ニコライ(読み)にこらい(英語表記)Carsten Nicolai

デジタル大辞泉 「ニコライ」の意味・読み・例文・類語

ニコライ(Nikolay)

[1836~1912]ロシア正教会の宣教師。日本ハリストス正教会の創始者。1861年、函館のロシア領事館付き司祭として来日し、布教。1906年大主教となる。→ニコライ堂
(1世)[1796~1855]ロシア皇帝。在位1825~1855。即位直後デカブリストの乱を鎮圧、反動的専制政治を行い、クリミア戦争を起こした。
(2世)[1868~1918]ロシア最後の皇帝。在位1894~1917。即位後、積極的に極東に進出したが、日露戦争に敗北。第一次大戦中の1917年ロシア革命により退位、のち、シベリアで処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「ニコライ」の意味・読み・例文・類語

ニコライ

  1. [ 一 ] ( Nikolaj I ) 一世。ロシア皇帝(在位一八二五‐五五)。デカブリストの乱鎮圧後、徹底的な反動専制政治を行なう。クリミア戦争を起こして失敗。(一七九六‐一八五五
  2. [ 二 ] ( Nikolaj II ) 二世。帝政ロシア最後の皇帝(在位一八九四‐一九一七)。積極的な極東政策をとったが日露戦争に敗れ、第一次ロシア革命(一九〇五)を誘発した。第一次世界大戦中、二月革命により退位、十月革命後シベリアで処刑された。(一八六八‐一九一八
  3. [ 三 ] ( Carl Otto Ehrenfried Nicolai カール=オットー=エーレンフリート━ ) 一九世紀のドイツの作曲家・指揮者。代表作はオペラ「ウィンザーの陽気な女房たち」。(一八一〇‐四九
  4. [ 四 ] ( Nikolaj ) ロシアの聖職者。ギリシア正教会大主教。日本駐在ロシア領事館付司祭として文久元年(一八六一)来日。明治五年(一八七二)東京に移り、日本ハリストス正教会を樹立。神田駿河台に聖堂(ニコライ堂)を建て、生涯日本での布教につとめた。(一八三六‐一九一二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニコライ」の意味・わかりやすい解説

ニコライ(Carsten Nicolai)
にこらい
Carsten Nicolai
(1965― )

ドイツのメディア・アーティスト。旧東ドイツ、カール・マルクス・シュタット(現ケムニッツ)に生まれる。庭師として働いた後、1985~1990年ドレスデンでランドスケープ・デザインを学ぶ。アートにも強い関心をもち、1991年にはベルリンで初個展を開催した。本格的な作家活動のスタートは1992年、アーティスト活動のためのグループ「文化とコミュニケーション」を友人と設立したときであり、次いで1994年に制作グループ「音と無音のためのアーカイブ」を設立、サウンド・アートメディア・アートなど複数の領域にまたがる活動の基盤を築いた。

 作品の傾向としては、有機的な形態をモチーフとした絵画やオブジェのような比較的オーソドックスなものから、コンピュータを活用することによって特殊な情報環境を演出するインスタレーションまで、きわめて多岐にわたる。また自らのレーベル「ラスター・ノトン」を主宰し、日本のサウンド・アーティスト池田亮司(1966― )との共作を含め、すでに10枚以上のCDをリリースしているサウンド・パフォーマーでもある。ドクメンタⅩ(1997、ドイツ、カッセル)、リバプール・ビエンナーレ(1999)、ベネチア・ビエンナーレ(2001)、イスタンブール・ビエンナーレ(2001)など多くの国際展にも参加した実績をもっているほか、1998年にはライプツィヒ現代美術館で個展が開催された。メディア・アートの国際展アルス・エレクトロニカ(オーストリア、リンツ)では、2000年にはデジタル・ミュージック部門、2001年にはインタラクティブ・アート部門で連続してグランプリを受賞するなど、若くして国際的なメディア・アーティストの評価を確固たるものとしているが、活動の拠点は今なおケムニッツに置いている。

