ジョバンニ・ボッカッチョ作の短編小説集。《十日物語》と訳される。最初の近代小説といわれる。1348年着手,53年完成。1348年トスカナ地方を襲ったペストの記述から始まる。この恐るべきペストを避けるためにサンタ・マリア・ノベラ教会にたまたま落ちあった淑女7人と紳士3人とが14日間フィエゾレの丘で歌い踊り散歩して暇つぶしをしたが,そのうち金曜日,土曜日を除く10日間,毎日一人が女王または王として司会し,一つの主題を出して物語をすると他の9人がこれにつづいて話をする。こうして100の短編小説が語られる。
その内容はフィレンツェをはじめイタリア各地だけでなく,フランスやオリエントなど当時の全世界にわたり,時代もさまざま,登場人物の身分,職業,容貌もさまざま,気質や性格も多種多様。道徳的に高尚な話から背徳的な猥談(わいだん)までこれまたいろいろである。ダンテの《神曲》に対して《人曲》ともいわれている。
19世紀のイタリアの大文学史家デ・サンクティス以来,この作品は,中世の教会と封建制度を嘲笑する新興ブルジョアジーの勝利の記録としてたたえられた。たしかに,ありとあらゆる悪事を働いた悪党の代表人セル・チャペレットが臨終の際,自分の実際の言動とすべて反対のように告白したことによって聖者に列せられる第1日第1話や,聖職者の堕落ぶりや肉体の欲望をたたえる話などに関するかぎり,デ・サンクティスの評価は正しいが,中世的な騎士精神や信心深さをたたえた話も少なくない。しかし,やはり読者に魅力のあるのは,肉体のよろこびを謳歌したり,僧侶の堕落ぶりを暴露嘲笑する話であろう。
この《デカメロン》は,手書きとして,イタリア中にひろがり,フランコ・サッケッティ,ロル・ジョバンニ・フィオレンティーノ,マスッチョ・サレルニターノ,マッテオ・バンデロのようなルネサンス短編小説作家に引き継がれたが,16世紀には,教会や聖職者の神聖を冒瀆(ぼうとく)する不敬の書としてローマ教皇庁の禁書目録に加えられた。というものの,写本のままこの小説集がヨーロッパ世界にひろがって愛読された結果,イギリスではチョーサーの《カンタベリー物語》,フランスではナバール王妃マルグリットの《エプタメロン》などが生まれ,近代文学とつながっていった。
日本では明治時代に尾崎紅葉がこの著の一編を翻案して《鷹料理》を著したほか,二,三の翻案が見られたが,肝心の艶笑談は紹介されたこともなかった。エロ本の代表と見られていたからである。独訳本に拠って森田草平が《デカメロン》全訳を出版したのは1930年だった。ただし,そのうち最もおもしろい29編は,伏せ字だらけの別の小冊子として発行された。全編発行禁止になる危険を避けるためだった。第2次大戦後になって,日本でもやっと全訳本を読むことができることになった。野上素一,高橋久,岩崎純孝らの訳本がある。
執筆者:杉浦 明平
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14世紀イタリアの大作家ジョバンニ・ボッカチオの代表作。「十日物語」の意。10日100話の短編物語(ノベツラ)を集大成した作品で、三界百歌の構成をもつダンテの『神曲』(神聖喜劇)に対して、『人曲』(人間喜劇)ともよばれる。中世ヨーロッパの民間伝承、逸話、史実、伝説などを素材にして、王侯貴族から下男下女、教皇から乞食(こじき)に至るまで、ありとあらゆる社会階層の人物群を登場させ、『千一夜物語』などの流れをくむ枠物語の結構に収め、著者、1日の物語の主宰者、話者、作中人物らが、複雑に語り合い、重層的な対話世界を、前衛的な文学手法で描き出している。
著者は長年にわたって書きためてきた、あるいは温存してきた短編物語も含め、1349年から51年にかけて、10日100話をまとめ上げた。巻頭と巻末に断り書きがあり、第1日の冒頭には長い序文も付せられていて、著者の創作意図がときには細部にわたって記されているが、とりわけ、むしろ陽気さと活気に満ちた100の短編物語群をまとめる契機になった基盤、もしくはその背景を埋め尽くしている暗黒のペストの場景、すなわち地獄絵のような当時のフィレンツェ市国の惨状の描写は、注目に値するであろう。この陽気な物語群は、迫りくる死の恐怖のなかで、閉ざされた社会の奥に心満たされぬ思いで生きる女性たちのために書かれた、と著者は断っている。
[河島英昭]
1348年のペストが荒れ狂うフィレンツェで、聖女マリーア・ノベッラ教会堂に、年若い3人の貴公子と7人の貴婦人とが落ち合い、郊外の丘陵に囲まれた山荘へ難を逃れ、黒々とした現実世界の憂さを晴らすため、10日にわたって各人が一話ずつ物語をすることになる。そして、日ごとに一座を取り仕切る王もしくは女王を選び出し、その主宰のもとに、指名されながら、各人が短編物語を話しだす。第1日と第9日は自由に自分の好みの物語を話してもよいが、他の日にはそれぞれに主題が定められている。ただし、貴公子のディオネーオにだけは主題からすこしそれてもよい特権が与えられてある。たとえば第1日は女王パンピーネアが主宰し、第一話は貴公子パンフィロが物語るのだが、名高い大悪党チェッパレッロは臨終に一世一代の大嘘(うそ)をついて聖者チャッペレットになりすますという筋書き。また1日の末尾には締めくくりのことばとともに、一座の者たちが踊りに打ち興じて、カンツォーネを歌うことになっている。
