近代社会(読み)きんだいしゃかい

精選版 日本国語大辞典 「近代社会」の意味・読み・例文・類語

きんだい‐しゃかい ‥シャクヮイ【近代社会】

〘名〙 中世封建社会が解体したのちに現われてくる社会で、経済的には資本主義、政治的には個人の基本的人権を承認して民主主義の体制をとる社会をいう。資本主義社会、市民社会などと同じ意味に用いられることが多い。
※日本の思想(1961)〈丸山真男〉四「近代社会における制度の考え方」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「近代社会」の意味・わかりやすい解説

近代社会
きんだいしゃかい

総説

近代社会とは

一般的には、中世封建社会が解体したのちに現れてくる社会で、経済的には工業化が進んで資本主義を基礎とし、政治的には個人の基本的人権を承認して民主主義の体制をとるような社会をいう。市民社会、ブルジョア社会、資本主義社会などと同じ意味で用いられる場合が多い。だが、西洋、東洋、日本など、地域を異にするにつれて近代社会のあり方には大きな差異があり、またその開始の時期も異なっている。なお、近代社会の終期については、現代社会を広い意味で近代社会に属するとみるか、近代社会とは異質なものとみるか、見解が分かれている。

[遅塚忠躬]

近代社会の起点

時代区分の用語として「近代」が用いられるようになったのは最近のことである。従来は、たとえば王朝による小刻みな区別や、日本史では幕府別の区分、年号による区分などが用いられた。中国史では、「易姓革命」(姓すなわち皇帝の血統をかえて天命を革(あらた)めること。万世一系とは対照的)の思想に基づく「二十四史」(正史)の区分が用いられた。ヨーロッパなどでも王朝別の区分が主流であった。

 その一方で、長い歴史をいくつかに区分する異なる方法も存在した。仏教の過去(前世)、現在(現世)、未来(来世)の三世(さんぜ)概念、中国の公羊(くよう)学派による太平・升平・衰乱の三世法などである。ヘーゲルは世界史を東洋的世界、ギリシア・ローマ世界、ゲルマン的キリスト教世界の3段階に区分して、精神の自己展開・進歩の過程と考えた。マルクスは古代(奴隷制)、中世(封建制)、近代(資本制)に三分し、その前後に原始共産制と共産制を置いた。

 日本語で「近代」の語が定着し、ほぼ幕末開国以降をさすようになるのは、最近のことである。上古、中古、近古(近世あるいは近代)の三分法では、近古も近世も近代もほぼ同義であった(たとえば徳富蘇峰(そほう)『近世日本国民史』1918~52)。

 1920年代ごろから、マルクス史学の影響によって、近代の起点を日本史では幕末・維新とする説が支持された結果、近世と近代が区別され、ついで1960年(昭和35)前後に太閤(たいこう)検地、刀狩の役割を重視する説が支持された結果、封建制を前期と後期に二分し、それぞれ中世と近世と命名するようになり、全体としては古代、中世、近世、近代の四分法が広く用いられるようになった。

 中国史では、1930年代のマルクス史学の影響によって、奴隷制、封建制、資本制の三分法が主張されたが、前二者を古代または前近代と一括して近代と対比させる二分法も用いられる。それに対して唐・宋(そう)の変革を強調する日本人学者には、唐・宋を画期として中世と近世に二分し、日本史の四分法にあわせた中国史の時期区分を主張する人もいる。これは西欧史においてルネサンス・絶対主義以降を近世として中世と区別し、産業革命・フランス革命以降を近代とする四分法にも共通するが、この時期区分は北アメリカやオーストラリアなどの移民植民地や開発途上の社会には適用できない。

[加藤祐三]

西洋

時代区分

西洋では、古代・中世・近代という歴史の三区分法が古くから用いられ、その場合、16世紀以降を近代modernとするのが一般的である。確かに、中世封建社会は14、15世紀に解体し始めており、16世紀には、西欧ルネサンスや、宗教改革や、地理上の発見に伴う商業の発展など、著しい変化がみられたから、16世紀以降を近代とするのはそれなりの根拠がある。しかし、西洋全体を概括した場合、ほぼ18世紀後半までは、社会構造においては身分制や領主制が存続しており、政治体制においては絶対王政という前近代的統治機構が存在していた。したがって、16世紀から18世紀後半までは、封建社会が解体して近代社会が形成される過渡期(移行期)であると考えられ、西洋ではこの時期を初期近代early modernと名づけることがあり、わが国ではこの時期の西洋を近世と称することが多い(この時期を絶対主義時代とか旧体制ancien régimeとかいうのもほぼ同様な意味である)。そして、18世紀後半に、一方で、アメリカ独立革命やとくにフランス革命が生じて、身分制や領主制とそのうえにたつ絶対王政が廃止され、他方で、イギリス産業革命が開始されて、資本主義の確立と工業化の進展がみられるようになったとき、厳密な意味で西洋近代社会が成立したといえる。こうして成立した西洋近代社会の一般的特徴と諸類型についてはのちに述べるが、そういう近代社会のあり方は、19世紀末以降、とくに20世紀に入ってから大きく変化していくから、それ以後を近代社会の変質期、または近代とは区別された現代とみることができる。

[遅塚忠躬]

封建社会から近代社会への移行過程

ヨーロッパの封建社会は、13世紀にその最盛期を迎えたのち、14、15世紀のいわゆる封建的危機の時代に解体し始めた。まず、戦乱と疫病によって農村人口が激減したため、領主は、所領を維持するためには農民に譲歩して賦役を軽減したり金納化したりせざるをえず、大規模な農民一揆(いっき)もあって、封建社会の経済的基礎をなす領主制(荘園(しょうえん)制)は弱体化し、農奴解放も進んで農民の地位が向上した。同時に、火器や傭兵(ようへい)隊の使用によって騎士の没落が著しく、戦争や内乱によって貴族や諸侯の力も衰えたため、それまで分散していた政治権力は、都市の大商人などに支持された国王のもとにしだいに集中されるようになった。また、中世封建社会の重要な支柱であったローマ教皇の権威も、教会大分裂などによって衰微した。

 こうして中世末期に始まった封建社会の解体は16世紀以降にさらに進展するが、それは、とりもなおさず、近代社会の基礎が準備される過程でもあった。まず、いわゆる地理上の発見に伴う世界貿易の急激な発展は、新大陸からの貴金属の流入とともに、ヨーロッパの商業活動の繁栄を招き、その結果、地代収入に依存する領主や貴族の没落を促進すると同時に、大商人や金融業者などをはじめとするブルジョア層の勃興(ぼっこう)をもたらした。また、新しい国際貿易においてもっとも重要な商品になったのは毛織物であったから、世界市場の拡大に伴って、ヨーロッパ各地でその生産が急激に増加し、新しい生産様式としての資本主義の形成が準備されることになった。他方、イタリアに始まるルネサンスの波は西ヨーロッパにも及び、商工業の繁栄を背景にして、自由な人間性を表現する国民的な文化が生まれ、また、宗教改革は、形式化した教会や教義の束縛を破って個人の自由の自覚を促し、こうして近代社会の文化的・精神的基礎が準備された。

 しかしながら、16世紀のこうした新しい動きは、そのままただちに近代社会の成立をもたらしたのではなかった。まず、没落に瀕(ひん)した貴族は領主的反動によって農民に対する支配の再強化を試み、また、大商人などの上層ブルジョアは地主化したり貴族化したりして旧支配者層と妥協する傾向が強かった。絶対王政という過渡的な国家形態は、この貴族と上層ブルジョアとの妥協のうえに成立したのである。すなわち、貴族は、農民に対する支配権(領主的諸権利)や身分的特権(免税権など)を国王によって保障してもらうかわりに、国王の政治的権力の強化を容認し、大商人などは、商業上の特権(独占権など)を与えられるかわりに、国王の必要とする資金や人材を提供し、この両者がそれぞれの立場で国王を支持したところに絶対王政が成立した。したがって、絶対王政は、強力な中央集権的官僚行政機構を整備するなど、近代国家の形式を準備するものではあったが、そのもとでの社会構造においては、領主制が存続し、貴族をはじめとする諸身分の特権を容認する身分制が維持され、さらに、大商人の商業独占権が強化されたのみならず、国庫収入の増加を図る重商主義政策によって厳重な産業規制が実施されたから、資本主義の自由な発展はかえって著しく阻害された。