 多くの展覧会が開催されている日本でもなじみが深く、「第10回アートラボ企画展」(2000、代官山ヒルサイドプラザ、東京)では、スロベニア生まれのメディア・アーティスト、マルコ・ペリハンMarco Peljhan(1969― )と共作した作品『polar』を、ワタリウム美術館での個展(2002、東京)では試験管やターンテーブルを活用したサウンド・アート作品を出品するなど、情報環境や音環境を一種のランドスケープとして探求する先鋭的な作品を発表している。2002年には、ドイツ現代美術の最新動向を紹介した「QUOBO ベルリンのアート――壁崩壊から10年」展に、2007年には「SPACE FOR YOUR FUTURE」展(ともに東京都現代美術館)にも参加した。

[暮沢剛巳]

『Autopilot (2002, Consortium Book Sales & Dist, New York)』


ニコライ(宣教師)
にこらい
Николаи/Nikolai
(1836―1912)

ロシア正教会の宣教師。日本ハリストス正教会の創始者。尼格頼、尼活頼とも書く。本名イオアン・ディミトリビッチ・カサーツキンIoan Dimitriwich Kasatkin。ロシアのスモレンスク県生まれ(父は輔祭)。ペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニンの『日本幽囚記』を読み日本への興味をもつ。修道士となりニコライと改名。1861年(文久1)箱館(はこだて)(函館)のロシア領事館付司祭として来日。禁制下の日本人(沢辺琢磨(さわべたくま)など)に宣教した。日本語、日本文化を学び、いったん帰国。伝道会社を設立して1871年(明治4)ふたたび来日。翌1872年東京に出て神学校設立、『正教新報』を創刊(1880)した。また東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建立(1891)などによって伝道活動を行い、日本人による正教会の確立を目ざした。また1901年(明治34)には邦訳の『新約聖書』を出版した。「其(その)露国人であると云(い)ふ点に於(おい)て国民の疑(うたがい)と反感を招いたが、日本人に対しては全く同胞の如(ごと)く対等国民の如くに考へ」(大隈重信(おおくましげのぶ)談―『正教時報』1913年(大正2)4月号)、日露戦争(1903~1904)の際にも日本にとどまった。1906年に大主教。1912年2月16日東京駿河台(するがだい)の本会内の住まいで心臓病で死去。1970年(昭和45)列聖される。

[山川令子 2018年2月16日]

『ニコライ著、中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫)』『鈴木透他編『大主教ニコライ師説教演説集』(1911・教要社)』『日本ハリストス正教会総務局編・刊『大主教ニコライ師事蹟 他二篇』(1936)』



ニコライ(2世)
にこらい
Николай Ⅱ/Nikolay Ⅱ
(1868―1918)

ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝(在位1894~1917)。アレクサンドル3世の長子として生まれる。保守主義者ポベドノースツェフに教育されて、その影響を受けた。1891年(明治24)皇太子として日本訪問中、警護の巡査に額を斬(き)られて負傷した(大津事件)。94年イギリスのビクトリア女王の孫でヘッセン・ダルムシュタットの公女(結婚後アレクサンドラ・フョードロブナと改名)と結婚。夫婦間は愛情に満ち、よき夫であったが、のちに皇后がラスプーチンを登用するや、彼に政治に口出しするのを許すことになった。父帝の外交政策を継承し、フランスとの同盟を強化し、シベリア鉄道を完成させ、極東への進出を図ったが、日露戦争を引き起こして敗北した。1905年の革命によって「十月宣言」を発布するはめとなったが、革命が終息するやストルイピンを引き立てて革命運動を弾圧した。外交政策においてドイツと対立しイギリスに近づいたことから、第一次世界大戦に巻き込まれ、戦争中の17年3月退位を余儀なくされた。ボリシェビキが政権をとったあと、18年4月にエカチェリンブルグ(ソ連時代はスベルドロフスク)に家族(皇后と4人の子供たち)とともに幽閉され、地方のボリシェビキによって射殺された。2000年8月ロシア正教会は、ニコライ2世とその家族を「受難者」として列聖した。

[外川継男]

『保田孝一著『ニコライ2世と改革の挫折』(1985・木鐸社)』


ニコライ(Carl Otto Ehrenfried Nicolai)
にこらい
Carl Otto Ehrenfried Nicolai
(1810―1849)

