ドイツ系のロシアの化学者.サンクトペテルブルクでの中等教育の後,西欧に遊学し,1858年ゲッチンゲン大学のF.W. Wöhler(ウェーラー)のもとで学位を取得.1860年実験助手になり,1865年員外教授に昇進した.1866年父親の急死で急きょサンクトペテルブルクに戻り,同地の技術高等専門学校教授に就任した.このとき,就任の条件に従って,ロシア国籍になった.1870年代から既知のすべての有機化合物のデータを原論文から採録した便覧執筆を開始し,総ページ2200ページに及ぶ2巻本の“有機化学便覧”Handbuch der organischen Chemieを完成(1881~1883年)させた.さらに独力で第2版(1885~1889年),第3版(1899~1906年)を出版した.死後,事業はドイツ化学会に引き継がれ,現在では,有機化合物のデータを収録した最大規模の叢書となっており,そのオンライン・データベース版もある.1868年創立のロシア化学会の創立会員の一人であるが,1880年のD.I. Mendeleev(メンデレーエフ)の科学アカデミー正会員落選事件からロシア化学界のロシア派とドイツ派の対立に巻き込まれ,とくに1886年にかれ自身が科学アカデミー会員に選出されてからはドイツ派と見られ,ロシア化学界で孤立した.そのため,かれは便覧作成に没頭したといわれている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
ロシアの化学者。サンクト・ペテルブルグでドイツ系ロシア人の家庭に生まれる。ハイデルベルク、ミュンヘン、ゲッティンゲン、パリと各地を遊学し、1866年、ペテルブルグ工科大学の教授職を得るとともに帰国。1881年ロシア科学アカデミーの会員に選ばれる。バイルシュタインの主たる業績は、有機化合物の分類・体系化にあるが、とりわけ、彼の編集した『有機化学便覧』Handbuch der organischen Chemie(1880~1882)は現在まで、有機化学研究者にとって必須(ひっす)の知識を提供する最良の情報源の一つとなっている。また、ハロゲン検出法のバイルシュタイン反応を考案するなどの業績も残した。
[井山弘幸]
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新