 近代社会の形成は、こうした絶対王政を揺るがせながら、17世紀中葉から18世紀にかけて進行したのであり、その先頭にたったのはイギリスであった。イギリスでは、早くから毛織物工業が農村内部に拡散して急速に展開し、商品経済に巻き込まれた農民層の分解によって賃労働者層が形成され、エンクロージャー(囲い込み)運動がそれに拍車をかけたから、資本主義的生産様式の形成が著しかった。そこで、17世紀後半には、これらの商工業市民や経営的な地主(ジェントリ)の力により、大貴族や特権的大商人の支持する絶対王政が打倒され(ピューリタン革命および名誉革命)、資本主義の発展に対する障害が除去されるとともに、権利章典などによって国民の基本的人権と議会主義の原則が認められ、いち早く近代社会が成立した。18世紀に入ると、フランスなどの大陸諸国でも資本主義の形成が進み、旧体制への批判が強まった。そして、17世紀の科学革命に端を発する合理主義思想は、イギリスの市民的政治思想を媒介として18世紀の啓蒙(けいもう)思想運動にまで高められ、これが近代社会成立の精神的基礎になった。

[遅塚忠躬]

近代社会の成立とその特徴

18世紀末のヨーロッパはフランス革命とイギリス産業革命との二重革命の時代といわれるが、フランス革命によって絶対主義の時代が終わり、イギリス産業革命によって資本主義の確立期が到来したから、この二重革命によって西洋近代社会が成立したといえる。まず、フランス革命は、先にアメリカ独立宣言が主張していたところをふたたび取り上げて人権宣言を発し、個人の自由と権利の平等と主権在民とを承認することによって、絶対王政にかわる近代民主主義の政治原理を確立し、さらに、いっさいの特権を廃止して身分制を一掃し、領主制を廃止して農民を解放し、商品生産および流通の自由を確立し、所有権の絶対を確認するなど、資本主義の自由な発展に対する障害を除去した。そして、18世紀後半から19世紀初めにかけて進行したイギリス産業革命は、新しい機械や技術の採用によって、それまでの手工業にかわる機械制大工業と工場制度をもたらし、資本主義的生産様式を確立させた。フランス革命の影響はナポレオンの支配によって全ヨーロッパに及び、イギリス産業革命もまもなく大陸に波及したから、19世紀中葉には全ヨーロッパおよび北アメリカにおいて社会の近代化がほぼ完成した。

 こうして成立した西洋近代社会は、のちにみるような差異を含みつつも、一般的にいって、経済、社会、政治、思想の四つの面で次のような特徴をもっていた。第一に、経済的には、資本・賃労働関係に基づく生産様式としての資本主義が支配的となり、それに伴って工業化や都市化が進行し、規則的な経済成長が実現されることになる。第二に、社会的には、個人の自由と平等が承認されることになるが、それは、資本主義が、労働力という商品をも含めて商品所有者が相互に平等な立場で自由に商品を交換することを前提としているからである。近代以前には、特権をもった諸身分や地域的・職能的な団体(貴族身分・特権都市・ギルドなど)が存在したが、近代では自由かつ平等な個人(市民)が社会を構成することになるから、そうした身分や団体は消滅し、かわって、資本家(ブルジョアジー)と労働者(プロレタリアート)という二大階級が社会を区分することになる。近代社会が身分制社会にかわる市民社会であり、ブルジョア社会であるといわれるのはそのためである。そこで、第三に、政治的には、自由かつ平等な個人の基本的人権を承認して彼らの意志を政治に反映させるような近代民主主義が、少なくとも原理的には承認されることになり、立憲政治・議会政治が樹立されるが、実質的にはブルジョアジーの政治的支配が行われる。また、近代以前の身分や団体が消滅した結果、国民的統一が完成して近代国民国家が成立し、一元化された国家権力の支配は官僚行政機構を通じて行われることになる。そして、以上のような経済、社会、政治の面での近代化は、いずれも、旧来の伝統や権威にとらわれない科学的・合理的精神によって達成されたものであったから、第四に、思想の面での近代社会の特徴は、人間の理性を信頼する科学的合理主義と、人類の無限の進歩を信じる進歩思想とであった。近代科学を生産過程に応用することによって確立した資本主義が規則的な経済成長を実現しえていた限り、飢餓や疾病から解放された人々は、核戦争や公害の脅威が現れるまで、科学的合理主義と進歩思想とをもち続けることができたのである。

 なお、以上のような特徴をもつ西洋近代社会は、非西洋諸地域に対する西洋の支配のうえに樹立されており、16世紀以降の西洋の近代化の過程は、非西洋諸地域の植民地・従属国化およびそこでの低開発状態の進展の過程と表裏一体をなすものであった。この点は、第二次世界大戦以降、いわゆる第三世界の諸問題が重視されるにつれてとくに注目されているところであり、たとえば、19世紀イギリスの近代社会がそのインド支配といかなる関係にあったか、という問題がさらに検討されなければならない。もとより、西洋近代社会の構造とその非西洋諸地域に対する支配との関連については、なおかならずしも定説をみるに至っていない。ただ、少なくとも、われわれは、西洋近代社会を各国別にではなく世界的な観点から検討すべきであり、その観点は、次に述べる西洋近代社会の諸類型の検討にも生かされなければならない。

[遅塚忠躬]

近代社会の諸類型

近代社会の経済的基礎をなす資本主義という生産様式は、本来、国境の枠を越えて世界的に拡大していく性質をもっていた。17世紀後半にいち早く近代社会を成立せしめたイギリスは、18世紀のうちにオランダやフランスをしのいで東西両洋に進出し、その世界市場制覇を背景として産業革命を遂行したから、その他の諸国は、イギリス資本主義に対抗するためにも、それぞれの仕方で自国の社会の近代化を達成しつつ、イギリスに続いて非西洋諸地域に多かれ少なかれ進出していった。こうして、19世紀後半には、イギリスを頂点とし、その他の西洋諸国をその下に置き、従属国や植民地を底辺とするピラミッド状の体制が、いわば資本主義的世界体制として成立した。そして、西洋近代社会の諸類型、つまり各国の近代社会の類型的差異は、それぞれの国がどのような仕方で自国の社会の近代化を達成したかによって決定されると同時に、それぞれの国がこの資本主義的世界体制のなかでどのような地位を与えられたかによっても決定されたのである。

 まず、ピラミッドの頂点にたつ最先進国イギリス(アイルランドを除く)は、最先進国なるがゆえに、農業を含めた全産業部門を資本主義化し、国内の近代化をもっとも徹底させることができた。次に、アメリカ合衆国とフランスは、イギリスと同様にブルジョア革命(市民革命)によって近代化を達成しえたが、イギリスに比べて相対的後進国の地位に置かれたがゆえに、合衆国南部のプランテーションやフランス中・南部の零細土地所有農民のような非資本主義的要素を国内に抱え込むことになった。そして、ドイツやイタリアやロシアなどは、さらに遅れた後進国の地位を与えられ、西欧に対抗して自国を近代化するためには、ブルジョア革命を待てず、プロイセン改革やイタリアのリソルジメントやロシアの農奴解放のような、いわゆる上からの改革によるほかはなかったから、ドイツ東部のユンカー経営やイタリア中・南部の小作制度やロシアの雇役制のような、非資本主義的土地制度を残したまま、農業の犠牲のうえに工業化を強行することになった。こうして、西洋近代社会の諸類型は、イギリスからロシアまで、自国の内部にどの程度まで非資本主義的(非近代的)要素を内包しているか、その程度の差として現れてくるが、その差異は、各国が資本主義的世界体制のなかで占める地位と不可分の関係にあった。そして、国内を完全に近代化しえたイギリスが、実は、アイルランドからインドまで広大な支配地における非近代的低開発状態のうえに国内の近代社会を樹立せしめていたことを考えるならば、西洋近代社会は、けっして近代一色に塗られているのではなく、国内の近代的要素(とくに資本主義的工業)と国内・国外の非近代的要素との複雑な結合のうえに成り立っていたといえるのであろう。