100話の短編物語はそれぞれに奇想天外なものばかりで、おおむねは明るい喜劇だが、不幸な愛を物語る第4日のように暗いものも配置されている。物語の舞台はイタリア半島を大きく踏み出して、ヨーロッパはもとより、オリエント、アフリカの各地に及び、この作品が中世からルネサンスにかけての「商人の叙事詩」とよばれるゆえんともなっている。
[河島英昭]
『森田草平訳『デカメロン』全二巻(1931・新潮社)』▽『柏熊達生訳『デカメロン』(1955・河出書房)』▽『岩崎純孝訳『デカメロン』全二巻(1971・集英社)』
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『十日物語』と訳す。ボッカチオが1348年から53年にかけ執筆した百話集。フィレンツェ市内の黒死病流行を近郊に避けた3人の男性と7人の女性が,各人1日1話,10日間で100の小話を語り合う形式で,修道院長や司祭の不品行をはじめ,各種の人間的欲望がさまざまの人によりはばかるところなく演ぜられるさまを記す。その人間解放の精神により近代小説の先駆とされる。
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…ペトラルカは俗事詩抄《カンツォニエーレ》において,ラウラへの〈愛〉を軸に,まさに完璧な抒情詩の世界をつくりあげ,〈ペトラルキズモ〉はその後数百年間にわたって詩史に君臨し,現代詩にいたるまで強い影響を与えている。他方,ボッカッチョは《デカメロン》(〈十日百話〉)を著して,ダンテにならい完全数を守りながらも,物語を逆の方向へ展開させた。すなわち,ダンテにあっては,三界を遍歴する主人公を導く者は,まずラテン詩人ウェルギリウスであり,ついでベアトリーチェであり,彼女の背後には光の源としての神がある。…
…【清水 広一郎】
【イタリア文学におけるトスカナ】
イタリア文学のなかにトスカナが占める位置を知るには,まずダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョの名を想起する必要がある。《神曲》《カンツォニエーレ》《デカメロン》,この三つの傑作は,イタリア文学にとってまごうかたなき古典であり,叙事詩,抒情詩,散文物語の各分野で確固たる伝統を築き上げた。ただし,《神曲》の筆が執られたのはフィレンツェ追放後であり,ペトラルカにいたっては幼くしてすでにトスカナの地を去っている。…
…ただしこの題名自体は16世紀のものである。ノベレ(小話集の意味でノベラの複数形)のうち最も完成されたものは,いうまでもなくボッカッチョの《デカメロン》である。デカメロンの成功は多くの類似作品を生み出した。…
… 1347年コンスタンティノープルに侵入してきたペストは,地中海貿易路をそのままたどり,48年にはイタリア,フランスに上陸,ついにヨーロッパ内陸に波及していった。ボッカッチョの《デカメロン》にはペストに襲われたフィレンツェの惨状が描かれている。黒死病による死者は3人に1人といわれ,ヨーロッパでは3500万人,その他を加えると,全文明世界で6000万~7000万人の死者を算したといわれる。…
…しかしバルディ商会が破産したため40年フィレンツェに引き揚げてからは,もっぱら古典文学研究と創作に力を注いだ。48年のすさまじいペスト大流行を見て,《デカメロン》を書き始め,50年詩人ペトラルカと会って親交を結んでからは,古代の思想,芸術,文化に対する熱情を高めて,ラテン文学だけでなく,古代ギリシア文学の研究にも志した。ホメロスの《イーリアス》の完全なギリシア語原典の写本を初めて修道院の図書館から掘り出したうえ,ラテン語訳本を見つけたのは彼であった。…
…西洋では,この形式はルネサンス期の文学に多くみられ,口承文芸から文字文芸への移行や,俗語の散文による小説の成立を示唆するものとして文学史上注目される。その典型的なものはボッカッチョの《デカメロン》で,ペストを避けて郊外の別荘に落ちあった10人の男女が交替で司会役をつとめ,残りの9人が順次物語るという形式のもとに,教訓譚,ロマンス,滑稽譚,艶笑譚等々,多様な短編が集められている。チョーサーの《カンタベリー物語》,マルグリット・ド・ナバールの《エプタメロン》もその好例である。…
…〈笑わない人=病人〉だからであって,笑いに精神的な治療の力をみていたからだろう。ボッカッチョの《デカメロン》(1353)には,笑いに対するこのような考え方が生かされている。100の笑話の語り手はペストを逃れて田舎にやってきた人々である。…
※「デカメロン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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