ドイツの作曲家、指揮者。喜歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』の作曲者として有名。ケーニヒスベルクの作曲家の息子として生まれたが、家出し、ベルリンでツェルターに師事した。1833年ローマのプロイセン大使館礼拝堂オルガン奏者に就任、初めパレストリーナを研究するが、ベッリーニとの出会いからオペラの世界に入る。一時ウィーンで活躍するが、ふたたびローマに帰り、オペラ作曲家として名声を博したのち、41年ウィーン宮廷歌劇場楽長となり、42年、後のフィルハーモニー演奏会の基礎を確立、交響曲第九番をはじめとするベートーベン作品の演奏に努めた。48年ベルリン大聖堂指揮者兼王立歌劇場楽長に就任、翌49年、代表作『ウィンザーの陽気な女房たち』の初演に成功したが、2か月後、卒中で帰らぬ人となった。

[樋口隆一]


ニコライ(1世)
にこらい
Николай Ⅰ/Nikolay Ⅰ
(1796―1855)

ロシアの皇帝(在位1825~55)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。30~31年のポーランドの反乱、48~49年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。

[外川継男]


ニコライ(Alwin Nicolais)
にこらい
Alwin Nicolais
(1912―1993)

アメリカの舞踊家、振付師。コネティカット州サウシントンに生まれる。無声映画のピアニストなどをしたのち、M・ウィグマンの公演を見て舞踊家に転向。1937年に自身の舞踊団を創設、48年ニューヨークのヘンリー・ストリート・プレイハウスを根城にアメリカ現代舞踊の一角を築いた。代表作に『万華鏡』(1956)、『トーテム』(1960)など。作風はM・グレアムなどの表現的な傾向とは違う抽象的なもので、肉体をデフォルメした形態の変化と光を強調したものである。映像作家E・エムシュウィラーの映画『テント』(1968)などには、被写体としてニコライの作品が使われている。

[市川 雅]


ニコライ(Friedrich Nicolai)
にこらい
Friedrich Nicolai
(1733―1811)

ベルリンの出版業者、著述家。レッシング、モーゼス・メンデルスゾーンらの執筆協力者を得て発刊した『最新文学に関する書簡』(1759~1765)および『ドイツ百科叢書(そうしょ)』(1765~1805)は、文学、思想界における啓蒙(けいもう)主義の牙城(がじょう)となる。また小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』(1773~1776)でルター正統派の偽善やピエティスムスの感傷癖を風刺した。

[小泉 進]

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改訂新版 世界大百科事典 「ニコライ」の意味・わかりやすい解説

ニコライ
Nikolai
生没年:1836-1912

日本に布教したロシア正教会の宣教司祭。のち大主教(1906より)。俗名カサトキンIoan D.Kasatkin。スモレンスク出身,ペテルブルグ神学大学卒業。早くから日本伝道を志し,1861年(文久1),箱館のロシア領事館付司祭として赴任。日本語および日本事情を学びながら,キリシタン禁制下にひそかに日本人への伝道を始めた。密航前の新島襄はニコライの門をたたいたし,のち邦人初の正教司祭となった沢辺琢磨も函館で入信した。いったん帰国し,日本伝道会社を設立し,72年に東京進出。神田駿河台に本部を置き,伝道学校,のち正教神学校,女子神学校を設立し,日本ハリストス正教会は明治のキリスト教各派のなかでも有力な地歩を築いた。それを象徴するのが91年に完成した復活大聖堂(ニコライ堂)である。出版活動にも力をいれ,1901年には新約聖書の邦訳を出版した。日露戦争中は苦しい立場に置かれたが,東京にとどまって信者を激励した。ニコライの目的は日本人の正教会を育成することであったが,それを果たす前に没した。
執筆者:


ニコライ
Otto Nicolai
生没年:1810-49

ドイツの作曲家,指揮者。ベルリン,ローマ,ウィーンで修業時代を過ごし,1838年からローマでオペラ作曲家として活動。41年ウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者。42年に〈フィルハーモニー演奏会〉を始め,歌劇場の楽団を指揮して,ベートーベンの交響曲などを演奏した。この演奏会は,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に発展した。48年ベルリンの王立歌劇場楽長。代表作はオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》(初演1849)で,シェークスピアの台本に基づく3幕からなるこのオペラは,19世紀前半の最も人気のあった作品の一つに数えられている。オペラのほかに交響曲や室内楽をはじめ宗教音楽などの作品も残した。
執筆者:


