文芸評論家。東京生まれ。法政大学文学部国文科卒業。旧制府立高等学校付属中等部に在学中、国文学者の片岡良一(よしかず)に出会ったことから文学の道へと進んだ。その道がマルクス主義の道へつながった。昭和10年代はじめ小田切秀雄、佐々木基一、荒正人は「戦争をひかえた時代の激流におし流されずに自己の立場を、文学を通してつきつめてゆきたい、文学そのものを内部に立ち入って明らかにしてゆくことで、思想に生命をよみがえらせたい」という共通の認識をもって結束した。1943年(昭和18)に軍隊に召集された小田切秀雄は、医者だった妻の協力を得て抵抗を続け、戦場に立って人を殺すことを拒否することに成功した。しかし、44年には思想犯として逮捕され九死に一生を得た。批評活動は昭和10年代なかばから始められ、『万葉集』から正岡子規(しき)、与謝野(よさの)晶子、伊藤左千夫(さちお)、斎藤茂吉(もきち)に及ぶ『万葉の伝統』(1941)を刊行した。
第二次世界大戦後は、荒正人、佐々木基一、埴谷雄高(はにやゆたか)、平野謙(けん)、本多秋五(しゅうご)、山室静(しずか)とともに『近代文学』を創刊した。この『近代文学』の人々が戦後文学を主導した。小田切秀雄は荒正人、佐々木基一とともに『文学時標』を創刊し、文学者の戦争責任を追及した。また、戦後まもなく中野重治(しげはる)、徳永直(すなお)の推薦で日本共産党に入党し、新日本文学会に参加した。このためプロレタリア文学の伝統を受け継ぐ『新日本文学』による中野重治とプロレタリア文学に批判的な『近代文学』による荒正人、平野謙の間でかわされた「政治と文学」論争では、新旧両世代の板挟みにあって苦衷に陥ったりした。『甲乙丙丁』(1969)で日本の革命運動の伝統の革命的批判を完成した中野重治、『渓流』(1964)や『塑像』(1966)で革命党内部の非人間性を追求するかたわら原爆文学の名作『樹影』(1972)を発表した佐多稲子(さたいねこ)らの最大の支持者が小田切秀雄だった。彼自身の著作としては『民主主義文学論』(1948)、『頽廃(たいはい)の根源について』(1953)、『北村透谷(とうこく)論』(1970)、『私の見た昭和の思想と文学の五十年』(1988)などがある。
1970年代に入るとともに、エゴと社会との鋭い接点の追求を通じて、独自なアンガジュマン(社会参加)の文学を目ざしてきた小田切秀雄の目に、古井由吉(よしきち)、後藤明生(めいせい)、黒井千次(せんじ)、阿部昭、小川国夫、柏原兵三(かしわばらひょうぞう)らのデガジュマンの「内向の世代」が台頭してきたようにみえた。小田切秀雄はこの潮流に反対する立場から、内向の世代の文学を論じた。このため逆に内向の世代の命名者として文学史に名前をとどめることになった。
[川西政明]
『『民主主義文学論』(1948・銀杏書房)』▽『『小田切秀雄著作集』全7巻(1970~74・法政大学出版局)』▽『『北村透谷論』増補版(1979・八木書店)』▽『『現代文学史』上下(1983・集英社)』▽『『女性のための文学入門』(1984・オリジン出版センター)』▽『『私の見た昭和の思想と文学の五十年』上下(1988・集英社)』▽『『日本文学の百年』(1998・東京新聞出版局)』▽『『中野重治――文学の根源から』(1999・講談社)』▽『『万葉の伝統』(講談社学術文庫)』▽『小田切秀雄全集編集委員会編『小田切秀雄全集』全18巻・別巻1(2000・勉誠出版)』▽『小田切秀雄先生を囲む会編『小田切秀雄研究』(2001・菁柿堂、星雲社発売)』▽『古屋健三著『「内向の世代」論』(1998・慶応義塾大学出版会)』
昭和・平成期の文芸評論家 日本近代文学研究所代表;法政大学名誉教授。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新