ドイツの劇作家,自然科学者。ヘッセン州ダルムシュタット近郊の医者の息子。1831年,医学と自然科学を学ぶため,シュトラスブルク大学に入学,革命的雰囲気とさまざまな思想に触れる。2年後,ヘッセンのギーセン大学に移り,34年ギーセンに革命的秘密結社〈人権協会〉を設立,農民に政府打倒の決起を促す文書《ヘッセンの急使Der hessische Landbote》を起草する(プロテスタントの牧師ワイディヒが修正。その正確な範囲は確定できないため,本文書を用いて起草者の革命観に言及する際には,とくに慎重さが要求される)。革命運動の失敗後,翌35年シュトラスブルクへ逃走。この直前に生まれた作品が,悲劇《ダントンの死Dantons Tod》(生前に発表された唯一の作品)で,革命家と並んで民衆が鮮明な輪郭をもって描かれている。ビュヒナーは逃亡後,哲学の研究にも意欲を燃やすが,36年秋チューリヒ大学の解剖学の私講師となる。翌37年2月チフスにかかり,シュルツ夫妻の看護のかいもなく23歳の若さで急逝した。
彼はシェークスピアを文学の師と仰いだ。ドイツを去ったのちの作品として,シュトゥルム・ウント・ドラングの作家J.M.R.レンツの狂気を扱った短編《レンツ》(1836成立,39刊),倦怠と機知と風刺の喜劇《レオーンスとレーナ》(1836),ドイツの社会悲劇において名もない人間を初めて主人公とした《ウォイツェクWoyzeck》(1836成立,79刊,未完。のちA.ベルクのオペラ《ウォツェック》の台本となる)がある。文学史上どの流派にも収まらないビュヒナーは,今日,多くの作家をひきつけているが,死後50年ほどはほとんど無名であった。自然主義と表現主義の作家はそれぞれ彼を先駆者とみなした。《ダントンの死》の初演は1902年,《ウォイツェク》は13年である。23年には彼を記念してビュヒナー賞が設けられ,今日に至っている。79年,ビュヒナー協会が設立された。日本での初訳は,1928年の《ダントンの死》である。
執筆者:森 光昭
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ドイツの劇作家、小説家、解剖学者。ヘッセン大公領の高級医官の子としてダルムシュタット近郊に生まれる。1830年の7月革命後、フランスのストラスブール大学で2年間医学、解剖学を学び、革命運動にも深い関心をもった。ドイツのギーセン大学に移り、後進国ドイツの民衆の窮乏を座視できず、非合法の革命運動を組織、革命の主勢力とみなす農民にあてて『ヘッセンの急使』(1834)を書く。これはマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』(1848)以前のもっとも先鋭な政治パンフレットといわれる。革命運動が発覚、逃走の費用をつくるために戯曲『ダントンの死』(1835)を執筆、ストラスブールに亡命。解剖学、哲学の研究に没頭するかたわら、小説『レンツ』(1836未完、1839刊)、戯曲『レオンスとレーナ』(1836)、『ウォイツェック』(1836未完、1879刊)などを創作する。学位論文『似鯉(にごい)の神経系』が認められ、スイスのチューリヒ大学に解剖学講師として迎えられたが、まもなくチフスのため2月19日23歳の若さで病死。その文学は20世紀初頭あたりからその真価が認められ、ことに痛烈な無神論や鋭い革命観、実存感覚や戯曲の開かれた形式などによって、ハウプトマン、ブレヒト、その他多くの現代作家に深い影響を及ぼす。
[中村英雄]
『手塚富雄・千田是也・岩淵達治監修『ゲオルク・ビューヒナー全集』全1巻(1970/新装版・2006・河出書房新社)』
ドイツの医師、哲学者。劇作家ゲオルク・ビュヒナーの弟。科学的唯物論の立場から多数の科学啓蒙(けいもう)書を著し、とくに主著『力と物質』Kraft und Stoff(1855)は唯物論のバイブルと目されて各国語に翻訳された。科学の基礎をエネルギー保存則に求め、それに進化論を取り入れた物質一元論の自然観にたつ。実在の本質規定は物理的な力にあり、その力の相互作用を表す自然法則は、人間の行為をも含めていっさいの現象を支配する、と説く。したがって、精神や生命の独自性を否定し、倫理学においても強い決定論の立場をとった。
[野家啓一 2015年3月19日]
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…33年4月には学生,知識人,職人,亡命ポーランド将校らがフランクフルト・アム・マインの衛兵所を襲撃し,軍によってただちに鎮圧されたが,それらの事態を前に,オーストリア,プロイセン,ロシアは神聖同盟を更新して政治的弾圧を強化することになった。34年には,詩人G.ビュヒナーと牧師ワイディヒFriedrich Ludwig Weidig(1791‐1837)がビラとパンフレットによる体制批判の活動を続け,《ヘッセンの急使》を刊行したが,ワイディヒは逮捕され,国際的警察網と検閲の強化の前に,以後40年までドイツ国内における公然たる反体制運動は影をひそめた。 以後その運動はドイツ国外で,とりわけパリとスイスで続けられることとなった。…
…G.ビュヒナー原作,A.ベルク作曲による20世紀オペラの傑作の一つ。ベルクは1914年にビュヒナーのドラマ《ウォイツェックWoyzeck》の上演に接し,ビュヒナーの原作をもとにみずから台本を作成して作曲を開始し,ベルクの最初のオペラ作品として,1925年12月14日にベルリン国立歌劇場で初演された。…
…19世紀に入って,ユゴーの《エルナニ》(1830)に代表されるフランス・ロマン主義演劇や北欧など小国の民族的ロマン主義の演劇も,韻文形式や歴史的題材のためリアリズムに逆行するようにみえるが,伝統打破の反逆精神によって〈近代劇〉を用意する一つの土壌をつくったことは否定できない。 だが今日からみて,近代劇の先取りとすべきは,社会問題意識や人間心理の洞察の深さにもかかわらず,当時は世に認められなかったドイツのJ.M.R.レンツ,H.vonクライスト,G.ビュヒナー,フランスのL.C.A.deミュッセ,P.メリメなどであろう。とくに夭逝したビュヒナーの《ウォイツェック》は19世紀後半に原稿が発見され,下層民を主人公とした自然主義の先駆作品として評価されたが,もう一つの《ダントンの死》とともに,20世紀になってからは現代演劇の先取りともみなされてくる。…
…19世紀の後半にドイツ文化圏で流行したある種の唯物論に対する蔑称。フォークトKarl Vogt(1817‐95),J.モーレスコット,L.ビュヒナーなどの立場を指す。この立場は一種の科学主義的唯物論であり,広義には機械論的唯物論に属するが,18世紀のフランス唯物論がもっぱら物理学的な知見に立脚したのに対して,生理学的な知見に定位し,さらにはダーウィン流の進化論と結合したところに特質がある。…
※「ビュヒナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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