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ある現象や過程で,対象とする物質の挙動を追跡する目的で加える物質をトレーサーという。追跡子と呼ばれることもある。トレーサーは,追跡しようとする対象物質とまったく同じ挙動をすること,および追跡の過程で検出が容易であることが必要である。このため放射性同位体が利用されることが多く,放射性トレーサーといわれる。一方,安定同位体をトレーサーとして使用することもあり,この場合は安定同位体トレーサーと呼ばれる。大量の放射性トレーサー使用を必要とする場合には,放射線障害防止のため実験が困難となり危険も伴うので,安定同位体をトレーサーとして使用し,実験中にトレーサーを含む試料を採取した後,これを放射化してトレーサー量を決定する場合があり,アクチバブル・トレーサーと呼ばれる。
トレーサーの利用法は,物理的トレーサーと化学的トレーサーに大別することができる。前者は,物質の流れのような物理的現象の追跡であり,対象とする物質と粘性や密度など物理的性質が同じ物質を放射性同位体で標識した物質がトレーサーとして使用される。他方,化学的トレーサーは,化学反応の機構や生体の代謝を調べる場合であり,追跡しようとする物質とまったく同じ化学反応性を示すことがトレーサーに要求され,その物質の一部を放射性同位体で置きかえた標識化合物が使用されることが多い。
トレーサー法は工学,理学,農学,医学など広範な分野で利用されている。代表的例をいくつか以下に示す。なお,ここでは述べないが,放射分析,同位体希釈分析など分析化学への応用やオートラジオグラフィーなどもトレーサー法の一種と考えられる。
トレーサーを利用して流体の移動過程を調べることが広く行われている。対象は河川などの流量の測定から,工場の装置内の流れの方向の確認や漏洩(ろうえい)の検出など多種多様である。このうち最も一般的な河川や水路の流量測定について述べる。トレーサーとしては放射性同位体以外に,染料や食塩などの塩類を使用することもできる。河川の浮遊物や水路の構成材などと反応して水中で損失しないことや,測定に伴って環境に大きな影響を与えないことがトレーサーに要求され,検出感度と測定精度が高く,選択の自由度が大きい放射性同位体を使用することが多い。放射性トレーサーの使用に当たっては,放射線障害防止の対策を講じ,河川などの場合には許可を得る必要がある。アクチバブル・トレーサー法を利用する場合もある。流れの測定に比較的よく使われる放射性トレーサーとしては,82Br,3H,24Na,131I,51Crなどがある。82BrはNH4Br,3Hは3HHO,24NaはNaHCO3などの形で使われることが多い。これらはいずれも,核種ごとに定められた水中最大許容濃度以下で使用せねばならない。
測定は,上流でトレーサーを一定量注入し,河川水と十分に混合した下流で測定する形で行われるが,注入方法には,瞬間的に注入するものと連続的に注入するものがある。(1)上流で濃度c0のトレーサー溶液を連続的に一定流量qで注入し,下流測定点における定常濃度をcとすれば,流量Qはq(c0/c)によって与えられる。この方法は下流測定点において定常的な濃度が観測される場合にのみ可能で,一定流量でトレーサーを注入する装置が必要であり,取り扱うトレーサーの量も多くなる。(2)放射能Aのトレーサー溶液を上流で瞬間的に注入し,下流におけるトレーサー濃度cの時間変化の積分値をCとすれば,流量はQ=A/Cで与えられる。Cを求める方法として,トレーサー濃度の時間変化を連続測定する方法,一定時間間隔でサンプリングして平均値から計算する方法など,種々ある。
また水路の断面積が一定の場合には,注入点から観測点までトレーサーが通過するのに要する時間を測定し,その距離と断面積から簡単に流量を求めることもできる。ドナウ川やケニアのタナ川など,この方法によって流量測定が行われた例がある。また精油所の冷却水の流量測定や火力発電所の負荷の変動に対する流量変化を測定した例など,工場内の流体の流れ測定に使用された例も数多くある。
