ニコライ
[二] (Nikolaj II) 二世。帝政ロシア最後の皇帝(在位
一八九四‐一九一七)。積極的な極東政策をとったが
日露戦争に敗れ、第一次
ロシア革命(
一九〇五)を誘発した。第一次世界大戦中、二月革命により
退位、十月革命後
シベリアで処刑された。(
一八六八‐一九一八)
[三] (Carl Otto Ehrenfried Nicolai カール=
オットー=エーレンフリート━) 一九世紀の
ドイツの作曲家・指揮者。代表作は
オペラ「
ウィンザーの陽気な女房たち」。(
一八一〇‐四九)
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デジタル大辞泉
「ニコライ」の意味・読み・例文・類語
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ニコライ
Nikolais, Alwin
[生]1910/1912.11.25. コネティカット
[没]1993.5.8. ニューヨーク
アメリカの舞踊家,振付師。最初無声映画のピアニスト,人形遣いとして劇場芸術に従事。 H.ホルム,M.グラハム,D.ハンフリー,C.ワイドマンに師事したのち,1937年自身の舞踊団と学校 (現ハートフォード大学の一部) を創設。第2次世界大戦の兵役を経て,1948年ヘンリー・ストリート・プレイハウスのディレクターになってから活発な活動を開始。『万華鏡』 (1956) ,『アレゴリー』 (1959) ,『トーテム』 (1960) ,『イマーゴ』 (1963) ,『テント』 (1968) などを発表しアメリカ現代舞踊の第一線に立った。ダンサーの肉体をいったん非人間化し,視覚光学的なパターンの一部として使用するのが作品の特徴。 1978~81年フランスのアンジェに設立された国立現代舞踊センターのディレクターを務めるかたわら,パリ・オペラ座で『もくろみ』 (1980) を上演。エミー賞 (1968) をはじめ多くの賞を受賞している。
ニコライ
Nikolai
[生]1836.8.13. スモレンスク
[没]1912.2.16. 東京
ロシア正教会修道司祭,宣教師,大主教,日本ハリストス正教会創立者。本名イオアン・ディミトロビチ・カサートキン。ニコライは修道名。文久1 (1861) 年箱館に上陸,準備期間ののち東京駿河台に伝教学校,男女神学校,ロシア語学校などを設け,布教に尽力,同地に復活大聖堂 (ニコライ堂 ) を建立した (84~91) 。日露戦争中の迫害にもたえてよく信徒を指導,教勢の発展に努めた。 1880年主教,1906年大主教に叙せられた。
ニコライ
Nicolai, Otto Carl Ehrenfried
[生]1810.6.9. ケーニヒスベルク
[没]1849.5.11. ベルリン
ドイツの作曲家。ベルリンで B.クライン,L.ベルガー,C.ツェルターに学ぶ。 1837~38年ウィーンのケルントナトーア劇場楽長,41年ウィーン宮廷楽長をつとめ,当地でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身フィルハーモニッシェ・コンツェルテを創設,ベートーベンの『第9交響曲』を指揮した。 47年ベルリン王立オペラ劇場楽長となる。作品はオペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』 (1849) をはじめ多数。
ニコライ
Nicolai, Christoph Friedrich
[生]1733.3.18. ベルリン
[没]1811.1.8. ベルリン
ドイツ啓蒙期の通俗哲学者。特にベルリンの啓蒙運動の中心人物。レッシング,M.メンデルスゾーンと交友があり,彼らとの書簡集も刊行された。ヘルダー,ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを哲学的には低い次元で攻撃した。
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ニコライ
没年:明治45.2.16(1912)
生年:1836.8.1(1836.8.13)
ロシア正教会最初の来日宣教師。本名ヨアン・デミトロヴィチ・カサートキン。ロシアのスモレンスクに生まれる。幕末の文久1(1861)年箱館に来日,明治5(1872)年東京へ移る。日本ハリストス正教会の創始者で,同13年には教会88,信徒5000人を数え,芸術界にも優秀な人材を輩出した。同24年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。同年大津事件で負傷した来日中のロシア皇太子(のちの皇帝ニコライ2世)を見舞い,皇帝に対日宣戦回避の進言を要請する。日露戦争時下も帰国せず信徒に日本国民としての地上の祖国への忠義の堅持を諭し,戦後は全国に分散収容された7万人以上のロシア兵捕虜の慰問のために司祭を送った。聖書の日本語版の出版なども含め,外交,文化面で果たした日露友好への貢献は大きく,両政府から信頼も厚く,同39年に大主教に昇授,永眠時,明治天皇は恩賜の花輪を贈呈した。東京・谷中墓地に埋葬される。<著作>中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』<参考文献>『明治の日本ハリストス正教会』,牛丸康夫『明治文化とニコライ』
