メンデレーエフ(読み)めんでれーえふ(英語表記)Дмитрий Иванович Менделеев/Dmitriy Ivanovich Mendeleev

デジタル大辞泉 「メンデレーエフ」の意味・読み・例文・類語

メンデレーエフ(Dmitriy Ivanovich Mendeleev)

[1834~1907]ロシアの化学者。1869年に元素周期律を発見。既知の元素の原子量を訂正、未発見の元素の存在と性質を予告。また、ロシア産業の発展のために多方面で尽力。著「化学の原理」。

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精選版 日本国語大辞典 「メンデレーエフ」の意味・読み・例文・類語

メンデレーエフ

  1. ( Dmitrij Ivanovič Mjendjeljejev ドミトリー=イワノビチ━ ) ロシアの化学者。元素の周期律の理論を発表し、未知の元素の存在と性質を予言。また、石油、石炭などについて研究。主著「化学の原理」。(一八三四‐一九〇七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「メンデレーエフ」の意味・わかりやすい解説

メンデレーエフ
めんでれーえふ
Дмитрий Иванович Менделеев/Dmitriy Ivanovich Mendeleev
(1834―1907)

周期律を発見したロシアの化学者。西シベリアトボリスクに、中学校長の子として生まれ、1855年サンクト・ペテルブルグの中央教育大学を卒業した。1857年ペテルブルグ大学の化学の私講師となり、1859年から2年間ドイツのハイデルベルク大学に留学、1864年ペテルブルグ大学専任講師、1865年工業化学担当教授となった。

[内田正夫]

初期の研究

初期の研究は、結晶同形、比体積、毛管現象、表面張力、気体の絶対沸騰温度(臨界点)、アルコール水溶液の密度など、物理化学方面に向けられた。それは単体や化合物における客観的に測定可能な諸性質とその組成との関連を追究したものであり、このような考え方は後の周期律発見へとつながっている。留学中の1860年には、原子量・分子量概念の混乱を解決するためにカールスルーエで開かれた世界最初の化学者国際会議に出席し、アボガドロ法則に基づくカニッツァーロの提案をただちに承認した。帰国後まもなく著した『有機化学』(1861)には新しい原子量体系が採用されている。正しい原子量概念は周期律発見の不可欠の前提であった。

[内田正夫]

周期律の発見

1867年、メンデレーエフは恩師ボスクレセンスキーА.А.Воскресенский/A. A. Voskresenskiy(1809―1880)の後任としてペテルブルグ大学一般化学教授となり、その講義のための教科書として主著『化学の原理』Основы химииOsnovï himii(1869~1871)の執筆を始めた。この書において当時知られた63種の元素をどのような順序で解説すべきかという考察が契機となって、1869年3月に周期律が発見された。すなわち彼は、原子価をはじめ化学的性質の類似した元素グループ相互の原子量を比較することにより、「原子量の大きさに従って並べられた元素はその性質が周期的に変化する」ことをみいだしたのである。メンデレーエフの周期表には既知元素すべてが盛り込まれただけでなく、未発見元素のための空席が設けられ、またベリリウムなどいくつかの元素は原子量を訂正して正しい位置に配置された。彼は周期律の正しさを確信し、翌1870年3種の未発見元素の性質を詳細に予言したが、やがて次々に発見されたガリウム(1875)、スカンジウム(1879)、ゲルマニウム(1886)の3元素の性質はその予言に正確に一致していた。彼は既知の知見の整理という枠を超えて、諸元素の間に存在する自然の法則性をとらえたということができよう。なお、ドイツのJ・L・マイヤーもメンデレーエフと同年に、おもに単体の物理的諸性質の周期的変化に着目してほぼ同じ法則に到達したが、マイヤーは未発見元素の予言には消極的であった。

 メンデレーエフは約3年間、周期律の研究に没頭したのち、ふたたび気体や溶液の研究に戻った。彼は科学的研究のほかにもロシアの産業発展のために数多くの技術学的研究と著作を行った。そのなかには、技術百科事典の刊行、農業実験、カフカス地方やアメリカのペンシルベニア油田の視察、石油の成因・利用法の研究、ドネツ炭田ウラルの製鉄業の調査、無煙火薬、造船、関税の研究などがある。1890年、文部省との衝突から大学を辞任、1893年、度量衡局長官となり、以後死ぬまでその職にあった。

[内田正夫]

『田中豊助監訳『化学の原理』全2冊(1978・内田老鶴圃)』『B・M・ケドロフ著、大竹三郎訳『科学的発見のアナトミア――メンデレーエフの法則をめぐって』(1973・法政大学出版局)』『G・スミルノフ著、木下高一郎訳『メンデレーエフ伝』(1976・講談社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「メンデレーエフ」の意味・わかりやすい解説