[遅塚忠躬]

近代社会の変質

19世紀末の帝国主義時代以降、西洋近代社会はしだいに変質を始めるが、それは、前記のピラミッド状の資本主義的世界体制が変質し解体していくのに伴うものであった。とくに、第二次世界大戦以後、植民地・従属国が独立するようになると、それに伴って、西洋諸国の資本主義のあり方も変化し、いわゆる大衆社会化状況が現れ、福祉国家のもとでの管理社会という新しい状況も生まれつつある。そのような意味で、現代の西洋は近代社会の変質途上にあるといえよう。

[遅塚忠躬]

アジア

近代の起点

近代の起点および特質をどう考えるべきか。アジア史においては、多くの場合、西欧近代との出会い(世界史の矛盾)に近代の開始を置くことによって、各国史と世界史との統一的理解を求める。中国史ではアヘン戦争(1840~42)を、朝鮮史では1860年代または1876年の開国を、インド史では18世紀後半のイギリスによる植民地化の開始あたりを、それぞれ近代の起点に置く考え方が一般的である。ここで含意されているのは、封建制の否定、資本主義の勃興(ぼっこう)など一部の西欧諸国史における発展段階論とは異なり、その逆に、独立の喪失、西欧とくにイギリスによる植民地化・従属化、そしてそれに対する抵抗およびそこに生ずる矛盾である。

 西欧史においては、近代が封建制の否定、内発的な資本主義の誕生、進歩、富の増大(産業化)、民主主義、民族国家の独立などを意味するのに対して、アジア史においては近代とは従属、後退、貧困の開始などを意味し、それに対する抵抗という主体的な契機を重視する。ヨーロッパのなかでも東欧・南欧史などでは、これと共通する考え方がある。

 ここから、近代と現代とを区別する考え方が出てくる。中国史の場合でいえば、アヘン戦争から五・四運動まで(1840~1919)、1970年代以降の史学会では新中国の成立(1949)までを近代とし、それ以降を現代とするのが主流である。これは解放の主体形成と主権国家の成立を重視する考え方である。

[加藤祐三]

近代の総合的把握の試み

近代の語義が西欧史とアジア史などでは大きく異なっており、これらを総合的に把握する理論はまだないといってよい。筆者は次の四つの異なる体制を分類し、その総体を近代と考えてみたい。

(1)資本主義・宗主国 イギリス、オランダ、アメリカなど
(2)植民地 インド、シンガポールインドネシア、アフリカの大部分の国、および南米、カナダ、オーストラリアなどの白人の移民植民地
(3)敗戦条約国(半植民地) 中国
(4)交渉条約国 日本、タイ
 この四つの体制は全体としては19世紀中葉にできあがり、1945年にほぼ全体として崩壊する。このうち(2)(3)(4)においては、いずれも従属化が近代であり、内発的な変革というより外圧によって従属的な近代が始まった。その従属化の程度によって三つが区別される。(2)においては統治権が全面的に(1)の宗主国によって掌握されるから、立法・司法・行政の三権のすべてを喪失する。

 これに対して(3)と(4)は、行政権の一部である外交権・通商権と司法権の一部が条約によって制限される。従来は(3)と(4)とは一括して不平等条約とよばれ、両者の区別があいまいであったが、両者の従属性には決定的な相違がある。(3)においては、条約の発生する根拠が戦争であり、敗戦した側には「懲罰」としての賠償金の支払い、領土の割譲が伴い、また内国行政(関税行政・治安など)の一部喪失などが伴う。

 これに比べて(4)の交渉条約においては、条約の発生が敗戦ではなく交渉であるため、「懲罰」概念が存在せず、また交渉力が双方にあるため、不平等性は緩やかである。事後の拘束力も大きく相違し、したがって条約改正の交渉に関して、(4)の場合には提案権があることになる。日米和親条約(1854)と一連の修好通商条約(1858)の改正のための交渉は、早くも岩倉使節団(1871~73)が提起したが拒否され、1899年(明治32)に実現されたが、この間にも横浜居留地における外国人自治権の放棄(1867)によって治外法権の重要な一角が崩れ、また日清(にっしん)戦争の直前の1894年には日英通商航海条約が結ばれて、貿易に関する不平等条項はなくなった。日清戦争の結果としての修好条約(下関条約、1895)では、今度は日本が(1)の立場になり、(2)の植民地・台湾を領有し、同時に(3)の敗戦条約を中国に押し付けた。

[加藤祐三]

中国の近代化過程とその特質

これらの過程を中国の側からみると、アヘン戦争の結果である南京(ナンキン)条約(1842)、北京(ペキン)条約(1860)、日清修好条約(1895)、義和団事件に伴う北京議定書(1901)などの一連の不平等条約は、いずれも敗戦条約であり、過大な賠償金の支払いや領土の割譲を伴っている。これら列強による侵略が中国を半植民地化させ、また封建制を突き崩して半封建・半植民地社会をつくりだし、これこそ中国における近代にほかならないとされる。

 賠償金の支払いのために外債を発行して外国の金融資本にしだいに従属するとともに、北京条約では関税収入の2割を賠償金の支払いにあてると規定されているため、貿易量の増大とくにアヘンの流入が増加した。さらに1887年にはアヘン釐金(りきん)の制度が導入されて関税収入に寄与した。日清戦争の賠償金は約2億テールで、これは日清両国の財政規模の約4年分以上に上ったため、清朝政府の支払い能力は破産し、外債依存が高まったため列国の金融資本が殺到した。ちなみに、賠償金を得た日本は、これをばねにして産業革命(とくに綿工業)を推進するとともに、金本位制を採用して、経済面での国際競争力をつけることができた。

 1911年の辛亥(しんがい)革命は、中国最後の王朝を倒したものの、政権の変革にとどまり社会変革は伴わず、日本による二十一か条の要求(1915)、日本軍の侵略によって、いっそう半植民地化を進めることになった。ここで国内的には民衆の覚醒(かくせい)、対外的にはロシア革命の影響によって、五・四運動が1919年に起こり、1921年には中国共産党が誕生して、国民党とともに、反封建・反植民地の闘争を展開した。

 中国における近代は、このように独立の喪失・従属・後退・貧困を意味した。五・四運動は、この否定すべき近代に対して、独立・富強・民主を目標として、それも資本主義によらず、社会主義によって、新しい中国を建設しようとする主体形成の出発点となった。この時期以降を中国では現代とよんで近代と区別していたが、1970年代以降、近代と現代を新中国の成立(1949)で区別する考え方が支配的である。

[加藤祐三]

新中国への道

五・四運動は、政治的、思想的に新しいスタートであり、反帝国主義・反封建闘争の具体的プログラムはしだいに明確になった。すなわち、帝国主義と手を組む軍閥を打倒すること、封建制の基礎である土地所有を変革すること(土地改革)である。これを実現するには、議会の立法に依拠できないため、民衆(とくに人口の9割を占める農民)の決起が求められ、農村における武装闘争の形をとった。とくに1927年の国共分裂以後、中国共産党は農村の革命根拠地で土地改革を進め、一方の国民党は都市を中心にして港湾・鉄道・道路の建設を進めるとともに四大家族(蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)・宋子文(そうしぶん/ソンツーウェン)らの姻戚集団)による政治・経済上の独占を強化した。1937年、日本軍の侵略が強化されると、内戦停止・一致抗日のスローガンのもとに第二次国共合作が実現し、中国共産党の指導する八路軍(はちろぐん)が日中戦争の主役となった。

 1945年、日本の敗戦は、中国にとっては惨勝であり、解決すべき課題は山積していた。とくに農民の土地問題と民主的諸権利を解決するための土地改革は必須(ひっす)の課題であったが、これをめぐってふたたび国共内戦となり、解放区を指導する中国共産党と人民解放軍(八路軍を改称)が急速に全国的支持を得て、49年10月1日、中華人民共和国が成立した。五・四運動以来の独立・富強・民主の目標はここに確実な基礎を打ち立てた。