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ニコライ
ドイツの作曲家,指揮者。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に生まれ,ベルリン,ローマで修業時代を過ごしたのち1837年−1838年ウィーンのケルントナートル劇場楽長。1838年ローマでオペラ作曲家としてデビューし,1841年ウィーン宮廷歌劇場(ウィーン国立歌劇場)の首席指揮者に就任。翌1841年から〈フィルハーモニー演奏会〉の名で同歌劇場楽団員によるコンサートを開催,この演奏会はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に発展した。1948年ベルリンの王立歌劇場楽長。死の2ヵ月前に初演されたオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》(シェークスピア原作)は有名。ほかに宗教音楽,交響曲,器楽曲などがある。
ニコライ
ロシア正教会大主教(1906年以降)。俗名I.D.カサトキン。1861年来日(函館),1871年再来日後,東京でロシア語学校設立,露和辞典の編纂(へんさん)などに従事した。伝道のかたわら,新約聖書翻訳,機関紙《正教新報》の発刊を行うとともにニコライ堂を建立,日本ハリストス正教会の発展に尽力した。
→関連項目ロシア正教会
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ニコライ
Nikolai
1836.8.22 - 1912.2.16
ソ連の宣教師。
元・ロシア正教会大主教。
スモレンスク県ベリョーザ生まれ。
本名Ioan〉 イオアン〈Kasatkin カサーツキン。
日本名尼格頼,尼适頼。
日本ハリストス正教会の創始者で在学中に日本への興味を持ち1861年函館のロシア領事館付司祭として来日、禁制下宣教活動を始める。一時帰国、日本伝道会社設立後1871年再び来日、東京で神学校設立。「正教新報」創刊。ニコライ堂建立等伝道活動を行い日本人による正教会の確立を目指す。1901年邦訳「新約聖書」を出版。日露戦争中も日本に留まり活動、’06年大主教となる。’12年東京駿河台で没。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
ニコライ【Otto Nicolai】
1810‐49
ドイツの作曲家,指揮者。ベルリン,ローマ,ウィーンで修業時代を過ごし,1838年からローマでオペラ作曲家として活動。41年ウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者。42年に〈フィルハーモニー演奏会〉を始め,歌劇場の楽団を指揮して,ベートーベンの交響曲などを演奏した。この演奏会は,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に発展した。48年ベルリンの王立歌劇場楽長。代表作はオペラ《ウィンザーの陽気な女房たち》(初演1849)で,シェークスピアの台本に基づく3幕からなるこのオペラは,19世紀前半の最も人気のあった作品の一つに数えられる。
ニコライ【Friedrich Nicolai】
1733‐1811
ドイツの出版業者,著述家。ゲーテ,シラー,カント,フィヒテらを攻撃したため,頑迷な啓蒙主義者と見られがちであるが,啓蒙主義の指導的な雑誌の刊行者,ベストセラー作家,批評家としてその多面的な活動は,ドイツ18世紀文化史に大きな足跡を残した。レッシングやM.メンデルスゾーンの助けをえて,ベルリンの啓蒙主義運動の組織者として活躍し,文化の媒介者の役割を果たした。【岩村 行雄】
ニコライ【Nikolai】
1836‐1912
日本に布教したロシア正教会の宣教司祭。のち大主教(1906より)。俗名カサトキンIoan D.Kasatkin。スモレンスク出身,ペテルブルグ神学大学卒業。早くから日本伝道を志し,1861年(文久1),箱館のロシア領事館付司祭として赴任。日本語および日本事情を学びながら,キリシタン禁制下にひそかに日本人への伝道を始めた。密航前の新島襄はニコライの門をたたいたし,のち邦人初の正教司祭となった沢辺琢磨も函館で入信した。
