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パラツキー パラツキー Palacký, František

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

パラツキー
パラツキー
Palacký, František

[生]1798.6.14. モラビア,ホドスラビツェ
[没]1876.5.26. プラハ
オーストリアボヘミアチェコ民族運動指導者。スラブ民族主義の立場から,三月革命の際,フランクフルト国民議会を故意にボイコットし,1848年6月プラハで開かれたスラブ人会議を指導。

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百科事典マイペディアの解説

パラツキー

チェコの歴史家,政治家。1831年民族文化団体〈マチツェ・チェスカー〉の創設に尽力。《ボヘミア・モラビア民族史》5巻(1836年―1867年),《フス戦争史序説》を著してオーストリア帝国治下にあるチェコ人に民族主義自由主義を鼓吹。

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世界大百科事典 第2版の解説

パラツキー【František Palacký】

1798‐1876
モラビア生れのチェコ人歴史家,政治家。ブラティスラバ神学校で牧師,詩人を志したが,チェコ民族覚醒運動にめざめ,プラハに行き,言語学者ドブロフスキーの勧めで,貴族の古文書館で働く。1831年,文化団体〈マティツェ・チェスカーMatice česká〉の創設に尽力した。36年には主著《ボヘミア・モラビア民族史》(ドイツ語版)第1巻を刊行(1867年全5巻完結。チェコ語版1848‐76)。39年にはボヘミア議会の歴史編纂官に任命される。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

パラツキー
ぱらつきー
Frantiek Palack
(1798―1876)

モラビア生まれのチェコ人歴史家、政治家。「民族の父」と称される。ポジョニプレスブルク、現ブラチスラバ)の福音(ふくいん)派学校で学んだが、チェコ民族再生運動に目覚め、プラハに行き、貴族の古文書館の職を得る。その後、身分制議会の歴史編纂(へんさん)官に任命され、大著『チェコ民族史』Djiny nrodu eskho v e chch a v Morav(1848~76)(ドイツ語版Geschichte von Bhmen 1836~67)を書く。オーストリア帝国を諸民族の連邦制に改組するオーストリア・スラブ主義者の推進者として、1848年にプラハで開催されたスラブ民族会議の議長となる。だが、オーストリア政府がスラブ人の平等・自治の要求を無視してハンガリーとの間で二重王国制をとる(1867)と、ロシアの汎(はん)スラブ主義に傾斜した。[稲野 強]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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