[加藤祐三]

日本

日本近代の時期区分

日本近代は、大まかにいって、次のように時期区分することができる。(1)1853年(嘉永6)~1888年(明治21)、(2)1889年(明治22)~1930年(昭和5)、(3)1931年(昭和6)~1945年(昭和20)、(4)1945年~現在。

[遠山茂樹]

第1期―近代の始期

近代の始期を、幕藩体制が廃止され統一国家が樹立された明治維新に置くことが歴史学界の通説となっている。1853年ペリー来航を契機に開国を余儀なくされ、世界資本主義体制の一環に組み込まれることによって、幕藩体制の解体は決定的となった。すなわち、すでにブルジョア革命・産業革命を経過した欧米先進資本主義国が支配的影響力をもつ国際的条件の圧力によって、封建社会から資本主義社会への移行が決定づけられた。明治維新がブルジョア革命であるか、絶対主義権力の成立であるかは、1920年代以来論争となっている(日本資本主義論争)。この場合ブルジョア革命説をとる立場でも、1877年(明治10)までの維新当時の権力はブルジョア権力ではないが、それへの移行が始まっていると考える。他方、絶対主義成立説をとる場合も、それは16、17世紀西ヨーロッパにみられた古典的絶対主義ではなく、19世紀なかば欧米諸国が産業資本主義全盛期を迎えた世界史の段階に規制された特殊な性格のものと考える。そして地租改正、殖産興業政策、徴兵令、学制等の諸改革によって、欧米諸国に範をとった近代国家の建設に向けての道を開いたとする。いずれの説をとるにせよ、明治維新をもって近代の始期と考えるのは共通している。

[遠山茂樹]

第2期―立憲制と資本主義経済

第1期の後期1880年代初め、憲法制定と議会開設を求める自由民権運動が高揚した。しかし官僚専制の天皇政府の側も議会制度採用を意図し、すでに1875年(明治8)漸次立憲制を敷くとの詔勅を出した。したがって政府と自由民権派との対立の争点は、立憲制採用の原則をめぐってでなく、憲法の内容と議会開設の時期いかんに限られていた。国際的条件の影響が大きい明治維新の特質の現れで、ヨーロッパ絶対主義と議会との関係とは異なっていた。この自由民権運動の弾圧のうえに、89年大日本帝国憲法は欽定(きんてい)憲法として公布された。この憲法は一方で、官僚専制を、不徹底なものにせよ立憲政治の方向に修正した反面、天皇の大権を広範に定め、議会の権限を狭く限り、軍部・官僚の権限を保障し、また議会・政党を通して、地主と資本家を天皇制権力の階級的支柱に編成替えする役割をもった。帝国議会が開かれた1890年代から日露戦争期の1900年代にかけて、資本主義経済が成立し、経済・政治・文化にわたって、近代社会の体制がいちおうつくられた。政府直営の陸海軍工廠(こうしょう)を中心とする軍事産業と、もっぱら輸出を目的とする綿糸紡績業・製糸業における近代的工場生産の成立、大地主のみならず中小地主も、小作人からの多額の現物小作料の取得に依存する寄生地主制が全国的に確立した。この両者は、資本のうえでも、労働力のうえでも不可分に結合していたこと、そして軍国主義に先導され、それに支えられて発展したこと、ここに日本資本主義発達の特色があった。

 軍国主義の早期の形成のうえに日本帝国主義が早熟的に成立したことも、日本近代の特色であった。欧米強国がアジア侵略を強めた帝国主義段階前夜の国際情勢が、1880年代なかば朝鮮支配をめぐっての日本と清(しん)国の対立を増大させた。1894年の日清戦争、1904年の日露戦争は、英・露の対立に代表される全世界的な帝国主義的対立の一環に組み込まれた戦争である。日本は帝国主義国の陣営に加わり、朝鮮・中国への侵略の先兵たる役割をもったとともに、台湾・朝鮮を植民地化し、中国に広範な利権をもつ帝国主義国となった。そして侵略・戦争と軍備拡張は、資本主義経済の急速な発展、その独占資本主義段階への移行のてことなった。1910年代に入ると、藩閥打倒と政党内閣実現を目ざす護憲運動(憲政擁護運動)、財産による選挙権の制限の撤廃を求める普選運動(普通選挙運動)が活発となり、米騒動(1918)を契機に労働運動、農民運動が高まり、朝鮮での独立運動(三・一独立運動)、中国での反日民族運動(五・四運動)が起こった。そのため、天皇制官僚は譲歩を余儀なくされ、24年(大正13)護憲三派内閣が成立し、政党内閣制が慣行として樹立され、男子の普選も実現をみた。こうして大正デモクラシー運動は、天皇制絶対主義権力をブルジョア権力に転化させる一歩を踏み出させたが、憲法の改正には手をつけず、政党と資本家の勢力も、帝国主義政策遂行のため、官僚・軍部との結合関係を強めたから、政治体制の民主化はきわめて不徹底に終わった。この時期、高等教育が拡充され、サラリーマン・職業婦人が増え、新聞・雑誌が普及し、個人主義・自由主義の思想が唱えられた。しかしそうした近代化の進展は都市の上層・中間層に限られ、労働者・農民はそれから取り残されるという偏りは、かえって増大した。

[遠山茂樹]

第3期―戦争とファシズム

1929年(昭和4)の世界恐慌にみまわれた日本資本主義の矛盾は破綻(はたん)情況にまで増大し、国外では中国の民族解放運動の高揚のため日本の権益が危機に陥ると、この難局を強引に打開するための軍事行動を軍部の主導で起こし、31年の満州事変に次いで、37年には日中全面戦争にまで拡大した。天皇制を中核とする権力は、国家機構の基本を変更することなく、むしろそれに支えられて、戦争遂行のためのファシズム権力に転化した(天皇制ファシズム)。イタリア、ドイツのファシズムと異なる特色であった。32年の五・一五事件によって政党内閣は終わりを告げ、軍部が主導権をもつ官僚内閣となった。他方で、資本と労働力を軍需生産に集中させるため、38年国家総動員法を制定し、経済に対する全面的統制を強めたが、この間、国家権力と結合した独占資本の産業支配は一段と進んだ。39年ヨーロッパ戦争が起こると、翌年日独伊三国軍事同盟を締結し、さらにその翌年にはファシズム国の陣営に加わって米・英に宣戦を布告した。しかし42年後半からはアメリカ軍の反攻を受けて戦局は不利となり、原爆の投下、ソ連参戦を期に、45年8月降伏を決定した。

[遠山茂樹]

第4期―占領下から安保体制へ

1945年(昭和20)9月降伏文書に調印し、アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれた。連合国軍は、日本政府を通じての間接統治方式をとり、連合国軍最高司令官の指令により、非軍事化・民主化の諸改革を行わせた。46年11月日本国憲法が公布され、他方、寄生地主制を撤廃する農地改革と、戦争潜在力と目された財閥解体とが実施され、これらの改革によって、天皇制機構が大幅に改変され、日本資本主義の封建的・軍事的性格に対しても改革が加えられた。しかし50年の朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)と米ソ対立とによって、アメリカの対日占領政策が変化し、独占資本の再建、労農運動の規制、再軍備の開始という「逆コース」があらわになった。朝鮮戦争下の51年9月のサンフランシスコ講和会議で、対日平和条約(対日講和条約)と日米安全保障条約が調印され、翌年4月に発効した。これによって、連合国軍の占領下で国家主権を失っていた状態が改められたが、アメリカは引き続き軍隊を駐留する権利を得、このため日本のアメリカに対する政治的・軍事的従属関係は残った。1950年代後半以降、貿易の伸張と技術革新とを軸にした日本経済の発展は進み、アメリカに対する日本の相対的自主性は増したが、政府は積極的に日米安保体制を強め、その下での再軍備を本格化した。ついで73年のオイル・ショックとインフレの異常高進とを契機に経済の高度成長政策も転換を余儀なくされ、公害問題は各地に起こった。


