第1次世界大戦後のトルコ人による祖国解放運動,およびその結果成立したトルコ共和国における一連の改革。ただし,後者のみを指す場合もある。オスマン帝国が第1次大戦に敗北すると,アナトリアはイギリス,フランス,イタリアおよびギリシアの占領下に置かれ,民族的独立を脅かされた。トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがてムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタチュルク)が,1920年4月23日にアンカラに〈トルコ大国民議会〉政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン・カリフ政府に対して,公然と反乱。連合国は同年8月10日,スルタン政府との間にセーブル条約を締結してトルコ分割案を具体化した。ここにいたってトルコ国民は,〈トルコ大国民議会〉政府の側に結集し,スルタン政府軍(カリフ擁護軍)を破り,北東アナトリアのダシナク派アルメニア人勢力を壊滅させ,南東アナトリアのフランス占領軍を圧迫し,22年9月9日には,西アナトリアを占領していたギリシア軍をアナトリアから追放することに成功した。これによって祖国解放運動が勝利すると,アンカラ政府は,同年11月1日にオスマン朝のスルタン・カリフ制をスルタン制とカリフ制とに分離して前者を廃止した。その結果,オスマン帝国のスルタンは国外に亡命し,ここにオスマン帝国は滅亡した。ただし,カリフにはオスマン王家の一員が〈トルコ大国民議会〉によって選出された。23年7月23日,アンカラ政府は連合国との間にローザンヌ条約を締結し,セーブル条約を廃棄させてトルコの独立を国際的に承認させ,あわせて治外法権の撤廃,オスマン債務管理局およびフランス系タバコ専売公社の廃止など,19世紀以来の経済的植民地体制を清算することに成功した。同年10月29日,アンカラを新首都としてトルコ共和国が宣言され,ケマル・アタチュルクがその初代大統領に選出された。
これに対してイスタンブールでは保守勢力がカリフを国家元首とすべきことを主張して,ケマル・アタチュルクの独裁を批判した。〈トルコ大国民議会〉は,24年3月3日にカリフ制の廃止,オスマン王家の全成員の国外追放,シャリーア・ワクフ省の廃止,マドラサの廃止による世俗的学校教育への一本化を含む法案を可決し,4月1日にはシャリーア(イスラム法)に基づく宗教法廷をも廃止した。25年初頭に,カリフ制およびシャリーアの復活を要求して東部アナトリアにクルド族の反乱(シェイヒ・サイトの乱)が起こると,政府は治安維持法を制定してこれを鎮圧し,さらに同法の有効期間を29年3月まで延長して,この間に,神秘主義諸教団(タリーカ)の修道場(テッケ)や廟の閉鎖,トルコ帽の着用禁止,一夫多妻制の禁止などを含む新市民法の制定,ヒジュラ暦の廃止とグレゴリオ暦の採用,アラビア文字の廃棄と新トルコ文字の採用(文字改革)など一連の世俗化政策を実施し,28年4月には憲法における〈イスラムを国教とする〉条文を削除した。経済面では,当初,トルコ人の民族資本による私営企業の振興に努めたが成功せず,29年以来の世界恐慌を契機として,国家資本による国民経済の創出政策に転じ,外国系特権企業・鉄道の買収と新たな国営企業,鉄道,道路,港湾施設の建設とに努め,そのための金融組織をつくり出すためにトルコ中央銀行(1930年6月)をはじめとする各種の国立銀行を設立した。これらの政治・経済諸改革によって,30年代のトルコは,自立的な国民経済をもつ世俗的なトルコ民族国家となり,トルコ革命は一応その目的を達成した。
革命を導いたイデオロギーは,オスマン帝国時代のオスマン主義,パン・イスラム主義,トゥラン主義を清算してアナトリアに住むトルコ人の救済を目的とした,地縁的なトルコ民族主義に求められた。しかし革命に参加した人々の多くは,これをイスラムの宗教運動としてとらえていたために,解放達成後,保守的なウラマー(宗教指導者・学者),知識人,軍人が,ケマル・アタチュルクを党首とする人民党(1923年9月創立,24年11月共和人民党と改称)と対立してカリフ制擁護を主張すると,人民党による改革は,いっそう非宗教的傾向を強めた。祖国解放運動の軍事的側面は青年将校,職業軍人が指導したが,運動の経済的・社会的組織化には,ウラマー,地主,民族資本家が大きな役割を果たした。このうち,ウラマー層は共和国初期の世俗化改革によって経済的・社会的基盤を根こそぎにされてしまい力を失った。
その結果,1920~30年代を通じ,地主,民族資本家の立場が強化された。また,ソビエト・ロシア政府が早くからトルコの祖国解放運動支持を表明したこともあって,一時期革命派内部に共産主義運動が高揚し,〈緑軍〉と呼ばれるイスラム共産主義組織も結成されたが,1920年代末以後,革命指導部は共産主義運動弾圧の方向に転じた。革命はケマル・アタチュルクの強力な指導と共和人民党の独裁のもとに,主として都市のエリート層によって遂行された。第2次世界大戦後,複数政党制に移行すると,宗教政策,国家資本主義などをめぐって保守的知識人,地主,企業家たちから共和人民党への批判が強まり,民主党が政権をとると,革命は後退した。
執筆者:永田 雄三
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ケマル・アタチュルク(ムスタファ・ケマル)の指導の下に、オスマン帝国を倒し、トルコ共和国を樹立した革命。第一次世界大戦でのオスマン帝国敗戦に乗じ、西アナトリアに侵入したギリシア軍を撃退するために、アタチュルクは1919年東部諸州会議をエルズルムに招集、アナトリア・ルメリ権利擁護協会を結成した。20年、オスマン政府が連合国に屈し、セーブル条約に調印すると、アタチュルクはアンカラに大国民議会を開き新政府を樹立し、ギリシア軍に対し軍事行動を起こした。21年、サカリヤの戦いで勝利し、ギリシア軍をアナトリアから追い出した。22年、スルタン制を廃止し、唯一のオスマン政府としてアンカラ政府は翌年連合国と対等の条件でローザンヌ条約を結んだ。小アジアの全領土の保全、カピトゥレーション(治外法権)の撤廃が認められた。23年10月トルコ共和国の成立が宣言され、オスマン帝国は消滅した。アタチュルクは初代大統領に就任、アナトリア・ルメリ権利擁護協会はトルコ人民党となった。24年カリフ制を廃し、4月に共和国憲法を制定した。その後、多くの改革が行われた。トルコ帽およびベールの廃止、神秘主義教団の解散、文字改革、憲法からイスラム教の国教規定を削除、姓氏法の制定などであった。また産業の育成など経済面での改革なども推進され、国立中央銀行を新設し紙幣発行権を確保した。トルコ革命により、近代国家の基礎が確立され、国際的地位も向上した。
[設楽國廣]
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1922~23年のスルタン制から共和制に移行した革命をいう。ケマル・パシャの祖国解放戦争の勝利は,22年10月11日ムダニア休戦協定をもたらし,新講和会議がローザンヌで開催される段取りとなり,10月27日,招請状がスルタン政府と大国民議会政府に届いた。この変則的な二元政治を改め国民主権を確立するには,スルタン制の廃止を必要とした。11月1日大国民議会はケマルのイニシアティヴでこれの廃止を決議,17日にメフメト6世は国外に亡命した。ケマルは初代大統領に選ばれ,24年カリフ制度を廃して主権在民,一院制,女性参政権を認めた共和国憲法を発布し,イスラームと政治との分離,ローマ字化,ヨーロッパ法の採用など一連の近代化政策を推し進めた。
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