翻訳|documentary
ドキュメントは記録や文献という意味であり、ドキュメンタリーは、事実の記録に基づいた表現物をさす。記録文学、記録映画(ドキュメンタリー映画)などについていうことばであり、ラジオやテレビなどの音声表現、映像表現についても使うことができる。1926年にイギリスの記録映画作家J・グリアスンJohn Grierson(1898―1972)によって用いられたのが初めてである。
しかし、普通、ドキュメンタリーという場合は、単なる記録性だけを問題にするのではなく、社会批判、社会告発などの要素が含まれていると考えるべきだろう。松本清張(せいちょう)の『日本の黒い霧』(1960)のような政治の世界や、産業社会の「腐敗」や「悪徳」についての社会的告発や、社会の「闇(やみ)」的な部分の暴露、糾弾、批判などがその作品の主題としてあり、硬派とか社会派とかいわれる作品傾向が共通してみられる。ドキュメンタリー・ノベル、ドキュメンタリー・ドラマといった、本来のドキュメンタリー(記録・文献)とは結び付きにくい造語がつくられてゆくのも、日本においてドキュメンタリーということばが、その表現方法や手法について語られるものであるからだろう。
『復讐(ふくしゅう)するは我にあり』(1975)に始まる佐木隆三(さきりゅうぞう)の小説は、ドキュメンタリー・ノベルといってよく、一人の男による連続殺人事件を、新聞報道、警察調書、裁判資料、独自の取材などの「ドキュメント(文献)」によって組み立てていった作品である。永山則夫の犯罪とその人間を描いた『死刑囚 永山則夫』(1994)も、ドキュメンタリーの手法を最大限に生かした作品といえるだろう。吉岡忍(しのぶ)(1948― )の『墜落の夏』(1986)は、山梨県山中に墜落した日航機事故を、その事故の詳細な報告と事故後の人間模様までをも丹念に取材し、記録したドキュメンタリーの一つの典型のような作品だ。
佐野眞一の『東電OL殺人事件』(2000)は、著者が冤罪(えんざい)と信じる被疑者の潔白を証明しようということと、被害者の人間性に迫ろうという複眼的な視線が生かされた、現代人の心のなかの闇を描く迫真的なドキュメンタリー作品となっている。単に外側に現れた現象の記録ということだけではなく、現代のドキュメンタリーは、事件の内側の真実や、人間の心の内側の現象までをも「記録」しようという企図をもち始めているようだ。
[川村 湊]
『松本清張著『日本の黒い霧』(1960・文芸春秋新社)』▽『佐木隆三著『復讐するは我にあり』上下(1979・講談社)』▽『佐木隆三著『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫)』▽『吉岡忍著『墜落の夏――日航123便事故全記録』(1986・新潮社)』▽『佐野眞一著『東電OL殺人事件』(2000・新潮社)』
文書,証書を意味するラテン語documentumを語源にもつこの言葉は,1920年代に,イギリスの記録映画作家グリアソンJohn Griersonによって用いられた。ドキュメンタリー・フィルムを広くカメラによる〈事実の記録〉と考えれば,L.リュミエールの最初の映画《工場の出口La sortie des Usines》(1895)が,すでにその起点であり,映画の記録性自体がドキュメンタリーの物理的基盤であるといえる。ドキュメンタリーを〈アクチュアリティの創造的劇化〉と規定したローサPaul Rothaは,グリアソンの〈生きた人物や自然の情景による世界の解釈〉というドキュメンタリーの定義を受けて,〈生きた現実から出発し,生きた情景,生きたテーマを劇化しよう〉と主張する。ロバート・フラハティがエスキモーの日常生活を描いた《極北の怪異Nanook of the North》(1922)は,初期ドキュメンタリーの代表作である。〈映画-真(Kino-Pravda)〉,〈映画-眼(Kino-Glaz)〉を唱えたソ連のジガ・ベルトフは,フィクションをいっさい排して,客観的なカメラの眼によって現実に向かうことを主張した。ベラ・バラージュはドキュメンタリーを〈人類の年代記〉だという。
ドキュメンタリーに関する多様な考察・見解に共通するのは〈記録〉という一点であるが,この〈記録〉の意味も時代とともに変化ないし深化してきた。初期の,カメラによる記録=事実という映像表現への信頼と幻想は,人々の映像への習熟とともにしだいに希薄なものとなった。映像は一方において撮影対象の様態に厳密に対応しながら,他方,対象を選択,観察し,状況の一部をクローズ・アップする過程で,さらに編集montageを通して,独自に世界を解釈する働きをもつ。ドキュメンタリーの歴史においては,撮影と編集との主従関係が,映像のもつ解釈力を軸に,一時編集重視の傾向が顕著にみられたが,第2次世界大戦後においては,カメラおよび撮影者が状況の広がりのなかに身を置いて,撮影者とその対象とが生きた存在同士の関係をとり結ぶという形での映像表現に変わりつつあり,〈記録〉の内部に記録者の呼吸が感得されるようになった。
執筆者:江藤 文夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…日本では〈記録映画〉という訳語も一般化している。映画での〈ドキュメンタリー〉という呼称は,そもそもアメリカの記録映画作家ロバート・フラハティがサモア島の住民の日常生活を記録した映画《モアナ》(1926)について,イギリスの記録映画作家であり理論家であるジョン・グリアソンJohn Grierson(1898‐1972)が,1926年2月の《ニューヨーク・サン》紙上で論評したときに初めて使ったことばで,それまでは〈紀行映画travel film(travelogue)〉を指すことばだったフランス語のdocumentaireに由来している。広義には,劇映画に対して,〈事実〉を記録する〈ノンフィクション映画〉の総称で,ニュース映画,科学映画,学校教材用映画,社会教育映画,美術映画,テレビの特別報道番組,あるいはPR映画,観光映画なども含めてこの名で呼ばれるが,本来は(すなわちグリアソンの定義に基づけば),〈人間の発見と生活の調査,記録,そしてその肯定〉を目ざしたフラハティから,〈映画は生きものの仕事〉であり〈事実や人間との出会い〉であるという姿勢を貫いてカメラを対象のなかに〈同居〉させた《水俣》シリーズ(1971‐76)の土本典昭(つちもとのりあき)(1928‐ )や《三里塚》シリーズ(1968‐73)の小川紳介(1935‐92)らにつらなる方法と作品,すなわち〈実写〉とは異なる〈現実の創造的劇化〉が真の〈ドキュメンタリー〉である。…
…もし予断や解釈を排除した,機械的・客観的な記録が理想であるとすれば,写真はまさに記録術の申し子だといえる。したがっていわゆる〈ドキュメンタリー〉が,記録や証拠を提示することを要件としているのならば,視覚メディアとしては,写真は映画やテレビジョンとともに,その最も有効な手段の一つといえる。写真は,しかし映画やテレビジョンのように流れる時間性を持たない点で異なっており,対象の時間的な切断面をそのまま静止の状態で示すことに写真独自の記録性の特徴があるといえる。…
※「ドキュメンタリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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