ニコライ【Alwin Nikolais】
1912‐93
アメリカの舞踊家,振付師,演出家。コネティカットで生まれる。照明などの舞台機構とモダン・ダンスを結びつけ,新しい感覚の作品を発表したことで知られる。1937年にベニントン舞踊学校の授業に顔を出したのがきっかけで舞踊を始める。その後,ハンヤ・ホルム,M.グラーム,ドリス・ハンフリーらに習う。48年に自分の舞踊団を作り,以後《カレイドスコープ》(1956),《イリュージョン》(1961)など多くの作品を発表している。
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ニコライ Nikolay
1836-1912 ロシアの宣教師。
1836年8月14日生まれ。日本ハリストス正教会の創始者。文久元年(1861)箱館ロシア領事館付司祭として来日,禁教下で布教。明治24年東京駿河台(するがだい)に東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立し,また「新約聖書」の翻訳・出版など伝道につとめる。明治45年2月16日死去。75歳。昭和45年聖人の位をおくられた。ペテルブルグ神学大卒。本名はイオアン=カサトキン(Ioan Kasatkin)。
【格言など】日露両国いずれの勝敗も祈らず(「正教新報」明治28年4月15日号,10年後の日露開戦を予測して)
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ニコライ
Nikolai
1836.8.2~1912.2.4
ロシア正教会最初の来日宣教師。俗名はカサトキンIoan Dimitrovich Kasatkin。1861年(文久元)箱館領事館つき司祭として来日。7年間日本の国語・歴史・文学・宗教などを研究し,宣教に着手。日本正教ミッションを開設し,72年(明治5)禁制の高札撤去を前に東京神田駿河台に本拠を移し,伝教学校・正教神学校を開き,日本ハリストス教会の基礎を築いた。91年東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立。1906年大主教に昇る。聖書・聖典の日本語版出版に努め,「正教新報」などの定期刊行物を出版。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
ニコライ
生年月日:1836年8月22日
ロシア正教会大主教,日本ハリストス正教会創立者
1912年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典内のニコライの言及
【ロシア】より
…大正時代以後はロシアの音楽,演劇,バレエなどに対する関心が強まった。またニコライNikolai(1836‐1912。俗名はカサトキンIoan Dmitrievich Kasatkin)によってもたらされたロシア正教は,明治末年までに信徒3万人を擁する日本ハリストス正教会へと発展した。…
【日本ハリストス正教会】より
…明治正教会ともいう。宣教師ニコライが1861年(文久1)6月箱館に渡来し,キリシタン禁制のため公然たる布教活動はできなかったが,68年(明治1)には,市内の神官沢辺琢磨他2人の正教徒を得た。翌69年,キリスト教解禁の間近いことを知ったニコライは一時帰国,ロシア宗務院の許可を得て日本における伝道会を設立,その長となって71年に帰任し,本格的な活動を開始した。…
【雑誌】より
…フランスではP.マリボーの《スペクタトゥール・フランセSpectateur Français》(1722‐23),A.F.プレボーの《プール・エ・コントルLe Pour et Contre》(1733‐40)などが相次ぎ,ルイ王朝の弾圧に遭ってオランダへ亡命した人たちが刊行した雑誌だけでもフランス革命にいたるまで30をかぞえる盛況を示した。ドイツではF.ニコライの創刊した《ブリーフェBriefe,die neueste Litteratur betreffend》(1759‐65)誌に,レッシングやM.メンデルスゾーンが編集委員として参加し文芸雑誌の伝統をつくった。ゲーテが編集に参画していた《フランクフルター・ゲレールテン・アンツァイゲンFrankfurter Gelehrten Anzeigen》(1772‐90)や,〈ドイツの定期刊行物の父祖〉といわれた《アルゲマイネ・リテラトゥーア・ツァイトゥングAllgemeine Literatur‐Zeitung(総合文芸新聞)》(1785)など,ドイツの雑誌はヨーロッパのどの国よりも文芸的な内容を特色としていた。…
※「ニコライ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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