアとの講和締結に成功し、これにより長年係争の種であったアルメニアは両国間で分割された。一方、西方ではマクシムスがイタリアに侵入。グラティアヌスの弟帝でイタリア、アフリカ、イリリクムを与えられていたウァレンティニアヌス2世(在位375~392)は、母ユスティナJustina(340ころ―391ころ)や妹ガッラGalla(?―394)らとともにテオドシウスのもとに逃れてきた。前年に先妻と死別したテオドシウスは、このときガッラと再婚。以前にはマクシムスを黙認した彼も、今回はユスティナの訴えや対ペルシア講和による東方国境線の安定化も手伝ってマクシムス討伐を決意し、388年西征。二度の戦勝ののち同年8月マクシムスを処刑し、ウァレンティニアヌス2世を復位させた。こののち3年間イタリアに滞在し、391年コンスタンティノープルに帰還。この間にミラノ司教アンブロシウスの強い影響力を受けるようになった。

[後藤篤子 2017年11月17日]

宗教政策

危機的状況のなかで即位したテオドシウスは、治世当初から事態悪化を招くような宗教的内紛の解決に意を用い、380年2月ニカイア信条をカトリック(普遍的)と定めて全臣民にこの「正統信仰」を課した、いわゆるカトリック国教化勅令を発した。翌381年には全教会がこの「カトリック」派司教に引き渡されるべき旨を命じ、同年夏コンスタンティノープルに公会議を招集してこの措置を批准させた。このカトリック国教化以後、一連の対異端弾圧令が続くが、他方テオドシウスは異教徒を重要官職に登用するなど、ローマの伝統的異教に対してはさしあたり寛容であった。しかし、アンブロシウスの影響下で対異教政策も厳格化していく。テオドシウスとアンブロシウスはときに対立したが、とくに390年春、テッサロニキで起きたゴート人守備隊長殺害に激怒したテオドシウスが、報復措置として市民の殺戮(さつりく)を命じ、取消し命令がまにあわず7000人の市民が虐殺されたときには、アンブロシウスは帝が公式に悔悛(かいしゅん)の情を表すまで聖体拝受を許さず、テオドシウスは8か月後についに折れて懺悔(ざんげ)を行った。この事件ののち、テオドシウスは391年に異教神殿訪問と供犠を、392年にはすべての異教礼拝を禁じる。こうした状況下で、392年ウァレンティニアヌス2世を倒した簒奪帝エウゲニウスEugenius(在位392~394)はローマ市の異教勢力の支持を集めたため、この事件は宗教闘争の様相をも帯びるに至った。

[後藤篤子 2017年11月17日]

帝国最後の統一

これに対しテオドシウスは394年西征し、同年9月フリギドゥス河畔でエウゲニウスを破り、帝国最後の統一を果たした。翌395年1月、東方を長子アルカディウスに、西方を次子ホノリウスに残してミラノで死去した。テオドシウスの正統派信仰擁護をたたえて、カトリック教会は451年カルケドン公会議で「大帝」の称号を与えた。

[後藤篤子 2017年11月17日]


テオドシウス(2世)
ておどしうす
Theodosius Ⅱ
(401―450)

ビザンティン帝国皇帝(在位408~450)。402年、父アルカディウス帝の副帝とされ、父の死後7歳で帝位についたが、廷臣や、姉プルケリア、妻エウドクシアに実権を握られた。治世にはみるべきものがなく、フン人の侵入に対して巨額の金を支払うことによって平和を維持しなければならないありさまであった。彼の名を有名にしているのは、彼が集録編纂(へんさん)させた『テオドシウス法典』で、この法典はビザンティン(東ローマ)帝国ばかりでなく西ローマ帝国でも実施された。

[市川雅俊]

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百科事典マイペディア 「テオドシウス」の意味・わかりやすい解説

テオドシウス[1世]【テオドシウス】

ローマ皇帝(在位379年―395年)。将軍の子として生まれ,帝国東半部の皇帝となり,戦争・同盟により異民族の脅威から帝国を防衛,正統派カトリック教徒として異教を厳禁し,キリスト教を国教に高めた(392年)。ミラノ司教アンブロシウスに,390年テッサロニケで起きた虐殺事件について懺悔(ざんげ)を求められ服したことは有名。394年帝国再統一を実現。死に際し,帝国を東西に2分して2子に継がせ,以後帝国は統一されることがなかった。
→関連項目古代オリンピックスティリコ西ローマ帝国

テオドシウス[2世]【テオドシウス】

東ローマ皇帝(在位408年―450年)。アルカディウスの子。幼少にして即位,実権は姉と妃にゆだね,フン族の侵入を賠償金により宥和(ゆうわ)し,平和を守った。自らは文筆に親しみ,ローマ後期の法を集大成し〈テオドシウス法典〉(438年)を作った。

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旺文社世界史事典 三訂版 「テオドシウス」の解説

テオドシウス(1世)
TheodosiusⅠ

346〜395
古代ローマ皇帝(在位379〜395)。大帝ともいう
ゴート人を討ち,ディオクレティアヌス帝以来分割支配されていたローマを再統一した(394)。381年コンスタンティノープル公会議において,アタナシウス派の教えを正統派信仰とし,392年キリスト教を国教と定め,他のあらゆる宗教を禁じた。死に際し,帝国を東西に2分して2子アルカディウス(東帝国)とホノリウス(西帝国)に残した。

テオドシウス(2世)
Theodosius Ⅱ

401〜450
東ローマ帝国の皇帝(在位408〜450)
絵画・筆写に親しみ,「能書家」の称を得た。東ゴート族やアッティラの侵入を受けて政治はふるわなかったが,彼の編集した『テオドシウス法典』は,のちの『ユスティニアヌス法典』に大きな影響を与えた。エフェソス公会議を召集したことでも有名。

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