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古代アテナイの政治家。家柄はあまりよくなかったが,生まれつき頭脳明敏で野望に燃えていた。幼いころから,普通の子どもの遊びには加わらず,自分ひとりで演説の練習をしていたという。彼は功名心に駆り立てられて政治家への道をひたむきに進んでいった。最大のライバルはアリステイデスだった。前493年に首席アルコンの要職に選ばれ,ペルシアの来襲を見通し,ラウリオン銀山の収益を市民に分けるのを控えさせ,それを三段橈(かい)船の建造費に回した。こうして前480年にペルシア王クセルクセス1世が攻めこんできたときに,テミストクレスはストラテゴス(将軍)として艦隊を指揮し,ペルシア軍をサラミスの海戦で破った。
その後,彼は戦火に崩れたアテナイ市の立直しを図り,城壁を築き,さらにペイライエウス(ピレウス)港の建設を始めた。これはアテナイを海に結びつけようとする政策に基づくものだった。しかし,政敵キモンと争い,また,比類のない声望を憎まれて,前471年ころ陶片追放にあう。その後はアルゴス,コルキュラ,エペイロス,マケドニアと転々し,小アジアに渡った。そして,敵国ペルシア王アルタクセルクセスに厚遇され,マグネシアの総督に任ぜられ,その地で病に倒れた。毒杯をあおって死んだとも伝えられている。
執筆者:安藤 弘
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古代ギリシア、アテネの政治家、将軍。海軍第一主義を唱えて、ミルティアデスの没(前489)後有力となった。紀元前483年に政敵アリステイデスをオストラキスモス(陶片追放)で遠ざけ、またラウリオン銀山の収益から100隻の三段橈船(どうせん)を建造して、強力な艦隊をつくった。ペルシア王クセルクセス1世の遠征の際には、ギリシア艦隊の作戦を主導し、サラミスの海戦(前480)では詭計(きけい)を用いてペルシア軍を狭い水路に誘い出し、大勝利を得た。ペルシア軍退却後、巧妙な外交策でスパルタの反対を抑えて、アテネの城壁を再建した。しかし彼の反スパルタ的姿勢は市民の不信を招き、親スパルタ派のキモンに圧倒され、前470年ごろ自身オストラキスモスにあってアルゴスへ退いた。さらに前468年ごろペルシアとの内通の罪で訴えられ、欠席裁判で死刑を宣せられたため、旧敵ペルシアへ逃れた。彼はここで小アジアのいくつかの都市の太守に任ぜられたが、まもなくマグネシアで死亡した。
[篠崎三男]
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前524頃~前460頃
アテネの政治家。名門に生まれ,前493年アルコンとなってピレウスの軍港を建設し,前483年100隻の三段橈船(かいせん)からなる大艦隊を建造,アテネを一躍,強大な海軍国とした。前480年サラミスの海戦の際には巧妙な作戦によりペルシア海軍を撃破したが,そののち功を誇って市民に嫌われ,ペルシアに内通しているとの理由で陶片追放にあい,さらに死刑を決議されて,ペルシアに亡命した。
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…〈正義の人〉とたたえられた古代アテナイの政治家,将軍。前6世紀末のクレイステネスの改革に参与し,さらに前490年のマラトンの戦では将軍としてミルティアデスを助け,ライバルのテミストクレスと戦列に肩をならべて戦った。戦後まもなく首席アルコン(最高官)の職にえらばれたが,民主派のテミストクレスと張りあったすえに陶片追放の憂き目にあう。…
…僭主政打倒のときにペルシアに亡命したもとのアテナイ僭主ヒッピアスもこれに同行したが,マラトンの戦でアテナイ軍はほとんど単独でこれに勝利した。その後まもなくアテナイの名将テミストクレスの海軍拡張政策がアテナイ人の支持を受けていたとき,ダレイオスの後を継いだクセルクセス1世は前480年自ら陸海の大軍を率いてギリシアに侵入した。この危機にあたってギリシア諸市の態度はさまざまであったが,陸軍強国スパルタと海軍強国アテナイの協力ができたことはギリシア諸市の戦いにとって大きな意義をもった。…
…この碑文が刻まれたのは前4世紀の反マケドニア運動がさかんになった時と推定される。前480年サラミスの海戦の前にテミストクレスの発議で評議会と民会で決議された,対ペルシア軍作戦計画を内容とするもので,もとのものに近いと推定される。その内容は,アテナイ在住の市民も外人も婦女子をトロイゼンに移すこと,兵役年齢のものは兵船200隻に乗りこんでギリシア人の自由のためにバルバロイと戦うこと,全兵力を船長,20人の乗組員,4人の射手などから成る200の兵力相等しい隊に分けて兵船を割りあて,100隻はエウボイアのアルテミシオンに敵を迎え,100隻はサラミスおよびアッティカに投錨して国土を守ること,財務官と神職者はアクロポリスにとどまって神々の財産を守ることなどであった。…
…その後,陸・海路を経て鶏,そして闘鶏は世界各地に伝えられた。インド,古代ペルシアからギリシアでも盛んで,サラミスの海戦(前480)を前に,ペルシア軍と闘うギリシアの名将テミストクレスが自分の軍隊に闘鶏を見せ,士気を鼓舞したという話は有名である。古代ローマからスペインを経て北部ヨーロッパに伝えられた闘鶏は,中世イギリスで大流行し,祭日の催しとして欠かせないものであったと同時に,当時の学生間でもてはやされた。…
…ペルシアでも朝を告げる鳥として,光のシンボルとなり,その鳴声で闇の悪霊を払うとされた。ギリシアでは闘鶏が盛んであったが,ペルシア戦争で意気阻喪しかけたギリシア軍に対して,司令官テミストクレスが,勝利の名誉だけに命をかける鶏の勇気をたたえ,〈諸君は同胞のため,神々のため,祖先の墓のため,なかんずく自由のため戦っているのではないか〉と激励して勝利に導いたという話がある。勇気の手本とされたこの闘鶏は,ローマでは民衆の娯楽の一つになった。…
… ダレイオスは第2次ギリシア遠征の準備にかかったが,エジプトの反乱に阻まれ,志を果たせないまま前486年この世を去った。この頃アテナイでは,対ペルシア路線をめぐる対立が有力政治家の抗争を激化させ,オストラキスモス(陶片追放)の投票が連年施行されるなかで,テミストクレスに代表される反ペルシア路線が固まっていった。
[第2回ペルシア戦争(前480‐前479)]
ダレイオスの遺志を継いだクセルクセス1世は,陸海呼応の大兵力でギリシアを征服する準備にかかった。…
※「テミストクレス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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