ニコライ
Alwin Nikolais
生没年:1912-93

アメリカの舞踊家,振付師,演出家。コネティカットで生まれる。照明などの舞台機構とモダン・ダンスを結びつけ,新しい感覚の作品を発表したことで知られる。1937年にベニントン舞踊学校の授業に顔を出したのがきっかけで舞踊を始める。その後,ハンヤ・ホルム,M.グラーム,ドリス・ハンフリーらに習う。48年に自分の舞踊団を作り,以後《カレイドスコープ》(1956),《イリュージョン》(1961)など多くの作品を発表している。
執筆者:


ニコライ
Friedrich Nicolai
生没年:1733-1811

ドイツの出版業者,著述家。ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを攻撃したため,頑迷な啓蒙主義者と見られがちであるが,啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者,ベストセラー作家,批評家としてその多面的な活動は,ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM.メンデルスゾーンの助けをえて,ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し,文化の媒介者の役割を果たした。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ニコライ」の意味・わかりやすい解説

ニコライ[2世]【ニコライ】

帝政ロシア最後の皇帝(在位1894年―1917年)。アレクサンドル3世の子。1891年皇太子時代に来日して大津事件に遭遇した。治世当初から社会情勢は不穏だったが専制政治を強行。皇后とラスプーチンの影響が強かった。極東進出を強行したが日露戦争に敗れ,ロシア革命(第1次),血の日曜日事件を招いた。第1次大戦末期ロシア革命(第2次)のため1917年退位,エカチェリンブルグ幽囚中に家族とともに処刑。
→関連項目十月詔書ハーグ平和会議

ニコライ

ドイツの作曲家,指揮者。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に生まれ,ベルリン,ローマで修業時代を過ごしたのち1837年−1838年ウィーンのケルントナートル劇場楽長。1838年ローマでオペラ作曲家としてデビューし,1841年ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)の首席指揮者に就任。翌1841年から〈フィルハーモニー演奏会〉の名で同歌劇場楽団員によるコンサートを開催,この演奏会はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に発展した。1948年ベルリンの王立歌劇場楽長。死の2ヵ月前に初演されたオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》(シェークスピア原作)は有名。ほかに宗教音楽,交響曲,器楽曲などがある。

ニコライ[1世]【ニコライ】

ロシア皇帝(在位1825年―1855年)。パーベル1世の子。デカブリスト反乱を鎮圧,秘密警察(皇帝直属の〈第三部〉)を設けて典型的な専制政治を行った。バルカン制覇をめざし露土戦争,クリミア戦争を起こして失敗。
→関連項目アレクサンドル[2世]

ニコライ

ロシア正教会大主教(1906年以降)。俗名I.D.カサトキン。1861年来日(函館),1871年再来日後,東京でロシア語学校設立,露和辞典の編纂(へんさん)などに従事した。伝道のかたわら,新約聖書翻訳,機関紙《正教新報》の発刊を行うとともにニコライ堂を建立,日本ハリストス正教会の発展に尽力した。
→関連項目ロシア正教会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニコライ」の意味・わかりやすい解説

ニコライ
Nikolais, Alwin

[生]1910/1912.11.25. コネティカット
[没]1993.5.8. ニューヨーク
アメリカの舞踊家,振付師。最初無声映画のピアニスト,人形遣いとして劇場芸術に従事。 H.ホルム,M.グラハム,D.ハンフリー,C.ワイドマンに師事したのち,1937年自身の舞踊団と学校 (現ハートフォード大学の一部) を創設。第2次世界大戦の兵役を経て,1948年ヘンリー・ストリート・プレイハウスのディレクターになってから活発な活動を開始。『万華鏡』 (1956) ,『アレゴリー』 (1959) ,『トーテム』 (1960) ,『イマーゴ』 (1963) ,『テント』 (1968) などを発表しアメリカ現代舞踊の第一線に立った。ダンサーの肉体をいったん非人間化し,視覚光学的なパターンの一部として使用するのが作品の特徴。 1978~81年フランスのアンジェに設立された国立現代舞踊センターのディレクターを務めるかたわら,パリ・オペラ座で『もくろみ』 (1980) を上演。エミー賞 (1968) をはじめ多くの賞を受賞している。

