日本大百科全書(ニッポニカ) 「メンデレーエフ」の意味・わかりやすい解説
メンデレーエフ
めんでれーえふ
Дмитрий Иванович Менделеев/Dmitriy Ivanovich Mendeleev
(1834―1907)
周期律を発見したロシアの化学者。西シベリアのトボリスクに、中学校長の子として生まれ、1855年サンクト・ペテルブルグの中央教育大学を卒業した。1857年ペテルブルグ大学の化学の私講師となり、1859年から2年間ドイツのハイデルベルク大学に留学、1864年ペテルブルグ大学専任講師、1865年工業化学担当教授となった。
[内田正夫]
初期の研究
初期の研究は、結晶同形、比体積、毛管現象、表面張力、気体の絶対沸騰温度(臨界点)、アルコール水溶液の密度など、物理化学方面に向けられた。それは単体や化合物における客観的に測定可能な諸性質とその組成との関連を追究したものであり、このような考え方は後の周期律発見へとつながっている。留学中の1860年には、原子量・分子量概念の混乱を解決するためにカールスルーエで開かれた世界最初の化学者国際会議に出席し、アボガドロの法則に基づくカニッツァーロの提案をただちに承認した。帰国後まもなく著した『有機化学』(1861)には新しい原子量体系が採用されている。正しい原子量概念は周期律発見の不可欠の前提であった。
[内田正夫]
周期律の発見
1867年、メンデレーエフは恩師ボスクレセンスキーА.А.Воскресенский/A. A. Voskresenskiy(1809―1880)の後任としてペテルブルグ大学一般化学教授となり、その講義のための教科書として主著『化学の原理』Основы химии/Osnovï himii(1869~1871)の執筆を始めた。この書において当時知られた63種の元素をどのような順序で解説すべきかという考察が契機となって、1869年3月に周期律が発見された。すなわち彼は、原子価をはじめ化学的性質の類似した元素グループ相互の原子量を比較することにより、「原子量の大きさに従って並べられた元素はその性質が周期的に変化する」ことをみいだしたのである。メンデレーエフの周期表には既知元素すべてが盛り込まれただけでなく、未発見元素のための空席が設けられ、またベリリウムなどいくつかの元素は原子量を訂正して正しい位置に配置された。彼は周期律の正しさを確信し、翌1870年3種の未発見元素の性質を詳細に予言したが、やがて次々に発見されたガリウム(1875)、スカンジウム(1879)、ゲルマニウム(1886)の3元素の性質はその予言に正確に一致していた。彼は既知の知見の整理という枠を超えて、諸元素の間に存在する自然の法則性をとらえたということができよう。なお、ドイツのJ・L・マイヤーもメンデレーエフと同年に、おもに単体の物理的諸性質の周期的変化に着目してほぼ同じ法則に到達したが、マイヤーは未発見元素の予言には消極的であった。
メンデレーエフは約3年間、周期律の研究に没頭したのち、ふたたび気体や溶液の研究に戻った。彼は科学的研究のほかにもロシアの産業発展のために数多くの技術学的研究と著作を行った。そのなかには、技術百科事典の刊行、農業実験、カフカス地方やアメリカのペンシルベニア油田の視察、石油の成因・利用法の研究、ドネツ炭田やウラルの製鉄業の調査、無煙火薬、造船、関税の研究などがある。1890年、文部省との衝突から大学を辞任、1893年、度量衡局長官となり、以後死ぬまでその職にあった。
[内田正夫]
『田中豊助監訳『化学の原理』全2冊(1978・内田老鶴圃)』▽『B・M・ケドロフ著、大竹三郎訳『科学的発見のアナトミア――メンデレーエフの法則をめぐって』(1973・法政大学出版局)』▽『G・スミルノフ著、木下高一郎訳『メンデレーエフ伝』(1976・講談社)』