[遠山茂樹]

『高橋幸八郎著『近代社会成立史論』(1980・御茶の水書房)』『I・ウォーラーステイン著、川北稔訳『近代世界システム』全2冊(1981・岩波書店)』『成瀬治著『近代市民社会の成立』(1984・東京大学出版会)』『永井義雄著『イギリス近代社会思想史研究』(1996・未来社)』『ウルリヒ・イム・ホーフ著、成瀬治訳『啓蒙のヨーロッパ』(1998・平凡社)』『チャールズ・テイラー著、渡辺義雄訳『ヘーゲルと近代社会』(2000・岩波書店)』『柴田三千雄著『近代世界と民衆運動』(2001・岩波書店)』『胡縄著、小野信爾・狭間直樹訳『中国近代史』(1974・平凡社)』『加藤祐三著『紀行随想 東洋の近代』(1978・朝日新聞社)』『加藤祐三著『イギリスとアジア』(岩波新書)』『加藤祐三著『現代中国を見る眼』(講談社現代新書)』『小島晋治他訳『中国近代史』全3巻(1981・三省堂)』『小野信爾著『人民中国への道』(講談社現代新書)』『加藤祐三著『黒船前後の世界』(1985・岩波書店)』『加藤祐三著『東アジアの近代』(1985・講談社)』『加藤祐三著『黒船異変』(1988・岩波書店)』『加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(1998・中央公論社)』『遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『日本近代史』Ⅰ~Ⅲ(1975~77・岩波書店)』『正田健一郎著『日本における近代社会の形成』(1995・三嶺書房)』『遠山茂樹著『明治維新』(岩波現代文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「近代社会」の意味・わかりやすい解説

近代社会 (きんだいしゃかい)

一般に近代社会という場合,たんに一つの歴史的時代区分をあらわすだけでなく,人はそこにさまざまな意味合いと価値観をこめる。まずそれは古い封建的社会関係を克服した新しい社会であり,資本主義の巨大な生産力によって担われている。多くの場合,人は西ヨーロッパの歴史的発展のなかにその典型と規準を見いだした。そのかぎりまた近代社会は西ヨーロッパの市民社会と重なりあい,そこではなによりも個人がさまざまな社会的束縛から解放され,自我に目覚めていくことになる。さらにこの近代社会は統一的な政治的国家と対をなし,国民国家の形成と歩みを共にすると同時に,立憲的民主主義をその政治的内容とするのである(立憲主義民主主義)。しかしとりわけ第三世界をふくむ現代世界においては,この近代社会の〈近代性〉がもつ〈負〉の役割もつよく意識されはじめている。そのことを念頭においたうえで,ここではまず,これまでもっとも有力な形で論じられてきた近代社会観について述べることにしよう。

いまふれたように近代社会は封建的社会関係(封建社会封建国家封建制度)の解体のなかから生まれるから,そのかぎりで資本制的なブルジョア社会と同じであり,産業資本をその担い手とするのである。マルクスは《経済学批判》序言の著名な文章で次のように述べている。〈大づかみにいって,アジア的,古代的,封建的,および近代ブルジョア的生産様式を,経済的社会構成体が進歩していく諸時期としてあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は社会的生産過程の最後の敵対的形態である。しかしブルジョア的社会の胎内で発展しつつある生産諸力は,同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがって,この社会構成体をもって人類社会の前史は終わる〉。ここでは人類社会の歴史全体が継起的展開のなかでとらえられ,ブルジョア社会はその一つの発展段階であるが,しかしその社会はまた人間の歴史の矛盾が極限化し全面化した社会であって,この社会が終わったところで歴史は180度意味転換し,人間の〈真の歴史〉が始まるというのである。したがってマルクスの目からすれば,ブルジョア社会すなわち近代社会のなかには歴史の矛盾と敵対が全面的に表現されている。しかし人類が真の歴史へと自己展開していくためには,この〈前史〉は必然的に通過しなければならぬ段階である。近代社会はその負をふくめて必然的道筋である。この道筋は西ヨーロッパのなかで内的必然性をもって展開する。しかし,それが〈世界史〉に妥当する普遍性をもつかどうかは,問題である。現にロシアにおけるマルクスの同時代人たち(たとえばチェルヌイシェフスキー)は,ブルジョア社会を経験せず,資本制社会をとびこえた発展のかなたに,ロシアの未来をみたのである。

 このようにブルジョア社会は,西ヨーロッパとアメリカのなかでいちじるしい発展をみるが,いずれにしてもその近代性が巨大な生産力によって裏打ちされていたことはたしかである。そしてその発展は西ヨーロッパのなかでもイギリスにおいてもっとも典型的であったから,さしあたりイギリスを中心に考察することが必要である。ここで発展が典型的であるというのは,産業資本の基軸的担い手が前期的資本のなかから出てきた中国や日本の場合と異なって,西ヨーロッパ(とりわけイギリス)ではそれが〈下から〉,つまり生産者としての農民層から出てきたからである。イギリスでは農奴制は14世紀には事実上なくなり,15世紀には封建的土地所有は分解して,人口のかなりの部分は自分たちの小さな自由保有地をもつ独立自営農民(とりわけヨーマン)から成っていた。多くの場合ヨーマン(農民上層)とジェントルマン(小地主層)は,毛織物工業の展開のなかで織元を兼ね,これら半農半工の中産的生産者層は新たな生産力の担い手として〈民富Volksreichtum〉を生み出し,やがてこの富に基づいて産業資本(マニュファクチュア)の出発点を形成しはじめた。生産者が中世の自然経済やギルドに対抗して近代的な資本家に上昇していくためには,それに見合うだけの生産力の裏づけをもたねばならず,貨幣形態をとった富の蓄積を前提とするから,彼ら独立自営農民による民富の形成が近代化の出発点であった。つまり彼らこそイギリス近代社会を生み出す主体であった(この考え方の代表は大塚久雄で,それは戦後日本の近代化のコースを考える場合に大きな意味をもった)。

 しかし農民層が近代的生産力の担い手となるためには,自分たちの胎内から産業ブルジョアジープロレタリアートの両層を生み出すことが必要である。すなわち彼らの階層分化が必然的となる。資本制的社会を創り出していくためには,労働者を自分の労働条件の所有から分離する過程,すなわち一方では社会の生活手段と生産手段を資本に転化させ,他方で直接生産者を賃金労働者(賃労働)に転化させる過程が必要である。つまり生産者と生産手段を歴史的に分離する〈本源的蓄積(原始的蓄積)〉の歩みが必要であった。15世紀の最後の3分の1から16世紀前半にかけて遂行されたこの過程が資本の前史であった。封建貴族は羊毛マニュファクチュアに刺激されて,土地に対して権利をもっていた農民をその土地から暴力的に追い出し,さらに農民の共有地を横領して,巨大なプロレタリアートをつくりだした。この過程を土台にしながらイギリスでは,16世紀後半から18世紀中ごろにかけて資本制的生産様式としてのマニュファクチュアが成立し,さらに17世紀には多分に早熟的な市民革命が遂行される。しかしマルクスによれば上述の強行的過程が進行するなかで,1750年にはヨーマンはほとんど消滅してしまう。農民から土地を取り上げる大がかりな収奪過程は土地の〈クリーニング〉として進行し,農民は階層分解してその大きな部分は近代的なプロレタリアートとなる。他面では,先に述べたように,半農半工の中産的生産者層のなかから,産業革命の過程を経て,工場主が,つまり産業資本家が生まれるのである。