メンデレーエフ
Dmitrii Ivanovich Mendeleev
生没年:1834-1907

ロシアの化学者。シベリアのトボリスクの生れ。父は学校教師,母は商家出身。1855年ペテルブルグの高等師範学校卒。57年よりペテルブルグ大学化学私講師。59-61年西欧に留学。1860年カールスルーエでの世界最初の国際化学者会議に出席し,S.カニッツァーロによる原子量改革の提案を直ちに正しく評価した。帰国後各種の学校で教え,65年ペテルブルグ大学化学技術教授,67年化学教授に就任。90年当局との衝突から辞任。93年新設の中央度量衡局長となりその死まで在任。1850~60年代の彼の研究対象は,当時有機化学を中心として成立した古典的な原子価説がうまく適用できない無機化合物であり,その分類の客観的指標を追求して,同形,比体積,毛管現象,溶液密度といった物質の物理的性質に注目して研究した。その過程で元素を単体・化合物の共通な性質の抽象概念としてとらえ,先行者と異なり,元素と単体をはっきり意識的に区別した。彼の主著である化学教科書《化学の原理》(1868-71)の執筆過程で,こうした元素に属する不変量である原子量によって,似ていない元素族の包括的な比較が可能であることに気づき,〈元素の性質は原子量の周期関数である〉とする周期律発見に至った(1869年3月)。続く3年間は,周期律に基づく元素体系研究に集中し,70年の未知元素の性質の詳細な予言を経,71年に100ページ近くの総括論文をドイツの雑誌に発表した。当初無視された周期律は,彼がとくに詳細な性質の予言をした三つの未知元素の発見により完全に受容された。すなわち75年のガリウム(メンデレーエフのエカアルミニウム),79年のスカンジウム(エカホウ素),86年のゲルマニウム(エカケイ素)である。このほか希薄気体,溶液研究といった他の化学の基礎研究のみならず,当時,産業革命による資本主義化のさなかにあったロシア社会の要請にこたえた多方面にわたる業績(農業実験,石油・石炭・製鉄に関する調査研究,無煙火薬,関税問題,度量衡,造船,気球観測など)を残した。著作も,生前8版の改訂を重ねた《化学の原理》をはじめきわめて多く,ソ連で編纂された全集(1937-52)は25巻におよぶ。
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化学辞典 第2版 「メンデレーエフ」の解説

メンデレーエフ
メンデレーエフ
Mendeleev, Dmitrii Ivanovich

ロシアの化学者.西シベリアのトボリスクに生まれる.父はギムナジウム(中等教育機関)教師,母は地元の商家の出身.地元のギムナジウム卒業後,サンクトペテルブルクの高等師範学校に入学し,1855年に卒業.しばらく南ロシアで教師を務めた後,首都に戻り大学の講師になり,西ヨーロッパに留学した(1859~1861年).1860年に開催された史上初の国際化学者会議に出席し,会議で配布されたS. Cannizzaro(カニッツァーロ)の原子量に関する論文に大きな影響を受けた.1864年サンクトペテルブルク技術高等専門学校教授,1865年サンクトペテルブルク大学教授となり,1890年まで務めた.文部大臣とのささいな衝突で辞任後,海軍の依頼で無煙火薬の研究を行った.1892年末,度量衡管理所研究官に就任.翌年同所が中央度量衡局に改組されると局長に就任し,亡くなるまで務めた.化学教科書“化学の原理”(初版1868~1871年)の執筆過程で,原子量にもとづいて異なる元素族が統合できることに気づき,周期律を発見した(1869年).1871年周期律に関する研究を仕上げた.とくに1870年に詳細な性質の予言をした未発見元素(エカアルミニウム,エカホウ素,エカケイ素(エカはサンスクリット語の数詞の一の意))が,それぞれガリウム(1875年),スカンジウム(1879年),ゲルマニウム(1885年)として発見されて,周期律は化学者に受け入れられた.かれの化学教科書はロシア国内で版を重ねて(1906年に第8版)ロシア語版のほか,英訳・独訳・仏訳を通じて世界的にも普及した.ほかに気体・液体・溶液の物理化学的研究や度量衡に関する基礎的研究がある.農業や石油業の技術に関する研究から,1880年代以降,産業・経済一般の問題への関心を深め,政府のために多くの調査研究(関税研究のような経済研究も含まれる)を行い,ロシア政府の近代化・工業化路線のブレーンとして活躍した.長男のVladimirは海軍士官となり日本を訪れ(1891~1892年),長崎で日本女性との間に娘が生まれている.

