ナポレオン3世(読み)ナポレオンさんせい(英語表記)Napoléon III; Charles Louis Napoléon Bonaparte

改訂新版 世界大百科事典 「ナポレオン3世」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン[3世]
Napoléon Ⅲ
生没年:1808-73

フランスの第二帝政皇帝在位1852-70年。ナポレオン1世の弟オランダ王ルイ・ボナパルトの第3子で,フルネームはシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルトCharles Louis Napoléon Bonaparte。第一帝政没落後亡命した。青年期にカルボナリ党に参加し,サン・シモン主義の影響を受けた。1836年と40年の2度にわたって七月王政に対する陰謀を企てたが失敗した。48年の二月革命後帰国し,立憲議会議員に選出され,同年12月には共和国大統領に選出された。大統領の任期切れを前にしてナポレオンは51年12月クーデタによって議会を解散し,52年12月人民投票によって皇帝となった。第二帝政のはじまりである。帝政初期には独裁体制をしき,共和派正統王党派を弾圧し,言論・出版の自由を禁圧したが,他方では金融改革と大公共事業を中心とする経済政策を推進していった。国民の支持を得るために外交的〈栄光〉を必要としたナポレオンは,積極的な対外進出政策をとった。クリミア戦争パリ講和会議はフランスを地中海域における調停者の地位に押し上げ,59年のイタリア統一戦争でのオーストリアに対する勝利は共和派の支持をも得た。コーチシナ中近東アフリカでも植民地を拡大していったが,67年のメキシコ干渉の失敗は第二帝政に大きな打撃を与えた。70年7月プロイセンに宣戦したが,9月2日スダンで敗北し皇帝自身捕らえられた。この知らせが届くやパリは蜂起し帝政は打倒された。ナポレオン3世はイギリスに亡命し,3年後亡くなった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナポレオン3世」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン3世
ナポレオンさんせい
Napoléon III; Charles Louis Napoléon Bonaparte

[生]1808.4.20. パリ
[没]1873.1.9. ロンドン近郊チズルハースト
フランス第二帝政の皇帝 (在位 1852~70) 。「ナポレオン的理念」の継承者ならびに社会の秩序と安定の擁護者という使命感をいだき,『貧困絶滅』を書き皇帝社会主義を主張したことで知られる。ナポレオン1世の弟オランダ王ルイ・ボナパルトとオルタンス・ド・ボーアルネの第3子。ルイ・ナポレオンと呼ばれた。 1815年のナポレオン1世の没落で,ボナパルト家は国外へ逃れ,彼は母親によってドイツ,スイス,イタリアで養育された。1人残った兄が 31年に死に,翌年にはナポレオン1世のひとり息子が世を去ると,ルイ・ナポレオンがボナパルト家の宗主となり,ナポレオン1世の後継者として,また有能な扇動家として知られるようになった。 1836年 10月七月王政打倒の反乱に失敗,アメリカに追放された。 40年8月再度反乱を企てたが,失敗。終身禁錮を宣告され,投獄された。 46年5月ロンドンに脱出。二月革命の報でパリに帰り,48年 12月の大統領選挙で圧倒的勝利を博した。 51年 12月2日武力で議会を解散し,翌年クーデター記念日に帝位につき第二帝政を開始。彼の支配体制は市民的自由を抑圧したが,産業革命を推進する機能を果し,帝国は経済的繁栄をみた。しかし対外政策はイタリア問題でフランスを国際的孤立化へと走らせ,特にメキシコ遠征の失敗は帝政の威信を内外に失墜させた。 69年議会帝政に入ったが,70年9月普仏戦争に敗れ,みずからも捕虜となり帝政は崩壊した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナポレオン3世」の解説

ナポレオン3世(ナポレオンさんせい)
Napoléon Ⅲ(Charles Louis Napoléon Bonaparte)

1808~73(在位1852~70)

フランスの皇帝。ナポレオン1世の弟オランダ王ルイ・ボナパルトの子。第一帝政崩壊により亡命。1836年と40年に帝政回復をめざして,フランスでの反乱を計画。失敗しイギリスに逃れ,二月革命で帰国後代議士に当選。ついでナポレオン1世の名声に訴え小農民層の支持を得て大統領に当選。ここにいわゆるボナパルティズムが発揮され,51年クーデタにより憲法を改め,翌年人民投票で帝位につき第二帝政を開始。立法・行政の権限を独裁し,新聞や労働者への統制を強め,同時に対外戦争によって自己の威信の保持に努力した。しかし59年のイタリア統一援助はカトリックの反対を招き,60年専制を緩和せざるをえず,以後共和派が増大。メキシコ干渉にも失敗しビスマルクの外交に圧倒され,ついに70年のプロイセン‐フランス戦争に敗北して没落した。

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367日誕生日大事典 「ナポレオン3世」の解説

ナポレオン3世

生年月日:1808年4月20日
フランス第二帝政の皇帝(在位1852〜70)
1873年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のナポレオン3世の言及

【第二帝政】より

…フランスの第二共和政のあと1852年12月ナポレオン3世の即位から70年9月普仏戦争の敗北による崩壊まで続いた政治体制で,ナポレオン1世の第一帝政(1804‐14)に対していう。
[政治]
 第二共和政の大統領であったルイ・ナポレオンは,1851年12月2日クーデタによって議会を解散し,52年12月2日皇帝ナポレオン3世となり,ここに第二帝政が成立する。…

【パリ】より

…しかしこの税金は,19世紀に入って急激に人口が増大していくパリの都市機能をまがりなりにも維持していく主要な財源となっていた。 1801年には54万6000であった人口は,51年には105万3000に膨張したが,これはナポレオン帝政以降の産業発展によって,稼ぎ口を求める人々が再びパリに流入してきたことによる。フランス革命期に後退した奢侈品や家具などの伝統的な工業が活気を取り戻し,1807年には建築業で2万5000,被服産業や食品業で各1万5000,金属産業で1万の労働者が働き,全人口の半数が工業で生活するにいたった。…

【普仏戦争】より

…プロイセン・フランス戦争ともよばれる。プロイセンが普墺戦争(1866)に勝利しながらも,ドイツ統一の完成に至らなかったのは,隣国ドイツに強大な統一国家の成立を恐れたフランス皇帝ナポレオン3世の干渉と妨害があったからである。このためドイツ統一の完成への道は,普仏両国の軍事対決を避けられないものとした。…

※「ナポレオン3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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