ニコライ
Nikolai

[生]1836.8.13. スモレンスク
[没]1912.2.16. 東京
ロシア正教会修道司祭,宣教師,大主教,日本ハリストス正教会創立者。本名イオアン・ディミトロビチ・カサートキン。ニコライは修道名。文久1 (1861) 年箱館に上陸,準備期間ののち東京駿河台に伝教学校,男女神学校,ロシア語学校などを設け,布教に尽力,同地に復活大聖堂 (ニコライ堂 ) を建立した (84~91) 。日露戦争中の迫害にもたえてよく信徒を指導,教勢の発展に努めた。 1880年主教,1906年大主教に叙せられた。

ニコライ
Nicolai, Otto Carl Ehrenfried

[生]1810.6.9. ケーニヒスベルク
[没]1849.5.11. ベルリン
ドイツの作曲家。ベルリンで B.クライン,L.ベルガー,C.ツェルターに学ぶ。 1837~38年ウィーンのケルントナトーア劇場楽長,41年ウィーン宮廷楽長をつとめ,当地でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身フィルハーモニッシェ・コンツェルテを創設,ベートーベンの『第9交響曲』を指揮した。 47年ベルリン王立オペラ劇場楽長となる。作品はオペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』 (1849) をはじめ多数。

ニコライ
Nicolai, Christoph Friedrich

[生]1733.3.18. ベルリン
[没]1811.1.8. ベルリン
ドイツ啓蒙期の通俗哲学者。特にベルリンの啓蒙運動の中心人物。レッシング,M.メンデルスゾーンと交友があり,彼らとの書簡集も刊行された。ヘルダー,ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを哲学的には低い次元で攻撃した。

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朝日日本歴史人物事典 「ニコライ」の解説

ニコライ

没年:明治45.2.16(1912)
生年:1836.8.1(1836.8.13)
ロシア正教会最初の来日宣教師。本名ヨアン・デミトロヴィチ・カサートキン。ロシアのスモレンスクに生まれる。幕末の文久1(1861)年箱館に来日,明治5(1872)年東京へ移る。日本ハリストス正教会の創始者で,同13年には教会88,信徒5000人を数え,芸術界にも優秀な人材を輩出した。同24年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。同年大津事件で負傷した来日中のロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)を見舞い,皇帝に対日宣戦回避の進言を要請する。日露戦争時下も帰国せず信徒に日本国民としての地上の祖国への忠義の堅持を諭し,戦後は全国に分散収容された7万人以上のロシア兵捕虜の慰問のために司祭を送った。聖書の日本語版の出版なども含め,外交,文化面で果たした日露友好への貢献は大きく,両政府から信頼も厚く,同39年に大主教に昇授,永眠時,明治天皇は恩賜の花輪を贈呈した。東京・谷中墓地に埋葬される。<著作>中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』<参考文献>『明治の日本ハリストス正教会』,牛丸康夫『明治文化とニコライ』

(大江満)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀西洋人名事典 「ニコライ」の解説

ニコライ
Nikolai


1836.8.22 - 1912.2.16
ソ連の宣教師。
元・ロシア正教会大主教。
スモレンスク県ベリョーザ生まれ。
本名Ioan〉 イオアン〈Kasatkin カサーツキン。
日本名尼格頼,尼适頼。
日本ハリストス正教会の創始者で在学中に日本への興味を持ち1861年函館のロシア領事館付司祭として来日、禁制下宣教活動を始める。一時帰国、日本伝道会社設立後1871年再び来日、東京で神学校設立。「正教新報」創刊。ニコライ堂建立等伝道活動を行い日本人による正教会の確立を目指す。1901年邦訳「新約聖書」を出版。日露戦争中も日本に留まり活動、’06年大主教となる。’12年東京駿河台で没。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ニコライ」の解説

