極東学院 (きょくとうがくいん)
École Française d'Extrême-Orient
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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極東学院【きょくとうがくいん】
フランスが1900年ハノイに設けた研究所。遠東博古学院とも。初代院長はフィノーLouis Finot(1864年−1935年)。インドシナをはじめ中国,インド,日本にわたる,考古・歴史・言語・民族・地理等の領域で成果をあげ,ヨーロッパのアジア研究の中心となる。1901年から《極東学院紀要》を刊行,アンコールをはじめインドシナの古跡保存も行った。P.ペリオ,H.マスペロ,G.セデスら著名な学者がこの学院で研究した。第2次大戦後,本部はパリに移転。
→関連項目フーシェ
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極東学院
きょくとうがくいん
Ecole Française d'Extrême-Orient
フランス領インドシナの総督 P.ドゥーメルによって,1898年サイゴンに開設された東洋学研究機関。 1900年にハノイに移り,インドシナを中心に広くアジア地域についての人文研究を行なった。その研究成果は,01年創刊の機関誌"Bulletin de l'École Française d'Extrême-Orient" (略称 BEFEO) や単行本形式の各種報告書の形で発表されており,いずれも斯界から高い評価を受けた。第2次世界大戦後,本部はサイゴンに移り,さらにフランス領インドシナの解体に伴って,現在では本部はパリ。しかし所員の多くは,現在でもアジア各地において史跡の保管にあたり,同時に実地研究を進めている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の極東学院の言及
【東洋学】より
…またオスマン・トルコとヨーロッパとの関係が複雑化するにつれ,[トルコ学]が成立し,このトルコ学からモンゴル学が分立し,主にロシアの学者によって研究が進められた。インドで勢力争いでイギリスに敗れたフランスは,インドシナの経略に向かい,1887年に仏領インドシナを成立させるや,極東地域の研究を重視し,1900年にはハノイに極東学院を創立し,東洋学者および探検家の養成につとめ,極東全般の研究に貢献した。 極東の広大な地域を占めた中国を対象とする中国学についていえば,16世紀後半に書かれたポルトガル人J.deバルロスの《毎十年史》における中国に関する詳しい記述を別格とすると,1585年に出版されたスペイン人G.メンドサの《シナ大王国記》こそが最初の業績であり,17世紀以後はフランスのイエズス会士たちによって精力的に推進された。…
【フィノー】より
…パリの古文書学校を卒業し,1894年エコール・プラティーク・デ・オート・ゼチュードで学位を取得した。98年インドシナ考古学調査に赴き,1900年ハノイに設けられた[極東学院]の初代院長に就任,29年まで4度にわたり通算19年間院長職にあった。この間コレージュ・ド・フランス教授,学士院会員にもなった。…
※「極東学院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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