ドイツの詩人。1797年12月13日、ユダヤ人織物商の長男としてデュッセルドルフに生まれる。本名はハリーHarry、ユダヤ教からプロテスタントに改宗後はハインリヒと改名。当時この町はフランス軍の占領下にあり、封建的小国分立のドイツにあって、ここにはまだ自由主義とナポレオン崇拝が息づいていた。だが、ナポレオン失脚に伴いプロイセン領となり、以前にも増す圧政にあえぐことになる。ハイネの生涯を貫く自由と解放への指向性と、覚めた現実観はこの時代に培われた。
[小松 博]
1815年、商人を志して修業するが適性に欠け、断念する。19年、富豪の叔父の援助でボン大学へ進学し法律を学ぶ。ボン、ゲッティンゲン、ベルリンの各大学に在籍し、文学、哲学にも関心を向け、A・W・シュレーゲル、ヘーゲルらの講義を聞く。ベルリン時代(1821~23)、著名な文学者のサロンに出入りし、ホフマン、グラッベなど新進の作家たちとも交流し、文学的発展が始まる。叔父の娘姉妹への青春の愛と失意の涙が、『詩集』(1821)、『悲劇付叙情挿曲』(1823)の珠玉の詩編に結晶する。24年秋、ワイマールにゲーテを訪ねたが冷遇されて反発したこともある。25年、ゲッティンゲン大学で法律の学位を取得。卒業直前、「ヨーロッパ文化への入場券」を得るためキリスト教(新教)に改宗する。しかしこの切符はハイネには無益だった。弁護士開業という生活設計の夢は破れたが、『旅の絵』第一巻、第二巻(1826、27)、詩集『歌の本』(1827)を発表、名声を高める。
ハイネの叙情詩の特徴は、俗謡と芸術性の比類のない調和にある。素朴な民謡風のリズムに、音感に富む平易なことばが融合し、形象を明確に造形する。そこに生ずる豊かな音楽性は、多くの作曲家の心をとらえ、ドイツ歌曲の傑作の多くがハイネの詩によっている。しかし彼は叙情詩人の域にとどまらなかった。『歌の本』には社会の矛盾をえぐる詩編がすでにみられ、『旅の絵』第二巻は、その教会、貴族批判のために発禁となった。1820年代後半は詩人ハイネ流離の時代であった。27年、イギリスに渡ったが、なじめずに帰国する。28年、ミュンヘンからイタリアへ旅する。29年、詩人プラーテン伯と論争し、『旅の絵』第三巻で同伯の私生活を暴露して世の非難を浴びる。30年春喀血(かっけつ)する。失意の身をヘルゴラント島で静養する。そこでパリの7月革命の報を聞き、それが彼に新たな力を与えた。翌年、政府批判の結果、逮捕の危険を感じ、祖国を離れ、パリに移住する。
[小松 博]
パリでは、先に亡命していて祖国解放の健筆を振るっていたルートウィヒ・ベルネや、フランス・ロマン派の詩人たちと親交を結ぶ。サン・シモン主義に共鳴、自由奔放な生活を始める。ペンの仕事も精力的で、『フランスの状態』(1833)、『ロマン派』(1834)、『ドイツの宗教と哲学の歴史』(1834)、『ルテーツィア』(1854)など、ドイツ・フランス文化の橋渡しを担う秀逸な論文や評論を発表する。体制維持の反動政策に引きずり込まれる祖国を思い、仮借なく振るう彼の反逆の筆は、ドイツ当局の激怒を買い、1835年、ハイネは「青年ドイツ派」の代表作家として、その全著作が発禁処分となった。経済的痛手もあって、彼はフランス政府から年金を受給、この事実がのちに発覚し、体制迎合のとがめを受ける。