海底の砂の潮流による移動は,港湾への堆積や海岸線の浸食を引き起こしたりする。河川においても,流れによって上流より運ばれてくる泥や砂が堆積して河底を上げ,ダムの保有水量を減じたり,河川のはんらんを引き起こしたりする。このような漂砂や河泥の移動速度を測定するのに放射性トレーサーが利用される。天然の漂砂に比重や粒度を合わせて,Sc2O3を混入したガラスをつくり,原子炉で放射化して46Scとした人工漂砂を用いた例や,天然の漂砂を51Crや64Cuの水溶液に浸漬した後,高温処理したものを使った例などがある。このようにして得られた放射性の漂砂を海底のある地点に投入し,船上から放射線計測器を海底に降ろし,時間の経過による放射性漂砂の分布の変化を測定して,漂砂の移動速度を知ることができる。
ベアリングやピストンリングなど工具や機械の可動部分が摩耗によってしだいに失われていくことが問題となる場合がある。摩耗量はきわめて微量であり,測定が困難であるため,放射性同位体をトレーサーとして利用する手法がしばしば行われる。この方法は感度が高いうえ,短時間で結論を出すことができるという特徴がある。部品そのものを放射化する場合もあるが,電析などによって放射性の表面層を形成したり,交換反応によって標識する方法も利用される。
機械工具のカッターでは,削りくずの放射能を測定することにより摩耗速度を知ることができる。ピストンリングやベアリングの例では潤滑油やグリース中の放射能を測定する。これらの例では連続測定が可能であり,また機械の運転中に測定することができる利点もある。
トレーサーは化学反応の研究に広く利用されており,反応機構や反応速度の決定に役立った多くの例がある。代表的な例について述べる。
2,2′-ジメチルヒドラゾベンゼンは,酸により(1)式のような転移を起こし,3,3′-ジメチルベンジジンを生成する。この反応はベンジジン転移として知られている。2,2′-ジメチルヒドラジンに14Cで標識した2-メチル-14C-ヒドラゾベンゼンを混合して転移を起こさせると,3,3′-ジメチルベンジジン中に14Cは含まれず,3-メチルベンジジン中にのみ含まれる。これにより,転移反応は下に示すように,-NH・NH⁻結合が切断した切片が他分子からの切片と結合することはなく,分子内で起こっていることが明らかとなった。
トレーサー法は反応速度の測定にも広く利用される。特に平衡状態において測定が可能であるという特徴を有している。例えば
のような平衡が成立しているとき,見かけ上は反応は停止しており,その速度を測定することはできない。しかし,あらかじめ平衡時の組成に等しく各成分を混合し,その一成分を放射性同位元素で標識して放射能の変化を測定すれば,正または逆反応の速度定数kあるいはkを決定することができる。
トレーサーは交換反応の追跡にもきわめて有力な手法である。例えば,クロロホルムCCl3Hを重水D2Oと混合して生成するCCl3Dを測定すれば,水とクロロホルムの水素は交換反応を起こしていることがわかる。この交換反応はアルカリ性で起こるが酸性では起こらないことが知られている。
元素や化合物が生体内に入ってからどのような経路をとって移行し,いかに分布をするかを知るのに,放射性同位体はきわめて有効である。例えばヨウ素を内服すると腸から吸収され,主として甲状腺に高濃度に摂取され,残りは腎臓から尿へ排泄されるが,この過程は131Iを用いたトレーサー法によって初めて明らかにされた。また,植物が生長に必要な元素を根を通して土壌中より摂取し,器官中を輸送して新芽のような代謝が活発に進められている部位に集める過程の追跡が,32Pや45Caなどで標識した養分や56Mn,55Feなどを含む微量養分を用いて行われる。このような標識物質の生体中での分布を知る手法として,オートラジオグラフィーがしばしば利用される。
生体内に取り込まれた化学物質がどのような化学変化を経て最終生成物に到達するか,すなわち代謝経路を決定する場合にも,トレーサー法は有力である。生体内の生成物が何から直接由来するのかを決める先駆物質の確認や,生体内に入った化学物質がどのような反応中間体を経て最終生成物に至るかを明らかにする代謝中間物あるいは代謝生成物の決定が,14C,34S,15N,3Hなどで標識した化合物を用いて行われている。
放射性同位体をトレーサーとして使用して生体内の物質の摂取や移行を調べる手法は,人体を対象とした疾病の診断にも広く利用されている。