 これが近代社会を生み出すための古典的な道であるが,同じヨーロッパのなかでもフランスやドイツ(とりわけプロイセン)の近代化コースはそれぞれに異なる。いずれの場合も前期的資本が問屋制度の支配網をとおして小生産者を自己の支配下におきつつ,生産過程を直接掌握する点でイギリスと異なる。フランスのアンシャン・レジームの場合,前期的商人層から特権的マニュファクチュアがあらわれ,いわゆる〈大工業〉に展開するが,その発展は絶対主義的封建勢力と結びつきながら行われたものであり,古い封建的生産様式を保存することが自己の存立の前提であった。しかしそこからも独立自営農民の産業資本家への転化の道が準備され,絶対王権に対する彼らの闘争は1789年以降のブルジョア革命(フランス革命)をとおして完成する。他方,プロイセンの近代化はイギリスやフランスと比べて純粋な展開ではなく,16世紀に成立したグーツヘルシャフトを歴史的前提としていた。それは比較的自由な農民をふたたび封建的束縛のなかにおき,その地代を賦役に転化させ,彼らを〈再版農奴制〉のなかに再編したものであった。1808年以降ここでも農民解放が進むが,しかし〈グーツヘル(領主)〉は自己の農業経営を資本制化し,農民を半封建的な賃金労働者へ転化させ,そのことによって近代化の道を歩む。こうしてプロイセンでは封建的地主経営が同時に近代的な資本制生産であり,しばしば領主と資本家が同一人格であるというユンカー経営が成立した。中産的生産者が資本家へ転化する道はここには準備されていない。

以上述べたような観点に立てば,近代社会というのは封建的中世のあとに継起する歴史の一発展段階というだけでなく,しばしばそれは後進性を克服するための一つの理念目標であり,西ヨーロッパ市民社会を範とする思想化されたモデルである。その場合イギリスがもっとも古典的で完成された近代化のモデルであるとすれば,ドイツの発展は未熟で跛行的である。そこでは封建的諸要素と近代的諸要素とが雑居し,その社会は前にも進めず後にも退けない閉塞状況に陥っている。マルクスとエンゲルスはこのドイツの現状を〈ドイツ的みじめさ〉と呼んだ。それはドイツの資本主義の発達の特殊性を意味するとともに,ドイツの未熟な市民性をあらわし,近代社会としてのドイツの未完成を指していた。それは同時に西ヨーロッパ的市民社会の成熟度をはかる言葉であったともいえる。

 西ヨーロッパの社会思想史においては,国家と市民社会とはしばしば統一的にとらえられてきたのだが,19世紀にはいって近代社会が問題になるにいたると,政治国家と市民社会という二つの概念は分離する。市民社会のなかで個人は私人としてもっぱら自分の私的利益を追求し,他人をそのための手段とみなすから,ヘーゲルの言葉をかりれば市民社会は〈欲求の体系〉である。他方マルクスによれば,普遍者としての国家は,私的所有や職業などによる市民的区別を形式的に廃止するが,しかし事実上はこの区別を廃止するどころか,むしろ自身の存在要件としている。したがって近代社会のなかで人間は二重生活を営んでいる。政治国家の一員としては人間は共同的存在であり,市民社会の成員としては分裂的私人である。マルクスは人間のこの二つのあり方の統合のなかに人間の解放をみるのである。すなわち現実の個別的な人間が〈個別的人間のままでありながら類的存在となったときはじめて,つまり人間が自分の“固有の力”を社会的な力として認識したときはじめて,人間的解放は完成されたことになる〉。マルクスは,個人の私的利益追求がそのまま共同体の利益となり,個人の才能や欲望をのばすことが共同体の利益に反するどころか,むしろその実現につながるという展望のなかに,近代を超克する道をみたのである。

 個人と共同体を相関的にとらえるこの考え方は,ひとりマルクスにとどまらず,西ヨーロッパ近代社会観の特質の一つであった。たとえば17世紀合理主義を代表するライプニッツがそうである。その形而上学の世界では,原初的な霊魂単位であるモナドは,それぞれ固有の力をもつことで個性的であり,その衝動,本能,意志は独立しているのに,またその運動はまったく自由であるのに,宇宙全体の連続的系列のなかに調和的に位置づけられることになる。神の〈見えざる手〉に関するアダム・スミスの考え方も同じである。この啓蒙期の思想では,各人が利己心に基づいて自分の利益または幸福を追求すれば,それがおのずから社会の公益と一致すると考えられたのである。あるいは19世紀にはいってヘーゲルの〈理性の狡智(こうち)〉という発想も,考え方の骨格において同じである。そこでは,実存的個物がたがいに矛盾し,衝突して,身を滅ぼしていくことが,全体的には普遍的理念を現実化する道につながる,と考えられる。以上の考え方が示すように,個人が全体によって押しつぶされ奴隷化されるのではなく,むしろ個人があくまで個人としての自分をつらぬき,自分の個性や才能を自由に発揮することこそが,共同社会の利益につながるという発想は,西ヨーロッパの伝統的市民社会観の根底を流れており,それが近代社会の人間観を支えるのである。

 しかし機械技術が高度化した近代社会の現実においては,個人の利害関心と共同体の目標は一致していない。たとえばマルクスは資本制的(商品生産)社会においては物と物の関係が人間を支配し,そこから人間の普遍的疎外が生じ,目的と手段が転倒すると考える。M.ウェーバーもまた,近代資本主義においては目的に対する手段の合理性が貫徹するが,やがて目的と手段は転倒し,合理が非合理に転化すると考える。この合理性は政治的には官僚制的専門化の形式をとる。そして官僚制的支配は現代社会が抱えるもっとも深刻な問題の一つとなる。だがウェーバーの考えによれば,個人はその合理的強制のただなかにあるにもかかわらず,というよりまさにそうした合理性の支配のなかにあるからこそ,みずから責任を負う自立した人間として内面的に自由をまっとうするのである。こうした自由論も近代社会における人間観の特質である。

 こうして近代社会の特徴の一つは,個人が自分の才能や意志や思想に忠実に生き,そのかぎり近代的自我を確立するということである。歴史をさかのぼってみればみるほど,個人はなお自立せず,自然的なあり方で,家族と一体化しており,また共同体のなかに吸収されている。市民社会になってはじめて,さまざまな社会的関係が外的で客観的な必然性として個人に対立してくる。個人はここではじめて家や共同体の束縛や強制から離れて,自分を自由な存在として自覚するようになる。カリスマは否定され,宗教は個人の自由な内面の問題とされる(政教分離)。この近代社会の思想潮流のなかでさまざまな解放思想が生まれる。女性解放などもその一つである。

 こうして近代社会は人間をまだ解放しはしないけれども,個人的自我意識の確立をとおして解放を準備するのであり,またそれ自体社会的な対立や矛盾をますます激化させるにしても,巨大な生産力の展開をとおしていつか矛盾を解消するという展望を打ち出すことができる。市民(ブルジョア)と国家公民(シトアイヤン)の対立のように,ここではなお個人の私的関心と類の普遍的利益とは一致せず,むしろ人間の疎外が全面化するけれども,しかしこの近代市民社会をとおして人類の歴史的展望がひらけるというのである。これは一つの近代史観である。

西ヨーロッパ的近代社会の観点からして,それと対照的なモデルを構成するのがアジア的社会である。ここで〈アジア的〉といわれる場合,地理的に特定されたアジアを指しているのではなく,むしろそれはたんに非西欧を意味するモデル社会にすぎない。西ヨーロッパ社会で〈オリエント的〉とか〈スラブ的〉といわれる場合も同様である。そこでは人間の生活がまだ自然と一体化していて,人間が自然の束縛や制限から脱け出せないでおり,個人は人格として独立し,自覚するにいたっておらず,専制君主のもとで,またその官僚制のもとで奴隷として過ごしているか,家父長制的共同体のなかで没個性的に暮らすか,である。そこでは手工業をふくむ再生産構造は自足的であるが,まったく停滞的で発展がない,というのである。これに反して西ヨーロッパ的社会というのはこの〈普遍的奴隷制〉と正反対の構造である。それは,個人の人間的自覚をエネルギー源とした生産諸力の進歩に裏打ちされて,市民社会の文化をとおして,また中産階級を担い手として生まれてくる。ロシアに中産階級はないというヘーゲルの法哲学における評言も,意味するところは同じである。