同じころ、彼が「マチルデ」とよんだ若いフランス娘への愛におぼれる。1841年、昔の友ベルネを『ルートウィヒ・ベルネ 覚え書』(1840)で誹謗(ひぼう)、死者にむち打つ結果となり、ベルネの信奉者と決闘に及び、双方無事であったが、ハイネは万一を思って事前にマチルデと結婚する。その夏、彼女とピレネー山中にいっしょに過ごしたことが、機知と風刺の物語詩『アッタ・トロル 夏の夜の夢』(1847)成立の契機となった。自由奔放な生活、多くの敵との争いの連続が影響したのか、40歳ごろから身体の変調を覚える。43年、ハイネはひそかに12年ぶりに祖国に帰る。その体験が、社会主義革命を予言する壮大な物語詩『ドイツ・冬物語』(1844)として結実した。パリに滞在したマルクスとの交友も、ハイネの詩作に大きく影響した。『ドイツ・冬物語』と同時に、おもにパリ時代に制作した奔放な詩の集成『新詩集』(1844)も上梓(じょうし)する。一方、健康は年々悪化し、48年、「しとねの墓穴」に呻吟(しんぎん)する日々が始まる。脊髄(せきずい)病の苦しみにハイネは打ちのめされた。世間を厭(いと)い、神へ目を向けるようになったのもこのころである。しかし、この極限状態を彼は強靭(きょうじん)な精神力で克服し、よみがえって、『ロマンツェーロ』(1851)、『雑録』三巻(1854)、『告白』(1854)、『メモワール』(1854)などの晩年の重要作品を相次いで完成。ここには、苦悩、神、厭世(えんせい)などの、病が呼び出す領域とは別に、苦痛を諧謔(かいぎゃく)に包み、病を近づけぬたくましさで、新たな境地を開拓するハイネの姿がある。詩人の愛の最後の灯火が、数か月を病床に寄り添うカミラ・セルダンのうえにともった。ハイネは彼女をムーシュ(蠅(はえ))とよんで愛(いとし)んだ。魂の究極に芽生えた愛を、最後の傑作『受難の花』(1856)に託して、1856年2月17日、ハイネは世を去った。葬儀は内輪で行われ、柩(ひつぎ)はパリのモンマルトルに葬られた。
[小松 博]
せつせつと愛を歌い、峻烈(しゅんれつ)に革命を叫び、果敢に体制を糾弾、かたわら年金を受給、ユダヤ人に生まれ、キリスト教に改宗するなど、矛盾多き生涯を送ったハイネは、その多面性ゆえに位置づけも多様で、とくにヒトラー時代には完全に抹殺された。近年、19世紀最大の革命的民衆詩人の評価が定まる。エッセイスト、評論家としても優れ、辛辣(しんらつ)で風刺に富むさえた筆は、ドイツ語に新しい生命を与えた。
明治以来森鴎外(おうがい)、上田敏(びん)などによって訳され、ハイネは日本でもっとも愛読されてきた外国詩人の1人である。ハイネ自身の複雑さをそのままに、「涙の叙情詩人」「革命詩人」「厭世詩人」など、多様な受容がなされてきた。今日でも、ハイネはなお新鮮な驚きを内に秘めている。時代が内蔵した矛盾をそのまま自らの矛盾として具現したハイネの全存在が、時代を超越した現代性を備えているゆえんである。
[小松 博]
『井上正蔵訳『ハイネ全詩集』全5巻(1972~73・角川書店)』▽『井上正蔵著『ハインリヒ・ハイネ――愛と革命の詩人』(岩波新書)』▽『舟木重信著『詩人ハイネ』(1965・筑摩書房)』▽『『ハイネ研究――年報』(1977~ ・ハイネ研究図書刊行会)』
ドイツの詩人。本名はHarry Heine。ハイネは広い意味でフランス大革命の同時代人であり,ナポレオン法典が保障する法の下での人間の平等,個人の信仰,職業,居住の自由が現実に何を意味するかを,生地デュッセルドルフのフランス軍による解放を通して少年期に肌身に体験する。貧しいユダヤ人の雑貨商人の息子として生まれ育ったハイネは,いわば〈解放者〉ナポレオンの洗礼を受けて,フランス大革命への愛にめざめたといってよい。青年期にはボン,ベルリン,ゲッティンゲンの各大学で法律を修めた。
1820年代を代表する一連の散文作品,たとえば《ハルツ紀行》《ル・グランの書》《イギリス断章》《ミュンヘンからジェノバへの旅》などの《旅の絵Reisebilder》シリーズ(4巻,1826-31)は,フランス革命への愛をてこにして認識の地平を広げつつ,ドイツの〈旧体制〉批判へと大胆に踏みこんでいく戦闘的ジャーナリストの前進の記録であり,フランス七月革命(1830)によって覚醒する青年ドイツ派の模範的先例となった。31年,特派員としてパリに赴き,以後亡命し,その死去まで同地で過ごす。散文を〈武器〉とするこのような創作活動の頂点に位置するのが,《ロマン派Die romantische Schule》(1836刊,1833年に《ドイツにおける近代文学の歴史のために》の題で発表)と《ドイツ宗教・哲学史考》(1834)にほかならない。これら二つの労作の中で,ハイネはヘーゲルの弁証法とサン・シモンの教義を融合させた独自の歴史観を展開し,そこからきたるべきドイツ革命の必然性を,予見的に描きだした。
