西方教会の教父としてアウグスティヌスに先立つ重要な人。ローマ貴族アウレリウス家の出身で,父の任地トリールに生まれ,ローマで法律と修辞学を学んだ。ミラノの執政官だったとき,キリスト教正統派とアリウス派との争いを収めたことが高く評価され,未受礼であったにもかかわらず民衆に支持されて,374年司教となった。それ以後,グラティアヌス帝に対してウィクトリア女神の祭壇を撤去させ,これを再建しようとしたシンマクスを抑え,テオドシウス帝の残虐行為を弾劾し,さらに東方教会の皇帝教皇主義を打破して皇帝の教会内での特別な地位を認めなかったなど,教会の地位向上に力をつくした。教会の内部にあっては,すぐれた説教者,典礼と聖歌の改革者,正統主義の擁護者として尊敬をえた。後代,聖歌・典礼・聖書注解でアンブロシウスの名を冠したものが多いのはそのためである。思想的には新プラトン主義に近い精神性に富み,オリゲネスにならって聖書の比喩的解釈を行ったので,マニ教の問題で苦しんでいたアウグスティヌスに深い感動を与えたということがある(《告白》5巻14章)。著作には《モーセ六書講解》《雅歌講解》《聖職者の務め》などがあり,マリア論や天使論についての文章もある。
執筆者:泉 治典
美術では司教の姿で表され,書物,ペン,聖霊の鳩,まれにアリウス派の異端との戦いを示唆する笞(むち)を持物とする。また蜂の巣が足もとに描かれるのは,この聖人がゆりかごに眠る幼児であったときに,蜂が害を与えることなくその口の中を飛び,将来の雄弁を予告したという伝説に基づく。聖人の生涯を表した作品としては,ミラノのサンタンブロージョ(聖アンブロシウス)教会のパリオット(祭壇前面掛け布,9世紀)が有名。また,独立した場面としては,390年テッサロニキで虐殺を行ったテオドシウス帝が教会に入るのを拒否したという史実などが表現される。アウグスティヌスとともに描かれることもある。なお,ミラノの守護聖人としても知られる。祝日は12月7日。
執筆者:荒木 成子
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ミラノの司教。4世紀後期の西方ローマ教会四博士の一人。ローマ貴族の子としてドイツのトリエルに生まれた。ローマで修辞学を修めたのち、370年北イタリアのリグリア州執政官、のちミラノの執政官となる。キリスト教の異端アリウス派の司教アウクセンティウスAuxentius(?―374)の死後、374年ミラノの聖堂で後継者論争の仲裁に入ったとき、「アンブロシウスを司教に」と少年が叫んだのが契機となって、急遽(きゅうきょ)受洗し、司教に叙任された。教会政治家、牧会者として、また新プラトン学派に属する知識人としても正統派擁護のために活躍、帝権の介入に抗して教会の独立をまっとうした。384年には異教の復興を目ざす元老院と戦い、勝利の女神ビクトリアの偶像安置案を退け、385~386年には圧倒的な民衆の支持を背景として、皇太后ユスティナJustina(?―388)と争って、アリウス派の手からミラノの聖堂を取り返した。テオドシウス1世によるテサロニケ市民7000人虐殺を糾弾し、皇帝を懺悔(ざんげ)させたことも有名である。また、彼は典礼の聖歌を数多くつくり、『すべての創(つく)り主なる神よ』Deus creator omniumは、アウグスティヌスによってアンブロシウスの作品とされている。アウグスティヌスは、アンブロシウスの比喩(ひゆ)的な聖書釈義の方法に触れて回心に導かれるが、これは彼自身の独創というよりも、フィロンやオリゲネスらのアレクサンドリア学派の東方神学の導入であり、彼の神学思想上の意義もまたこの点にあった。代表的な著作として『ヘクサメロン』6巻、『聖職本務論』3巻がある。
[加藤 武 2015年1月20日]
『『石原謙著作集8 キリスト教の源流』(1979・岩波書店)』
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339?~397
ラテン教父,ミラノ司教。374年イタリアの地方総督在任中にミラノ市民の要望で司教となり,アウグスティヌスに影響を与える。また皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教とする際(392年)にも強い感化を与えた。
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…いわゆる芸術音楽は,ギリシアの範にならったものが支配的だったろうが,長い年月のあいだにローマ独自のものを創り出したことだろう。 313年にキリスト教が公認された直後,ミラノの司教アンブロシウスらは,東方の初期キリスト教徒たちの例にならって,典礼に歌を用いることに積極的な態度をとり,アンブロシウス聖歌として伝えられる単旋聖歌の体系の礎を築いた。しかし,アンブロシウスの弟子でもあったアウグスティヌスによる,〈歌の内容にではなくて,歌そのものに感動したときには,罪を犯したような気持になる〉という反省は,キリスト教会の長い歴史の中で,教会における音楽のあり方をめぐっての論議に際し,折にふれて思い出されることになる。…
