パルミラ(英語表記)Palmyra

デジタル大辞泉 「パルミラ」の意味・読み・例文・類語

パルミラ(Palmyra)

シリア中央部、シリア砂漠にあるオアシス都市遺跡アラム語でタドモルといい、ソロモン王が建設したと伝える。2、3世紀にペルシア湾から地中海へ至る中継交易都市として栄えたが、273年にローマ軍に破壊された。1980年、世界遺産文化遺産)に登録。2013年、国内騒乱による破壊などが理由で危機遺産に登録された。パルミュラ

パルミラ(Palmira)

コロンビア南西部、バジェ‐デル‐カウカ県の都市。カリの東約30キロメートル、カウカ川が刻んだ河谷に位置し、タバコサトウキビコーヒー・米などを産する。日系人が居住。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パルミラ」の意味・わかりやすい解説

パルミラ
Palmyra

シリア中部にあるオアシスを中心とした村。ダマスカスの北東約 210km,シリア砂漠の北端に位置する。タドモル Tadmorとも呼ばれる。古代には隊商都市として知られ,住民はアラブ人を中心としたが,言語はアラム語であった。ソロモンが建設したとも伝えられるが,証拠はない。すでに前19世紀の楔形文字の史料に現れる。前3世紀,セレウコス朝時代に興隆の兆しが現れ始め,前1世紀シリアとバビロニアを結ぶ貿易の中継都市として急速に発展した。106年ローマ帝国の支配下に置かれたが,自治を許され,商業活動はいっそう盛んになり,オリエント(→中東)最大の隊商交易の拠点となった。3世紀後半にローマとササン朝ペルシアの対立に乗じて,オデナトゥスとその一族が実権を握り,その妻ゼノビアが独立を宣言,小アジアからエジプトにまたがる隊商帝国を形成するにいたった。そのため 272年ローマのアウレリアヌス帝により滅ぼされた。以後衰退の一途をたどり,アラブに略奪され廃墟と化した。なお,パルミラ人の宗教の発展は重要で,2世紀には「知られざる神」の一神教が行なわれた。今日ではナツメヤシオリーブ果樹園に取り巻かれた村で,イラクキルクーク油田からレバノントリポリへ向かうパイプラインが通っている。ローマ時代の遺跡(→パルミラ遺跡)は今日も残存し,その博物館もある。人口 2万627(1985推計)。

パルミラ
Palmira

コロンビア西部,バイェデルカウカ州南東部の都市。州都カリの東北東約 30km,アンデス山中の肥沃なカウカ谷にあり,標高約 1000m。 1688年建設。古くから農牧業の中心地として発展,現在カリに次ぐ同州第2の都市。タバコ,コーヒー,サトウキビ,イネ,トウモロコシなどの栽培と牧牛が盛んで,「コロンビアの農業首都」といわれ,市内には農事試験場,農業大学などがある。保養地としても知られる。カリその他のカウカ谷の諸都市と鉄道,道路で連絡。人口 18万 5224 (1985) 。

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改訂新版 世界大百科事典 「パルミラ」の意味・わかりやすい解説

パルミラ
Palmira

コロンビア西部,バジェ・デル・カウカ県の都市。大都市域人口29万4805(2005)。1794年にアメリカ資本がタバコ生産を始めるまで一寒村にすぎなかったが,カウカ河谷地帯の開発とともに発展した。このあたりの河谷低地部ではサトウキビ,米,タバコ,トウモロコシなどが栽培されている。なお,ここには1929年以来,少数だが日本人が入植して,大豆,スイカ,花などを栽培し成功している。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パルミラ」の解説

パルミラ
Palmyra

パルミュラとも表記される。1~3世紀にシリア砂漠のオアシスに栄えた隊商都市。パルミラ商人はシリアとメソポタミアを結ぶ交易だけでなく,ペルシア湾からインド北西部へかけての海上でも活躍した。3世紀半ばすぎのゼノビア女王の時代には,シリアを征服しエジプトにまで進出したが,272年アウレリアヌス帝の指揮するローマ軍に敗れ,翌年破壊された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パルミラ」の解説

パルミラ
Palmyra

シリアの古代都市
ローマとササン朝に挟まれて,ユーフラテス川からダマスクスにいたる東西交易の中継地点として2〜3世紀に栄えた。273年,ローマ軍によって破壊された。

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百科事典マイペディア 「パルミラ」の意味・わかりやすい解説

パルミラ

パルミュラ

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世界大百科事典(旧版)内のパルミラの言及

【アウレリアヌス】より

…270年以後皇帝に推挙され,バンダル族やユトゥンギ族の攻勢を退けたが,その際,ローマ市の城壁を再建したことは名高い。さらに,女王ゼノビアの率いるパルミュラを破壊したことは彼の声望を高めた。彼は軍人皇帝時代の数十年に及ぶ混迷期にあって,帝国の統一に統治者としての才能を示したことで〈世界の再建者〉と呼ばれた。…

【アラブ】より

… 南アラブは前8世紀のころから一連の古代南アラビア王国を建設したが,その繁栄の基礎は灌漑農業と遠隔地通商にあり,のちのアラビア文字とは異なる独特の文字で記した多くの碑文を残している。北アラブはシリア砂漠を包む広い地域で遊牧生活を送り,ヘレニズム時代にはナバテア,パルミュラの両王国を建設し,ともにアラム文字で記した碑文を残している。4世紀に南アラブの国家と社会は崩壊し,南アラブの一部は遊牧民となって北方への移住を余儀なくされた。…

【シリア】より

…また,海面下の地溝では局地的に熱帯性気候が見られ,川沿いの緑と周囲の茶褐色の山肌とが著しい対照をつくり出す。その東側は遊牧民と隊商都市(パルミュラ,ダマスクス,ボストラ,ペトラ,ゲラサ)の世界であった。そこと海岸部,とくにフェニキアの海港都市とは,山間の道路網で結ばれていた。…

【パルティア美術】より

…狭義のパルティア美術はこの後期のものを指すが,その本質は〈グレコ・イラン的〉,〈グレコ・オリエンタル〉などと規定されている。パルティア美術は従来,ギリシア美術の堕落した形式とみなされていたが,シリアのドゥラ・ユーロポスパルミュラの発掘研究が進展した1930年以降は,別の価値観,イデオロギーに基づく独自の意義を持った美術として再評価されるに至った。 イラン系(後期)の美術は,ほぼ次のような特色を有する。…

※「パルミラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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