 近代的観点からみれば,このアジア的ないしオリエント的なモデル社会も閉塞的であり停滞的であるから,それは歴史をもたない社会である。そこでは人々は自由や理性には縁がなく,深海の底に生きる魚のように無自覚のまま自然にとりこまれている。意志をもつのは専制君主だけで,残余の者はすべて不感症の奴隷として支配されている。それに反して西ヨーロッパに範例をもつ近代社会においては,その成員は人間的自覚に基づき,人間的類の実現を目ざして創造的に労働する。個人があくまでも個人であることを失わず,しかも個人であることによって同時に類的かつ共同的なものを追求しようという社会構造をもつのである。すでに述べたように,この近代化コースはブルジョア的発展の道であり,資本制的な世界市場の展開と軌を一にしている。そしてこの近代的発展と歩みを共にすることができない民族は〈歴史なき民族〉(エンゲルス)といわれるのである。

 近代社会が西ヨーロッパ市民社会に古典的範例を求めながら資本制的発展のうえに成立するとすれば,それはまた,少なくとも歴史の過渡的歩みのなかでは,統一的な国内市場や統合された国民経済を背景にもつことになるだろうし,統一言語や国民文学を創り出し,国民的基盤での軍隊を生み,そして政治的には国民国家(民族国家ともいう)を一つの枠組みとしてもつことになろう。エンゲルスは1884年に書かれた手稿のなかで,中世初期における諸部族Volkの混合のなかからしだいに新しい民族体Nationalitätが発展してきたこと,また言語群の境界がひとたび画されるようになると,民族体が近代化し,やがて民族Nationに発展することを指摘した。ここでは,部族-民族体-近代的民族体-民族が近代社会に向かう歴史的展開として図式的にとらえられた。ここで民族は,文化的伝統,言語,慣習,風俗などで固有性をもつものとしてだけでなく,資本制的近代社会に対応する概念としてとらえられている。したがって,またここに成立した〈民族〉はあくまでも近代的存在として民族国家に対応するのである。だが民族が近代的・資本制的発展と重なりあうなかではじめて成立するのだとすれば,多民族国家内に共存する民族体はもはや民族ではありえず,自分たちの近代社会をもちえない存在となる。多民族国家のなかで,ある特定の民族が自己を民族として主張し,その国家を自分たちの民族国家たらしめようとすれば,そこでの他の諸民族はそれに従属する以外になく,結局,非近代的な民族体にとどまることになろう。ここでは民族体と民族は,エンゲルスのいうような歴史的発展の関係ではなく,国家権力を媒介にした支配と従属の関係である。19世紀ヨーロッパ史が実例をもって示したように,近代社会は,民族国家と重ねあわされるかぎり,ここでも多くの矛盾を内包したのである。

 後進国ないし発展途上国においては,近代化は避けてとおることのできない問題である。しかし,近代社会の西ヨーロッパ的モデルをそれらの諸国に外から機械的に適用しても,それら諸国に内在する問題の解決にはなんら役立たない。その意味で西ヨーロッパの発展は普遍的な規準ではないのである。そればかりでなく,最近では人間社会にとっての近代化の有効性についてさまざまな疑義が提示されるようになった。そもそも資本制的近代化の歩みは生産者の意識的活動によって自然の制限を取り除き,同時に生産力を高めるはずのものであったが,いまや生産力の上昇は自然的資源のかぎりない収奪と破壊に向けられ,計り知れぬほどのマイナス効果を生み出している。近代社会を生むことが人間社会の前進につながるという素朴な楽天主義は消え,さまざまな意味での近代の見直しが課題となっている。
近代化 →近代主義
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日本は,ペリー艦隊の砲艦外交の前に,いやおうなく資本主義世界の内にとりこまれた。そのため嘉永癸丑(1853)の衝撃は,のちに王政復古を生み出した原点として意識された。ここに〈徳川日本〉は,欧米の軍事・経済的圧力の下に,幕藩的割拠体制にかわる新しい民族的結集をはからねばならなかった。〈御一新〉をめざす諸運動は,民族精神の結集による新国家の樹立により,圧倒的に優勢な欧米の力に対抗しようとしたものにほかならない。そこでは,軍事・経済的に劣るだけで,日本が外国と異なり民族的に優越しているという主張が唯一の精神的なよりどころと意識された。こうした民族精神の確認は,諸外国が易姓革命・王位奪という〈血にまみれた〉歴史でいろどられているのに対し,日本のみが〈万世一系の皇統〉をもつ〈皇国〉であるという国体神話に求められ,日本的選民意識ともいうべきものを形成した。いわば日本は,天皇を国土一体の惣天子で万国の総帝とみなし,万国の祖国・君上国たる〈皇国〉である世界の大帝国と位置づけられた。この民族神話こそは,倒幕運動を支えた志士のよりどころであり,藩割拠的な意識を天皇を中心とする民族精神に結集せしめたものにほかならない。

 薩長討幕派を主勢力とする維新政府は,〈王政復古〉〈万機親裁〉をかかげ,天皇が国家の根軸であり,権力の主体であることを強く主張することで国家の基盤をかためようとした。そのため戊辰戦争においては大坂行幸,東京行幸で天皇〈親征〉の実を示し,国家形成期においては親政の実現を目ざした。親政は,西南戦争ごろまで天皇が祭主的性格をおびて〈親臨〉するという統治形態であったが,天皇が少年から青年へ成長するのをふまえ,〈有司専制〉批判に対処するうえからも政治の場に深くかかわるべきだとする親裁論として展開された。しかし親裁論は,侍補の廃止,明治14年の政変(1881),皇室財産の設定建議等をうけ,伊藤博文らが主張する〈事ヲ統テ事ヲ執ラス〉という〈親統論〉の前にしりぞけられた。ここに伊藤ら国家指導者は,政府と一体である天皇を政治の支柱とする国家構想を,国体神話で潤色することで大日本帝国憲法として発布した。かくて近代日本の国家は,国体神話による〈神聖天皇〉を頭首にいただきながらも,天皇を〈事ヲ統テ事ヲ執ラス〉と権力を運用する機関とみなすことで機構として成立せしめられた。

政府は,〈開国和親〉〈富国強兵〉をかかげ,欧米列強の軍事・経済力に比肩しうるだけの〈文明国〉たることを課題とした。このことは,欧米近代国家の諸制度を積極的にとりこみ,日本の文明化・近代化をはかることにほかならない。近代化は,政治・経済機構のみならず,軍事・教育制度から,日常生活における文化様式にいたるまで欧米的規範と制度の主体的導入によってはかろうとした。その一端は,違式詿違(いしきかいい)条例によって〈軒外ヘ木石炭薪等積置ク者〉〈新規ニ板葺ノ家作スル者〉〈汲除ノ者蓋ナキ糞桶ヲ用ヒ或ハ蓋ヲ疎漏ニシテ運搬スル者〉などを取り締まったように,民衆の生活実態を無視した強権的な文明化として展開された。そのため民俗的慣行は〈蛮風〉とみなされ,〈裸寒参り〉のみならず諸祭礼をはじめ,盆踊や田植行事から遍路,門付芸等々にいたるまで,民衆のまつりと遊びが規制された。天皇は,このような文明化政策の体現者として,牛乳を飲み肉を食い洋服を着用する〈啓蒙専制君主〉として広く喧伝され,〈開化の天皇〉たる一面を強調した。かつ〈一君万民〉論に基づき,天皇を国民の父母となし,日常的な生活の場で慈父たる天皇が確認されるような制度的保障をした。