… これにつづく4世紀は,3人の特筆すべきキリスト教作家を出した。年代的にも接近して現れたアンブロシウス,ヒエロニムス,アウグスティヌスがこれである。この3人はみな護教活動のほか,多くの著述や大部な書簡を残しているが,アンブロシウスはまた賛美歌創始者の一人として知られ,その作になる《世界の永遠なる造り主》ほか多くの詩は,広く一般に用いられ,多くの模倣者をさえ出した。…
…【佐藤 圭四郎】
[ヨーロッパ]
中世のヨーロッパでは教会の教儀によって原則として利子の徴収が禁止されていた。旧約聖書《申命記》における〈兄弟からはどんな利子もとってはならぬ〉という教えは,4世紀の聖アンブロシウスによって〈資本を超えたものを受け取ってはならない〉という形に一般化され,グラティアヌスによって教会法に組みこまれた。キリスト教徒の間で利子付きの貸借を行うことは高利貸usuraとして神の教えに背くことと考えられた。…
…イタリアのミラノにある初期キリスト教時代創建の教会堂。聖アンブロシウスが3世紀の殉教者を祭るため385年ごろ建立(彼自身もアプス(後陣)の地下に眠る)。幾度も改修され,今日の建物の大部分はロンバルディア・ロマネスク様式(11~12世紀)による。…
…また,今日いろいろ議論されてはいるが,13世紀をアルス・アンティカ(古技法)の時代,14世紀をアルス・ノバ(新技法)の時代と呼ぶ慣習もかなり普及している。 313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されたあと,北イタリアのミラノの司教になったアンブロシウスは,東方のキリスト教徒たちの礼拝で歌を歌う習慣を採り入れ,みずからラテン語の賛歌の作詩もした。その後,西方のキリスト教会では,アウグスティヌスらによって提起された,礼拝における音楽の使用に対する懐疑が,おりにふれて思い出されはしたものの,教会当局の考えは,概して音楽の使用に対して肯定的であった。…
…386‐387年ころ対ペルシア講和(これによりアルメニア王国を両国で分割)を締結したことも,この西征を可能とした。388年夏マクシムス打倒に成功したのち,帝はウァレンティニアヌス2世を復位させ,自らも3年間イタリアに滞在したが,この間にミラノ司教アンブロシウスの強い影響力を,ときには対立を交えながら受けるようになった。390年春テッサロニケで起きたゴート人守備隊長殺害に激怒した帝が報復殺戮(さつりく)を命じ,命令撤回がまにあわず7000人の市民が虐殺されるという事件が起こると,アンブロシウスは帝が公に懺悔を行うまで聖体拝受を許さず,8ヵ月後ついに帝が折れて懺悔を行った。…
…最初の2語をとって呼ばれる。4世紀のミラノの司教アンブロシウスの作とする説,あるいはアウグスティヌスがアンブロシウスの手で洗礼を受けたとき,霊感に打たれた二人が,その場で交互に1句ずつ作ったとする言い伝えがあるが,正確な起源は不明。ただし5世紀ないし4世紀までさかのぼることは確実で,近来の研究はガリア聖歌およびモサラベ典礼との関係を指摘している。…
…これが現在の地名の起源であり,前1世紀ころから,北イタリアの商業,産業および文化の中心として急速な発展を遂げた。 ミラノにキリスト教が伝えられたのは,1世紀末であるが,374年ミラノ司教に選ばれたアンブロシウスのもとで,北イタリアにおけるキリスト教の中心地としても重要な都市になった。386年に彼が創建したサンタンブロージョ教会は,その後11~12世紀に修理されて現存している。…
…キリスト教未公認時代最大のキリスト教ラテン作家はテルトゥリアヌスであったが,後世に与えた影響はキプリアヌスの方が大きかった。313年のキリスト教公認を境に,4世紀から5世紀にかけて,《マタイによる福音書》を叙事詩にしたユウェンクスJuvencus,雄弁家ラクタンティウス,賛美歌作者で人文主義に反対した神秘主義者アンブロシウス,古代最大のキリスト教ラテン詩人プルデンティウスとその後継者ノラのパウリヌスなどが活躍したが,古代最大の2人のキリスト教作家も続いて現れた。一人は,全古典作家に精通した人文主義者である一方,聖書をラテン語に翻訳して,異教の伝統とキリスト教とを照応させたヒエロニムス,もう一人はヨーロッパ最初の自叙伝《告白》と,《神の国》などの著作で名高いアウグスティヌスである。…
… ウァレンティニアヌス朝とテオドシウスの時代には,異教知識人とキリスト教聖職者との最後の論争が行われた。前者の代表はローマ元老院議員シンマクスであり,後者の代表はミラノ司教アンブロシウスであった。392年,フランク人出身ローマ軍司令官アルボガストを後ろ盾に,ウァレンティニアヌス2世(在位375‐392)を除去してローマに蜂起したエウゲニウスの簒奪(在位392‐394)は,テオドシウスによって鎮圧された。…
※「アンブロシウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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