最も代表的な例は,131Iを用いた甲状腺機能の検査であろう。131Iを微量含む溶液を投与した後,甲状腺前面に放射線検出器を置いて甲状腺への摂取率を測定することができる。尿の放射能測定から排泄率の測定も可能であり,摂取率や排泄率の異常から甲状腺機能の健全性を評価することができる。また,他の薬剤の投与と組み合わせたり,131Iで標識した特殊なトレーサーを用いると,甲状腺機能の低下の原因を追跡することも可能である。6価のCrは赤血球と結合して3価の状態で保持され,血球が死滅すると放出される性質を利用して,51Crで標識した赤血球を用いて赤血球寿命や循環赤血球量の測定,さらには消化器内での出血量の検出などが可能である。
特定の部位へ集中する性質を持った放射性同位体で標識した化合物を投与し,放出されるγ線を計測して,その体内分布を画像として記録したものをシンチグラムと呼ぶ。体内臓器の形,大きさやその内部における腫瘍,癌などの病巣の存在と位置や大きさを知ることができる。従来は,放射線検出部を患部に対して相対的に移動して画像を作るシンチレーションスキャナーと,検出部を固定して撮影するシンチレーションカメラが使われたが,最近では臓器各断面の核種濃度を計算機によって画像再構成するCT(コンピュータートモグラフィー)技術が著しく発達している(CT検査)。後者はエミッションCTと呼ばれるが,γ線放出核種以外にポジトロン(陽電子)を放出する核種(例えば11C,13N,15O)で標識した物質を投与し,ポジトロンが消滅する際に生成する2個のγ線を同時計数するポジトロンCTもある。
執筆者:石榑 顕吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
対象となる物質の行動や分布状態、化学反応の過程を追跡するために目印として外部から加える物質。追跡子ともよばれる。二つの湖が地下でつながっているかどうかを調査する目的で、一方の湖に緑色の蛍光色素の一種であるフルオレセインを投入し、一定時間後に他方の湖に緑色の着色が現れることによって調べた例が、化学物質をトレーサーとして使用した最初とされている。しかし、現在ではラジオ・アイソトープradioisotope(略称RI。放射性同位体ともいう)がトレーサーとして広く利用されている。その理由は、対象となる物質中のある元素をRIで置換すれば、目印となる物質が当該物質とまったく同様に行動することが期待でき、かつRIから放出される放射線は高感度で容易に測定可能だからである。放射性トレーサーの利用は、第二次世界大戦後、原子炉と加速器によって多種多様なRIが大量に生産できるようになり、理工学、農学、生物学、薬学、医学などのあらゆる研究分野で急速に拡大していった。
同位体は当該元素と原子番号が等しいために物理化学的に同様に挙動することが期待できるとはいえ、両者の質量の違いにより微妙に挙動に差がみられることがある。この差を「同位体効果」という。同位体効果は原子番号の大きな元素よりも原子番号の小さな元素で顕著に現れる。たとえば水素は安定同位体の水素1(プロチウム。記号H、天然同位体存在比99.9885%)と水素2(ジュウテリウム。同D、同0.0115%)で構成されるが、RIの水素3(トリチウム。同T、半減期12.32年)は水素1の3倍も大きな質量を有する。このため同じ水分子でも、軽水(H2O、分子量およそ18)と重水(HDO、分子量およそ19)とトリチウム水(HTO、分子量およそ20)では、沸点などに微妙な差が現れる。軽い元素についてのトレーサー利用では同位体効果に注意する必要があるが、軽い元素を除く通常のトレーサー利用においては、同位体効果は無視できると考えてよい。適当なRIが得られない場合は、トレーサーとして安定同位体を用い、質量分析計などで測定し追跡することもある。トレーサーは、物質の物理的な挙動や分布状態を追跡する場合には物理的トレーサー、化学反応の過程を追跡する場合は化学的トレーサーとよばれることもある。
RIを実験室ではなく野外で使用することは、環境汚染につながりかねず、通常はなかなかむずかしい。このような場合にはアクチバブルトレーサー法を用いるとよい。この方法は非RI、すなわち安定同位体をトレーサーとして用い、対象物から採取した安定同位体を放射化分析(高感度の元素分析方法の一種で、安定同位体を核反応によりRIに変え、その放射線を測定することにより、もとの安定同位体の種類と量を求める方法)することによりその量を求め、対象物の挙動を追跡するものである。たとえばアクチバブルトレーサー法の有名な例としてサケの回遊調査がある。これは天然に微少量しか存在しない元素ユウロピウムを餌(えさ)に混ぜてサケの稚魚に与えると、摂取されたユウロピウムが鱗(うろこ)に濃縮されることを利用するものである。この稚魚を川に放流し、数年後に海洋や川に遡上(そじょう)するサケの成魚を捕獲して鱗を放射化分析することにより、サケが海洋でどのように回遊し、どの程度の割合で放流したもとの川に戻ってくるかを調査する。