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メンデレーエフ」の意味・わかりやすい解説

メンデレーエフ
Mendeleev, Dmitrii Ivanovich

[生]1834.2.7. シベリア,トボリスク
[没]1907.2.2. サンクトペテルブルグ
ロシアの化学者。ギムナジウムの教師であった父の死後,1855年サンクトペテルブルグの師範学校で教師の資格を得たのち,クリミアに赴任。 1856年サンクトペテルブルグ大学に復学。 1859年ドイツのハイデルベルク大学に留学。帰国後サンクトペテルブルグ大学工業研究所教授を経て,1867年サンクトペテルブルグ大学化学技術教授。化学教科書著作の過程で,元素の体系的分類を検討中,1869年原子量順に配列した諸元素の性質の間に周期性がみられることを発見,周期律を発表した。初めは受け入れられなかったが,やがて表の空白部に入るべき未知の3元素 (ガリウムスカンジウムゲルマニウム ) の存在とそれらの性質についての予測が実証され,化学に新しい時代を画するものとして広く認められるにいたった。化学の応用面でも活躍し,ロシアのソーダ工業,石油工業の発展にも貢献したが,その進歩的思想によって当局と衝突し,1890年大学を辞任。晩年は度量衡局長の職にあった (1893~1907) 。教科書として『化学原論』を著した。

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百科事典マイペディア 「メンデレーエフ」の意味・わかりやすい解説

メンデレーエフ

ロシアの化学者。1859年ヨーロッパに留学してブンゼン,キルヒホフらと接し,1865年母校のペテルブルグ大学教授。1869年元素の周期律について発表,のちこれに基づき未知元素(ガリウム,スカンジウム,ゲルマニウムなど)の周期表上の位置と性質を予言した。ほかに溶液の研究,バクーの石油資源の利用,石油の成因についての研究を行い,また講義用教科書として《化学の基礎》を著し,新しい化学教育にも尽くした。晩年には度量衡局総裁の任についた。
→関連項目周期表石炭地下ガス化トボリスクマイヤーメンデレビウム

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「メンデレーエフ」の解説

メンデレーエフ
Dmitrii Ivanovich Mendeleev

1834~1907

ロシアの化学者にして周期律の発見者。ロタール・マイアーの発見(1868年)とは独立に,1869年各元素の諸性質はほぼ原子量の周期関数であるという周期律を発見した。

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世界大百科事典(旧版)内のメンデレーエフの言及

【化学結合】より


[化学結合における電子配置の役割]
 原子内には原子番号と同数の電子があるが,その電子は3種の量子数(n,l,m)によって規定される原子軌道atomic orbitalに,スピン量子数msに関する制限であるパウリの原理とフントの規則を課されて,エネルギーの低いほうから順次配置される。この原子の電子配置は,D.I.メンデレーエフやJ.L.マイヤーによって見いだされた元素の諸性質の周期性(1869)と密接に関連しており,原子の化学的性質は主としてその電子配置に支配されていることが明らかにされた。そのなかで化学結合との関係で重要なことは次の3点である。…

【周期律】より

…これらは現在の周期律の最初のいとぐちをつかんだものであったが,あまりにも独創的な内容と新奇な表現のため,その価値を認められなかった。 しかしさらにドイツのJ.L.マイヤーは,原子を原子量の順番にならべた番号(これは現在の原子番号に対応する)と元素の諸性質との関係を系統的,定量的にくわしく検討し,1869年に,〈原子容曲線〉(原子容)のように,それらの性質が原子番号の周期的関数として変化することを明確にし,また同年,ロシアのD.I.メンデレーエフは,これと独立に,元素の原子価,化合物の型式などの化学的性質をも十分考慮に入れて,現在用いられているものと本質的に同様な型式の周期表を完成した。当時はまだ未発見の元素が多かったので,メンデレーエフの周期表には多くの空欄があり,一見たよりない印象を与えるものであったが,その後それらの空欄に該当する元素がつぎつぎに発見され,それらの性質がメンデレーエフが近隣の元素の性質から予測したものとまったく一致したことから,周期律に対する学界の信頼はにわかに高くなった。…

【石炭地下ガス化】より

…これができれば,人間が立坑や坑道を掘って地下に入り石炭を採掘しなくとも,ガスの形に変えて地上に取り出して利用できる。この地下の炭層自体の中に一種のガス発生ゾーンをつくるという着想は1880年ごろロシアのD.I.メンデレーエフ(元素の周期律の発見者)が,炭層の採掘中に起こる自然発火の現象にヒントを得て提唱したといわれる。その原理は,炭層にあけた2本のボーリング孔の一方から空気を圧入して他方で吸引すると,空気が炭層中の割れ目に浸透し,石炭の酸化が起こって発熱し,やがて不完全燃焼の状態になり,吸引側に一酸化炭素を含むガスが出てくるというものである。…

※「メンデレーエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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