ニコライ Nikolay

1836-1912 ロシアの宣教師。
1836年8月14日生まれ。日本ハリストス正教会の創始者。文久元年(1861)箱館ロシア領事館付司祭として来日,禁教下で布教。明治24年東京駿河台(するがだい)に東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立し,また「新約聖書」の翻訳・出版など伝道につとめる。明治45年2月16日死去。75歳。昭和45年聖人の位をおくられた。ペテルブルグ神学大卒。本名はイオアン=カサトキン(Ioan Kasatkin)。
【格言など】日露両国いずれの勝敗も祈らず(「正教新報」明治28年4月15日号,10年後の日露開戦を予測して)

ニコライ(2世) Nikolay II Aleksandrovich

1868-1918 ロシアの皇帝。
1868年5月18日生まれ。明治24年皇太子として来日し,旅行途中の大津で警護の巡査におそわれ負傷(大津事件)。1894年皇帝に即位。極東への進出をはかり,1904年日露戦争をひきおこす。1917年二月革命により退位し,帝政ロシア最後の皇帝となった。1918年7月16日処刑された。50歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ニコライ」の解説

ニコライ
Nikolai

1836.8.2~1912.2.4

ロシア正教会最初の来日宣教師。俗名はカサトキンIoan Dimitrovich Kasatkin。1861年(文久元)箱館領事館つき司祭として来日。7年間日本の国語・歴史・文学・宗教などを研究し,宣教に着手。日本正教ミッションを開設し,72年(明治5)禁制の高札撤去を前に東京神田駿河台に本拠を移し,伝教学校・正教神学校を開き,日本ハリストス教会の基礎を築いた。91年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。1906年大主教に昇る。聖書・聖典の日本語版出版に努め,「正教新報」などの定期刊行物を出版。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ニコライ」の解説

ニコライ(1世)
Nikolai Ⅰ

1796〜1855
ロシアのロマノフ朝第15代皇帝(在位1825〜55)
即位の際に起こったデカブリストの乱を鎮定後,「ロシア正教・専制政治・国粋主義」の3原則による反動政治をおしすすめた。ギリシアの独立戦争に干渉し,ポーランドおよびハンガリーの独立運動を弾圧,クリミア戦争敗北の知らせをうけて没した。

ニコライ(2世)
Nikolai Ⅱ

1868〜1918
ロシアのロマノフ朝第18代,ロシア帝国最後の皇帝(在位1894〜1917)
アレクサンドル3世の長子。日露戦争に敗れ,第1次ロシア革命後,ドゥーマ(国会)の開設を約したが,再び反動化し,ストルイピン時代を生んだ。1917年の三月革命で退位し,翌年エカチェリンブルクで殺害された。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ニコライ」の解説

ニコライ

生年月日:1836年8月22日
ロシア正教会大主教,日本ハリストス正教会創立者
1912年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のニコライの言及

【雑誌】より

…フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722‐23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733‐40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759‐65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。ゲーテが編集に参画していた《フランクフルター・ゲレールテン・アンツァイゲンFrankfurter Gelehrten Anzeigen》(1772‐90)や,〈ドイツの定期刊行物の父祖〉といわれた《アルゲマイネ・リテラトゥーア・ツァイトゥングAllgemeine Literatur‐Zeitung(総合文芸新聞)》(1785)など,ドイツの雑誌はヨーロッパのどの国よりも文芸的な内容を特色としていた。…

【ロシア】より

…大正時代以後はロシアの音楽,演劇,バレエなどに対する関心が強まった。またニコライNikolai(1836‐1912。俗名はカサトキンIoan Dmitrievich Kasatkin)によってもたらされたロシア正教は,明治末年までに信徒3万人を擁する日本ハリストス正教会へと発展した。…

【日本ハリストス正教会】より

…明治正教会ともいう。宣教師ニコライが1861年(文久1)6月箱館に渡来し,キリシタン禁制のため公然たる布教活動はできなかったが,68年(明治1)には,市内の神官沢辺琢磨他2人の正教徒を得た。翌69年,キリスト教解禁の間近いことを知ったニコライは一時帰国,ロシア宗務院の許可を得て日本における伝道会を設立,その長となって71年に帰任し,本格的な活動を開始した。…

※「ニコライ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

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