フランスの画家。ル・アーブル生れ。1918年にパリに出て短期間アカデミー・ジュリアンに学ぶ。M.ジャコブ,F.レジェらと知り合うが,24年絵画をやめて家業のブドウ酒卸業に従事する。41歳になってから再び絵画に専念し,44年にパリで初個展。50年代に入ってアンフォルメルの運動が高まるや,先駆者の一人として評価を受けた。既成の芸術観念を否定し〈アール・ブリュット〉を唱え,子どもや精神病者の素朴な造形に強い関心をいだいて,47年からその種の作品を収集する。みずからは絵具に砂,石灰,アスファルトなどを混ぜて塗りつけることで重厚な肌合いを画面に与える〈オート・パートhautes pates(厚塗り)〉によって,《御婦人の身体》連作(1950-51),《土と地面》連作(1951-52)など,画面の質感の物質性が具象的とも抽象的とも呼びかねる一連の作品をつくりだした。50年代後半からはしだいに装飾性の強い,ジグソー・パズルにも似た絵画となり,さらに70年代後半からは形象とそれが描かれる地である画面との総合の試みが始まっている。
執筆者:千葉 成夫
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フランスの画家。ル・アーブルに生まれる。同地の美術学校に学ぶが、1918年パリに出てアカデミー・ジュリアンに入る。しかし6か月学んだだけで独学を決意。文学、音楽、外国語などに多角的な関心をもって青年期を過ごすが、兵役終了後、8年にわたって画業を中断し、家業のぶどう酒商に従事し、1930年に彼自身の商会を設立しベルシーに住む。しかし33年ふたたび絵筆をとり、さらに顔をかたどった仮面や人形を制作。37年から5年間、再度、絵画を放棄してぶどう酒業に専念。第二次世界大戦で気象観測隊に動員され、1942年から完全に画業に専念することとなる。「貴族的な芸術、あるいは礼拝堂の芸術」を否定し、自由な線描、油彩に砂やタールを混ぜた画面にグロテスクな、あるいはユーモアのある人物像などを線で彫り込んだ画風は、大戦後の新たな絵画として多くの批評家にもてはやされた。
肖像画を「反心理学的、反個人的」と規定し、サハラ砂漠に三度飛行して「妖精(ようせい)的風景」を探求するデュビュッフェは、「文明の枠の外」にある狂気、弱者の芸術として彼の作品を構想し、それらを「アール・ブリュト」L'art brut(生の芸術)と名づけた。その後もポリエステルの彫刻など、自由な材料と自由な技法で、合理的精神の枠外にある人間や大地を表現し続けた。
[中山公男]
『針生一郎解説『現代世界の美術21 デュビュフェ』(1986・集英社)』
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…〈生(なま∥き)の芸術〉と訳されるフランス語。画家デュビュッフェによって精神病者・子ども・素人芸術家(部分的には素朴画家も含まれる)らの作品を指すために,1947年ころから用いられた。通常の美術概念の枠外で作り出されるそれらの作品は,無意識の世界から自発的に発生してくるとみられる。…
※「デュビュッフェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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