パウルス(読み)ぱうるす(英語表記)Paulus Ⅲ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パウルス」の意味・わかりやすい解説

パウルス(3世)
ぱうるす
Paulus Ⅲ
(1468―1549)

ローマ教皇(在位1534~1549)。俗名アレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese。1534年にイギリス王ヘンリー8世を破門した。またいわゆる改革教皇の一人として、まず教皇庁内部組織を刷新し、新しい部門として異端審問所Inquisitioを設け、また枢機卿(すうききょう)会を充実させた。しかし彼の最大の功績は、長年待望されていた公会議の開催を実現したことにある。招集の宣言は1535年に行われたが、ドイツとフランス双方からの干渉で、最初の予定地マントバでの開催は延期され、1545年12月13日、イタリアとの国境に近いトリエント(トレント)において開催された。この有名な公会議は、四囲の状況により3期に分けられたが、彼はその第一期(1545~1547)を指導し、カトリックの伝統的教義の確認、修道院の刷新を決議させた。また、ミケランジェロの援助者としても知られている。

[磯見辰典 2017年12月12日]

『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史 第5巻』(1981/新装版・1991・講談社/改訂版・平凡社ライブラリー)』『P・G・マックスウェル・スチュアート著、高橋正男監修、月森左知・菅沼裕乃訳『ローマ教皇歴代誌』(1999・創元社)』『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』


パウルス(6世)
ぱうるす
Paulus Ⅵ
(1897―1978)

ローマ教皇(在位1963~1978)。パウロ6世ともいう。本名モンティーニGiovanni Battista Montini。イタリア人。1920年に司祭に叙階、ローマでの勉学を終えて法王庁に勤務した。1952年から1954年までバチカン市国国務長官、1954年ミラノの大司教、ついで1958年枢機卿(すうききょう)を歴任し、1963年ヨハネス23世の後を継いで教皇に選出された。パウルスは社会、政治、外交に関して進歩的な態度をとり、1967年第三世界の発展のため回勅「諸国民の進歩」Progressio populorumを発布した。神学の面では伝統的と評価されたが、カトリック教会にとり20世紀最大のできごとであった第二バチカン公会議(1962~1965)を成功裏に終結させ、教会刷新の方向を打ち出し、その教令を公布させた。また1965年、ローマ教皇として初めてニューヨークの国連本部を訪問した。

[越前喜六 2017年12月12日]


パウルス(Julius Paulus)
ぱうるす
Julius Paulus

2世紀終わりから3世紀初めのローマの法学者。生没年不詳。ウルピアヌスとともにカラカラ帝の顧問会の一員となり、最高の官職である近衛(このえ)都督praefectus praetcerioとして活躍し、古典法学の最後を飾った。精緻(せいち)な理論を展開した古典盛期の法学者たちの学説を集大成し、『解答録』Responsa、『質疑録』Quaestiones、『法学提要Institutiones、『サビーヌス注解』Ad Sabinum、『告示注解』Ad Edictum、『法範』Regulaeなど80を超える著作を残している。彼の手法はどちらかと言えば批判的傾向が強いといわれる。彼のものとされる『断案録』Sententiaeは数種伝えられ、法の卑俗化研究の重要な史料となっている。

[佐藤篤士]


パウルス(Friedrich von Paulus)
ぱうるす
Friedrich von Paulus
(1890―1957)

ドイツの軍人。1910年ドイツ陸軍入りして以来、ナチ時代に至るまで一貫して軍職にあった。1942年1月東部戦線第六軍司令官に任命され、スターリングラード攻防戦の指揮をとった。同年11月、指揮下の約25万のドイツ軍がソ連軍に包囲され、ヒトラーの死守厳命にもかかわらず翌1943年2月、9万の将兵とともに降伏を余儀なくされ、捕虜となった。抑留後旧ソ連領内で「自由ドイツ国民委員会」の創設に参加。1953年帰国。旧東ドイツドレスデンで余生を送った。

[藤村瞬一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パウルス」の意味・わかりやすい解説

パウルス
Paullus, Lucius Aemilius

古代ローマの政治家 M.レピドゥスの兄。アエミリウス・パウルスとも呼ばれる。前 63年 L.カチリナの陰謀を告発したが,前 59年にはポンペイウス (大ポンペイウス) の殺害を企てたとの不当な告発を受けた。前 55年高級按察官 (アエディリス ) としてバシリカ・アエミリアの再建に着手,前 53年法務官 (プラエトル ) ,前 50年執政官 (コンスル ) となった。一貫して閥族派 (オプチマテス ) であったが,バシリカ建設に必要な 1500タレントのためユリウス・カエサルに買収され,前 50年彼に消極的な支持を与え,続く内乱の間中立を保った。しかしムチナの戦いの間,彼は元老院のためにセクスツス・ポンペイウスと折衝し,のちに弟レピドゥスを公敵と宣言することに加わった。その後 M.ブルーツスとともにアシアに行き,前 42年のフィリッピの戦い後,赦免されたが,ミレトスにとどまった。

パウルス
Paulus, Friedrich

[生]1890.9.23. ヘッセブライテナウ
[没]1957.2.1. ドレスデン
ドイツの陸軍軍人。第2次世界大戦中の 1940~42年まで作戦部長をつとめたうえ,南ロシアを攻略する第6軍司令官となった。スターリングラード (現ボルゴグラード) でソ連軍に包囲され,ヒトラーは,籠城戦を督励するため陸軍元帥の称号を授与したが,43年1月 31日に力尽きて降伏。捕虜となってから反ナチスの宣伝に加わり,戦後,東ドイツに住んだ。 (→スターリングラードの戦い )  