動植物の研究ではRIで標識された標識化合物を用いて機能や代謝を調べたり、臓器・組織内での分布状態を調べたりと、RIはトレーサーとして多用されている。また核医学的診断においても、テクネチウム99m(半減期6.02時間。mは核エネルギーが励起(れいき)状態にあることを表す)、ヨウ素131(同8.02日)、フッ素18(同109.8分)などで標識された体内診断用放射性医薬品とよばれる標識化合物がトレーサーとして広く利用されている。
[野口邦和 2015年8月19日]
医学分野の利用については、試料測定(in vitro検査)と生体測定(in vivo検査)とに大別される。
試料測定では生体へのトレーサーの投与は必要なく、血液・尿などが試料となる。トレーサーを標識した測定目的の物質が入った試験管に試料を入れ、標識物質と非標識物質を競合させ、放射免疫測定法、競合的タンパク結合分析法、アイソトープ希釈法などを利用し、放射能の測定により試料中の目的物質を測定ないし定量するものである。測定可能の物質としては、種々のホルモン、アンギオテンシン、オーストラリア抗原・抗体、ビタミンB12、コレステロールなど多岐にわたっている。また、新しい物質の測定法も開発中である。試料測定は、他の方法と比較して感度が高く、多数の試料を短時間に測定できる利点がある。
生体測定は、ある特定の臓器に集まる物質にRIトレーサーを標識した放射性医薬品を生体に投与し、トレーサーより放出されるγ(ガンマ)線を体外で検出し、臓器の形・大きさ、病変の有無を診断するものである。検査が可能となる臓器は、脳、甲状腺(せん)、唾液(だえき)腺、肺、肝臓、脾(ひ)臓、胆道、膵(すい)臓、腎(じん)臓、副腎、骨、骨髄、心臓、大血管など、ほとんどの臓器がその対象となる。生体測定では、放射性医薬品の静脈注射のみで非侵襲的に検査ができ、得られる画像も超音波検査、X線CTとほぼ同程度であり、診断的価値が高い。
[西川潤一]
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元素または物質の挙動を知るために添加される物質のこと.フルオロセインのような水溶性の化合物は,微量でも検出しやすい蛍光を発するので,水のトレーサーとして用いられている.この例のように,トレーサーの添加によって物質の本来の性質が変化を受けず,しかもトレーサーを効果的に検出する手段があればよいわけで,同位体は効果的なトレーサーである.同位体をトレーサーとして用いるときは,放射性同位体を用いる場合と,安定同位体を用いる場合とがある.前者はその放射能,後者は質量分析によって追跡する.トレーサーはしばしば標識化合物の形で用いられ,理工学や農学のほか,診断用医薬品としてもよく利用される.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
… このほか広義の指示薬としては,物質の挙動を追跡するために加えられる放射性同位体や温度を色の変化で示す化合物が挙げられる。前者を放射性指示薬またはトレーサーといい,後者をサーモカラーとよぶ。リトマスなど液性によって変色する物質の存在は古くから知られていたが,指示薬を最初に系統だって記述したのはR.ボイル(1664)とされている。…
…
[同位体の利用]
各種の利用法があるが,おもなものを挙げる。(1)トレーサー 同位体トレーサーは,目的とする元素と化学的・物理学的・生物学的性質が同じであり,同位体効果があるだけというのが特徴である。これによって複雑な化学変化や生物学的変化を追究することができる。…
※「トレーサー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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