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トリアノン条約 (トリアノンじょうやく)
第1次世界大戦の結果,1920年6月4日,ハンガリーと連合国の間で結ばれた講和条約。ベルサイユ宮殿の一部をなす大トリアノン宮殿で調印されたところから,このように呼ばれている。ハンガリーはすでに1918年11月,オーストリアとの連合関係を断ち共和国を宣言していたが,その後評議会政権の出現と倒壊という激動がつづき,講和条約の締結はおくれた。この条約によって,トランシルバニアがルーマニアに,南ハンガリーがユーゴスラビアに,スロバキアとルテニアがチェコスロバキアに,ブルゲンラントがオーストリアにそれぞれ割譲され,全領土の71%を失い,人口も2100万から750万に激減,海への出口も閉ざされた。また軍備,海運などの面でも厳しい制限を課され,多額の賠償支払いも規定された。こうして敗戦国のなかで最も過酷な講和条件を強制されたハンガリーでは,条約に対する民族的敵意を基盤にして極右団体が競い合うことになった。
執筆者:平井 友義
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トリアノン条約(トリアノンじょうやく)
Trianon
第一次世界大戦の結果,連合諸国とハンガリーの間に結ばれた講和条約。ベーラ・クンの指導下に起こったハンガリー革命のため,条約は1920年6月4日になってヴェルサイユ宮殿内のトリアノン宮で調印された。この条約によりハンガリーはルーマニア,セルブ・クロアート・スロヴェーン,チェコスロヴァキア,オーストリアに領土割譲を約したほか,軍備制限や賠償の義務も課せられた。この結果,ハンガリーは面積を3分の1に,人口を5分の2に縮小され,約300万のハンガリー人(マジャル人)を国境の外に置くことになった。
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「トリアノン条約」の意味・わかりやすい解説
トリアノン条約【トリアノンじょうやく】
第1次世界大戦後の1920年6月4日,ベルサイユ宮殿内のトリアノンTrianon宮で,連合国側とハンガリーとの間で結ばれた講和条約。ハンガリーはルーマニア,チェコスロバキア,ユーゴに領土割譲を強制され国力を失った。
→関連項目パリ平和会議|ベルサイユ体制
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トリアノン条約
トリアノンじょうやく
Treaty of Trianon
第一次世界大戦後の1920年6月4日,連合国とハンガリーとの間でヴェルサイユのトリアノン宮殿で結ばれた講和条約
これによってハンガリーは,オーストリアから完全に分離するとともに,南ハンガリーをユーゴスラヴィアへ,トランシルヴァニアをルーマニアへ,スロヴァキアをチェコへ割譲され,賠償義務を課せられた。このため,旧王国にくらべて国土は3分の1に減り,人口も5分の2に縮小された。
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トリアノン条約
トリアノンじょうやく
Treaty of Trianon
第1次世界大戦後の 1920年6月4日,パリ近郊のベルサイユのグラン・トリアノン宮殿で調印された連合国とハンガリーとの講和条約。この条約により,ハンガリーは陸軍を3万 5000人に制限され,海軍は一切禁止されたうえ,賠償金を課せられた。またその領土はチェコスロバキア,ユーゴスラビア,ルーマニアなどの隣接国に割譲させられた結果,面積は戦前の3分の1に,人口は5分の2に縮小された。
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世界大百科事典(旧版)内のトリアノン条約の言及
【トランシルバニア】より
…これに対し第1次世界大戦によるオーストリア帝国の崩壊過程で,1918年12月にアルバ・ユリアで開かれたルーマニア民族集会においてトランシルバニアのルーマニアとの統合が決議された。国際法上は20年のトリアノン条約によって正式にこれが決定された。40年ウィーン裁定によってトランシルバニアの北半分はハンガリー領となったが,第2次世界大戦後のパリ条約(1947)によりルーマニアの領有権が認められた。…
【バナト】より
…1779年からハンガリー領,1867年からオーストリア・ハンガリー二重帝国領となったが,この間に経済の発展とともに社会問題,とくに民族問題が激しくなり,ルーマニア人やセルビア人の民族運動の重要な中心地の一つとなった。第1次世界大戦後のトリアノン条約,セーブル条約(ともに1920)によって,バナトの約3分の2はルーマニア領,残りはユーゴスラビア領に編入され,以後それぞれの統一国家に重要な産業地帯として組み入れられた。第2次世界大戦中はドイツに占領されたが,戦後パリ条約(1947)によって旧領土に復した。…
【バルカン】より
…
【バルカンにおける国家と民族】
[ベルサイユ体制とバルカン]
長い民族運動の結果,バルカンの主要民族が現在の領土に近いかたちで国家の独立を達成したのは,第1次大戦後の[ベルサイユ体制]のもとにおいてであった。すなわち,ギリシア,ブルガリアは[ヌイイー条約](1919),ルーマニアは[トリアノン条約](1920)によって国境が画定され,のちのユーゴスラビアのもとをなすセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立は1918年,アルバニアの独立の承認は20年であった。独立国家の達成が彼らに将来の発展の基礎を与えたことはいうまでもない。…
【ビホル】より
…19世紀を通じてハンガリーの民族政策に反発するルーマニア人の民族運動が強まったが,そのなかで1848年革命でコシュートに協力したルーマニア人ドラゴシュIoan Dragoş(1810‐49)や民族差別政策に反対したハンガリーの詩人[アディ]ら両民族の平等と友好を願う著名人をも生み出した。トリアノン条約(1920)によりルーマニア領となり,1940年ウィーン裁定により一時ハンガリー領となったが,パリ条約(1947)により再びルーマニア領となった。【萩原 直】。…
※「トリアノン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」