ハイネの名声を国外に高めた《歌の本》(1827)から,ドイツ・ロマン派には異質の〈市民性〉を鋭く嗅ぎとったシュライエルマハーのような同時代人はいたが,そこから40年代の政治詩にいたる長い道のりは,いわば試行錯誤の連続であった。繰り返しうたい続けた愛の〈小さな世界〉から,しだいに人類の解放へと自己の愛のパースペクティブを広げえたときに,ハイネはドイツ・ロマン派の伝統を根底から革新する《アッタ・トロル》(1841発表,1847刊)や《ドイツ,冬物語Deutschland.Ein Wintermärchen》(1844)を,さらにはマルクスとの友情の中で生まれた《教義Doktorin》(1844)や《シュレジエンの織工》(1844)などの,不朽の名作を世に送ることができたのである。亡命地パリからの〈ルテーツィア通信〉で追い続けた二月革命(1848)がドイツでも起きたとき,ハイネの肉体はすでに〈しとねの墓穴〉から一歩も出られぬ状態にあった。この革命を境目にして,ハイネの世界観は大きく屈折してゆくが,基本的に,それはプロレタリアートの勝利を予測しながらも,自己の芸術の破滅をも予感するハイネの複雑な姿勢に起因している。ブルジョア革命からプロレタリア革命への,二つの時代の過渡期に位置する詩人のさめた自覚は,晩年の詩集《ロマンツェーロ》(1851)のライトモティーフでもあった。
日本では,雑誌《国民之友》における森鷗外の訳詩(1889)が初出とされるが,ほぼ100年のハイネ受容史は〈恋愛詩人か政治詩人か〉の二極間をゆれ動く対立的評価によっていろどられている。
執筆者:林 睦実
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1797~1856
ドイツの詩人。抒情詩人として出発する(『歌の本』)が,1830年の七月革命で社会主義に接近し辛辣(しんらつ)な革命詩人となった。晩年は病床にあり生活は恵まれなかったが,格調高い詩作は続けた(『ロマンツェーロ』)。
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…またこの時期にフランス革命に背を向け,世界史の進展にもとる形で国民意識が育成され,それが主流となったことは事実であるが,革命の理念の浸透が皆無であったわけではない。この潮流はJ.G.A.フォルスターの紀行文に見られるように,自由な散文形式によって具現され,それがハイネの《ハルツ紀行》などの青年ドイツ派の散文作品に受け継がれていく。
【19世紀】
[小説の興隆]
1830年以後,社会の変動につれて文学の様相も大きく変わってくる。…
…またここに住み,歌声(エコー)で舟人を誘惑したという水の精ローレライの〈伝説〉は詩人の空想が伝説化したもので,ロマン派の詩人C.ブレンターノが物語詩《ローレ・ライ》(1801)の中で,男たちを魅惑して破滅させる美しい乙女にこの名を与えて以来,詩人たちはしばしばこの題材を採り上げて発展させた。とりわけハイネの詩《ローレライ》(1823あるいは1824)はジルヒャーFriedrich Silcher(1789‐1860)の作曲によって民謡のように広く親しまれ,日本でも〈なじかは知らねど心侘(わ)びて〉で始まる近藤朔風(さくふう)の訳詞で愛唱されている。【橋本 郁雄】。…
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