改訂新版 世界大百科事典 「フス派戦争」の意味・わかりやすい解説
フス派戦争 (フスはせんそう)
ボヘミアのフス派教徒の反乱(1419-36)。宗教改革者フスが1415年にコンスタンツで処刑されたのち,ボヘミア全土は教会改革の波に洗われた。19年7月,プラハで急進的な司祭ジェリフスキーに率いられたフス派の示威行進が行われたさい,彼らは市庁舎を襲い,市参事会議員,聖職者らを庁舎の窓から放り出した。国王バーツラフ4世はこの事件に衝撃を受け,卒中で死亡。ハプスブルク家の皇帝ジギスムントが跡を継ぐが,フスの焚刑を彼の責任とするフス派は,彼の即位を認めなかった。そのためジギスムントは教皇マルティヌス5世の勅書を受けて,フス派討伐の十字軍をボヘミアに差し向けたが,軍事指導者ジシュカに率いられたフス派軍はプラハ郊外のビトコフVitkovの丘で十字軍を粉砕した(1420年7月)。
フス派には,大別して南ボヘミアの城砦都市タボルを拠点として終末論的信仰をもち,農民,職人,下層騎士から成る急進的なタボル派と,平信徒も聖杯をもつことを主張した,プラハの都市貴族,大学を中心としたいわゆるウトラキスト派Utrakvistéまたはカリックス派Kališníceと呼ばれる穏健な改良主義者の2派があった。1420年,ウトラキスト派の指導者ロキツアナJan Rokycana(1397以前-1471)は,(1)神のことばの自由な説教,(2)平信徒によるパンとブドウ酒の両形色における聖体拝領,(3)聖職者の無一物の使徒的生活と道徳的高潔さ,(4)当局による大罪を犯した者に対する処罰(〈プラハの4ヵ条〉)を提示し,カトリック教会と交渉しようとしたのに対し,タボル派は,教会組織を拒否し,厳格な規律による財産共有制をとり,武器をもって神の王国を建設することをめざした。両派の最終日標は異なってはいたが,カトリック・ドイツ的な支配に対する闘争においては,当面一致していた。
フス派軍は1422年にはクトナー・ホラKutná Horaの戦で勝利し,24年のマレショフMalešovの戦ののち,タボル派が政治的・軍治的主導権を握った。24年ジシュカがチフスで死ぬと,プロコプProkop Holy(?-1434)が首領に選ばれ,26年にはウースチー・ナド・ラベム,31年にはドマジュリツェと,次々に繰り出されてくる十字軍をことごとく打ち破った。1427年以降は,フス派軍はボヘミアに隣接するドイツ,ポーランド,スロバキアなどに外征し,数多くの教会,領主の城館を破壊した。33年,バーゼル公会議は,平信徒の聖杯を認め,フス派に妥協的態度を示したが,これはフス派の内部分裂を促進させた。ウトラキスト派は,徹底的な現状破壊をめざすタボル派を打倒すべく,教会と連合した。34年,タボル派はウトラキスト派・教会連合軍にプラハ東方のリパニで敗れ,指導官のプロコプも戦死した。36年7月,バーゼル公会議で,ウトラキスト派と教会の間で和平交渉が行われ,ウトラキスト派の諸要求はほぼ全面的に認められることになった。
この戦争は,フスの宗教改革と並んで,チェコ史上最も輝かしいできごとであるが,19世紀のチェコ・ナショナリズムの高揚期には,チェコ民族の精神的支柱とされ,ドイツ人に対する民族的闘争の側面が強調されたのに対し,第2次大戦後のチェコスロバキア史学では,もっぱら反封建闘争の側面が強調されている。
執筆者:稲野 強
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報