 1873年の〈年中祭日祝日等ノ休暇〉は,旧来の五節句祝い(人日,上巳,端午,七夕,重陽)を否定し,神武天皇の即位日たる紀元節(2月11日)と天皇誕生日たる天長節(11月3日)を中心に古代以来の宮廷儀礼の復活という体裁をとりつつ,まったく新たに国家の祝祭日を決定したものにほかならない。それらは,王室の誕生が国家の創設であるヨーロッパ君主国の国家儀礼の様式に学んだものだけに,民衆の日常的な生活感覚と慣行になじまなかった。ちなみに国家祝祭日を理解しえたのは,在日外国人とともに,〈文明の宗教〉としてのキリスト教を説く教会であった。それだけに民衆は,祝祭日を世間の人の心にもない日を祝わせようとする日とみなし,政府が〈赤丸を売る看板の如き幟や提灯を出さする日〉かとも揶揄(やゆ)した。そのため政府は91年の小学校祝日大祭日儀式規程で小学校教育のなかに祝祭日儀式を位置づけて強要するとともに,教科書等で〈天長節〉等に関する意義を説かねばならなかった。1900年の金港堂版《国語読本》は,《天長節》と題し,家の床の間に〈天皇陛下〉という軸をかけ,菊花をいけ,その前で家の主人が一家をひきつれて礼拝している図をかかげ,〈今日ハ,天長節トイッテ,今ノ天子様ノ御生マレアソバシタ日デアルカラ,一家コゾッテ,御祝ヲ申上ゲテ居ル〉と説明している。また〈日本国〉なる課では,〈たふとき天皇ましまして,民をみること子のごとし〉と〈天皇の国〉たることを説き,天皇に帰一する国家意識の育成をはかろうとした。こうした教育こそは,国家祝祭日を国旗を出さねばならない日とみなして〈ハタ日〉と称し,日常生活の折り目をなす固有なる祝祭日を〈ハレ日〉とする感覚を生じた。このハタ日とハレ日という二重感覚こそは,ヨーロッパ君主国にならうことで〈文明の国〉たらんとした政府の施策に対し,民衆の日常生活を場とした秩序感覚を具体的に示したものにほかならない。

政府の文明化政策は,天皇の存在や恩愛すら理解しない〈頑愚なる人民〉に対し,仁愛を及ぼす啓蒙と意識されていた。権力の行使は,〈一国は一家なり,政府は父母なり,人民は子なり,警察は其保傅なり〉(川路利良《警察手眼》)との言が述べるように,いまだ開化に浴さぬ〈幼者〉に対する保育にほかならない。それだけに国家は,民衆の〈撫育教導〉を天皇の名による権力の貫徹としてはかり,頑愚未開な民衆を開化させるという使命観で支配した。このことは,学校教育における〈天皇の国〉意識の涵養(かんよう)のみならず,組織的な集団行動の体得,地域言語としての方言にかわる〈標準語〉という〈国語〉学習の強化等々として展開された。学校体育と運動会や遠足は集団行動の訓練場であった。また1900年の義務教育4年制を銘記した改正小学校令による小学校校則は,〈初ハ発音ヲ正シ,仮名ノ読ミ方,書キ方,綴リ方ヲ知ラシメ〉と,〈標準語〉教育を第一課題としていた。それは下士卒の国語力向上が〈国軍〉としての軍隊の統一と質的向上に欠かせなかったことによる。こうした〈文明〉の名による集権化こそは,藩割拠的な〈クニ〉意識を打破し,天皇につらなる国家意識を確立するうえでの急務であった。しかし民衆の意識は,いかに〈頑愚未開〉といわれようとも,五節句等を軸にした生活を守り,方言的秩序において暮らしていた。しかし一方では,維新当初に〈御触御布告はみなチンプン漢語の四角張ったる文字となり〉と揶揄した民衆の言語感覚をして,日露戦争後になると,〈漢語〉による行政文書の用語が話しことばとして利用され,村長や学校教師らが一般に使用することでお役所ことばを〈標準語〉とする言語感覚が育てられてきたという。

 このことは,ハタ日たる国家祝祭日が〈天長節大運動会〉というような村落行事として認知され,あらためて位置づけなおされる動きと共通する心意に支えられていた。それは,日露戦争の勝利意識をふまえ,ムラ意識による〈クニ〉にかわり,〈天皇の国〉たる〈大帝国〉の国民という自覚を促すことで〈国家〉意識がはぐくまれたことともかかわっていよう。こうした〈大帝国〉という観念は,〈一等国〉意識を強調することで,生活習俗の改良をめざす〈村落更生〉運動においてとくに強調された。しかし民衆生活は,昭和恐慌下の〈農山漁村経済更生運動〉においても,習俗改良があらためて強調されたように,ムラの暮しとして根強く〈文明の政府〉に対峙しつづけた。それだけに日本の近代社会は〈文明の政府〉が展開する政治と民衆生活に根ざした民俗的伝統が生み出す慣習的秩序との相克に悩まされた。いわば〈天皇の国〉は,ヨーロッパの君主制に基づく〈文明の統治〉として政治を展開しながらも,国家と民衆の亀裂を内包しているがために,国家的危機において常に〈国体神話〉による天皇信仰を強調せねばならなかった。その一端は,日露戦争後の国軍が物質的威力に勝る精神力の優位を説き,やがて昭和初頭に軍隊の大衆化に対して〈必勝の信念〉を支えるものとして〈天皇信仰〉の発露を力説し,15年戦争下で〈天皇親率〉の〈皇軍〉意識を強調しなくてはならなくなった軍隊の姿にもうかがえよう。

 このことは,〈事ヲ統テ事ヲ執ラス〉という天皇の名による政治が行きづまったとき,国体神話による天皇イデオロギーをあらわとするしか民族的結集がはかれなかったことと共通する世界にほかならない。まさに日本の近代社会は,危機における民族結集の場を国体神話が生み出す天皇信仰ではかりつつ,〈文明の政府〉として西欧君主国における統治形態にならい制度機構を整備したのだった。こうした国家の権力支配がもつ〈開明性〉は,民衆の日常的な生活文化と鋭く対峙する存在であった。それだけに国家は,社会的危機にさいし,民衆の慣習的秩序が生み出す世界に国体神話を架橋することによって,民族的一体感を築こうとした。そのため国家は,昭和期の国体明徴問題のような〈天皇信仰〉の宣揚による精神主義の前に制度的機構的な支配の原則すら失うこともあった。このような二元的構造こそは,近代日本の社会秩序を性格づけたものといえよう。
天皇 →天皇制
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「近代社会」の意味・わかりやすい解説

近代社会
きんだいしゃかい
modern society

近代社会という概念は,多くの論者によって,さまざまに使用されてきた。理念的に純化させた場合には,近代社会とは,能動主義と個人主義の2つの態度によって定義できるような社会であるということができる。能動主義とは,外部の世界 (とりわけ自然的世界) に対して超越し,外部の世界を制御することを肯定する態度である。このような制御は,自覚的な選択的実践として現れるので,必然的に,高度な手段的合理主義 (未来に措定された目標に対する有効性によって現在の行為を評価しようとする態度) を伴っている。また個人主義とは,価値評価に際して,集合体よりも個人 (単一の意志が帰属する身体) を準拠にする態度である。近代社会の条件である能動主義と個人主義は,経済の面では産業化,政治の面では民主主義,価値観の面では自由や平等の理念と,それぞれ適合的であった。典型的な近代社会は,19世紀の西欧に登場した。しかし,その後,なにがしかの程度において近代的であると言いうる社会が,非西欧世界の中にも現れた。非西欧世界の近代的な社会は,ここで定義したような純粋な近代社会がもたらした諸帰結の複合の中から1つのアスペクト (通常は産業化) に着眼して,「近代的」であると認定される。しかし,産業化のような1つのアスペクトにのみ着眼するならば,これをもたらしうる条件は必ずしも能動主義と個人主義の組み合わせに限られるわけではないので,非西欧的な近代的諸社会は,社会の基本的な構造や編成に関して,西欧的なもともとの近代社会と相当な偏差を含むのが普通である。

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世界大百科事典(旧版)内の近代社会の言及

【私有財産制】より

…財産とは人間によって支配される外的物資であり,この支配が排他的に個人に属するような社会制度を,一般に私有財産制という。なんらかの形での私有財産は人間社会の歴史とともに古いが,とりわけそれが経済社会の中枢を占める制度として確立したのは近代社会であり,それゆえ私有財産制をより特定化してみれば,近代社会の市場経済体制(資本主義体制)を支える法的,制度的基礎である,ということができる。近代社会では私有財産は法的に保護されるに至る。…

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