パウルス
Paulus, Iulianus

3世紀の前半に活躍したローマの法学者。セプティミウス・セウェルス帝およびカラカラ帝の顧問官を歴任し,アレキサンデル・セウェルス帝の治世に副皇帝ともいうべき近衛長官となった。多作家で,70種類,約 320巻に上る著作を残した。彼の学風は前代の学者の業績を百科全書的に総合し,集大成した点に特徴がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「パウルス」の意味・わかりやすい解説

パウルス
Julius Paulus

ローマ法古典期(元首政期)晩期の,ウルピアヌスとほぼ同時代の代表的法学者。その出身,生没年は不詳であるが,セプティミウス・セウェルス帝およびカラカラ帝の顧問会に列したことが知られ,アレクサンデル・セウェルス帝のもとで近衛長官を務めたといわれる。それまでのローマ法学の膨大な内容を集大成した《永久告示注解》80巻,《サビヌス注解》16巻のほか,具体的事案を論じた《質疑録》26巻,《解答録》23巻などの著作があり,ユスティニアヌス帝の〈学説彙纂(いさん)〉においては,ウルピアヌスに次いでその著作からの引用が多い。
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百科事典マイペディア 「パウルス」の意味・わかりやすい解説

パウルス[6世]【パウルス】

ローマ教皇(在位1963年―1978年)。ミラノ大司教,枢機卿などを歴任。前教皇ヨハネス23世の事業を継承,第2バチカン公会議を主宰,平和主義を唱えて東西教会合同にも努力した。
→関連項目禁書目録

パウルス[3世]【パウルス】

ローマ教皇(在位1534年―1549年)。1538年英国王ヘンリー8世を破門,反宗教改革にのり出してイエズス会認可,トリエント公会議召集などの業績をあげ,神聖ローマ皇帝カール5世を援助した。また芸術を愛好し,ミケランジェロにシスティナ礼拝堂の壁画を描かせた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パウルス」の解説

パウルス(3世)
Paulus Ⅲ

1468〜1549
ローマ教皇(在位1534〜49)
反宗教改革の推進者で,イングランド王ヘンリ8世を破門し,ドイツの新教徒に対するカール5世の弾圧を援助した。またイタリアに宗教裁判所を設け,1545年にはトリエント公会議を召集して異端を禁圧。ミケランジェロの保護者としても知られる。

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世界大百科事典(旧版)内のパウルスの言及

【教皇】より

…ルネサンスの栄華を楽しむレオ10世(1513‐21)の在位中,西欧キリスト教世界は宗教改革による信仰分裂の状況を迎え,教皇職の地位は沈んでしまった。
[近代の諸教皇]
 苦悩と希望の中でパウルス3世PaulusIII(1534‐49)は新時代を直視してトリエント公会議を招集した。公会議後の諸教皇には人間的欠点が見られるとしても,教会の最高牧者にふさわしくない教皇は一人もいない。…

【サン・ピエトロ大聖堂】より

…ブラマンテは,教皇ユリウス2世の依頼で,四隅に塔,中央に半球単殻ドームをもつギリシア十字形平面の設計案を用意し,その没後はラファエロ,A.daサンガロ(イル・ジョバネ)が建設主任となった。しかし,工事は設計変更や補強の繰返し,ローマ劫掠などによって進せず,1547年教皇パウルス3世(在位1534‐49)はミケランジェロを主任建築家に任命して竣工をめざした。彼は前任者サンガロの煩瑣な計画を排して純化された中央交差部の量塊感を強め,同時に東腕部をわずかに延長して集中・バシリカ両形式の融合をはかった。…

【パルマ】より

…スタンダールの小説《パルムの僧院》で知られるパルマは,ローマの植民都市として発達し,12,13世紀には自由都市であったが,ミラノのビスコンティ家の領地を経て,1513年教皇領となる。45年,ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世は息子のピエル・ルイジに,ピアチェンツァとともにパルマ公国として与えた。以後1731年までファルネーゼ家の支配となる。…

【ボルゲーゼ美術館】より

…名門ボルゲーゼ家の収集に由来するルネサンスとバロックの作品を中心に収蔵する。同家出身の教皇パウルス5世(在位1605‐21)と甥のシピオーネScipione枢機卿はともに熱心な美術愛好家で,1613年ローマ市の北のはずれにあるビラ・ボルゲーゼの広大な庭園中に小邸館を建て,一門の収集をここにまとめた。盛期ルネサンスの名作(ラファエロ《キリスト哀悼》,ティツィアーノ《聖愛と俗愛》)を中心に,シピオーネ庇護下の同時代の芸術家の作品(カラバッジョ《ゴリアテの首を持つダビデ》,ベルニーニ《アポロンとダフネ》)をも含む収集は,17世紀末までに古代美術をも加えてさらに豊かになった。…

【バチカン公会議】より

…進歩派は,教皇庁中心主義の保守派に対するこの勝利に続いて,同年12月8日までの第1会期に審議された典礼,啓示,教会等の議案についても,次々と決定的成功を収め,会議の趨勢を教皇の意図した刷新の方向へ導いた。63年6月に登位したパウルス6世も,公会議の主要目的に教会の自己理解の深化とキリスト教諸教派や現代世界との対話を追加し,同年9~12月の第2会期の直前,教皇庁官吏団に服従を要求して教皇庁改革の決意を明示,進歩派を大いに力づけた。しかし,64,65年の第3,第4会期には,保守派の意向も一部取り入れ,変革の勢いを幾分抑えた。…

※「パウルス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」