フランツ(その他表記)Franz

デジタル大辞泉 「フランツ」の意味・読み・例文・類語

フランツ(Franz)

(2世)[1768~1835]神聖ローマ帝国最後の皇帝。在位1792~1806。フランス革命からナポレオン戦争にわたる激動の時代に在位。オーストリア皇帝(フランツ1世、在位1804~1835)となり、1806年、ナポレオンライン同盟政策による圧迫を受けて神聖ローマ帝国を解体。
(~ Joseph)(1世)[1830~1916]オーストリア皇帝。在位1848~1916。1867年オーストリアハンガリー帝国を成立させ、ハンガリー国王を兼任。バルカン問題でロシアと対立し、第一次大戦口火を切った。大戦中に没。フランツ=ヨーゼフ。フェレンツ=ヨージェフ
(~ Ferdinand)[1864~1914]オーストリア皇太子おい。1914年6月、妃ゾフィーとともにボスニアサラエボでセルビア青年に暗殺され、これが第一次大戦のきっかけとなった。フランツ=フェルディナント。→サラエボ事件

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精選版 日本国語大辞典 「フランツ」の意味・読み・例文・類語

フランツ

  1. [ 一 ] ( Franz II ) 二世。神聖ローマ帝国、最後の皇帝(在位一七九二‐一八〇六)。オーストリア皇帝としてはフランツ一世(在位一八〇四‐三五)。レオポルド二世の子。ナポレオン一世に敗れて神聖ローマ帝国を解体させられたが、ウィーン会議を主宰して旧領を回復し、旧体制保守の政治を行なった。(一七六八‐一八三五
  2. [ 二 ] ( Franz Ferdinand ) オーストリア皇太子。皇帝フランツ=ヨーゼフ一世の甥。一九一四年六月二八日サラエボでセルビア人に暗殺された。この事件が第一次世界大戦勃発の契機となった。(一八六三‐一九一四
  3. [ 三 ] ( Franz Joseph I ) 一世。オーストリア皇帝(在位一八四八‐一九一六)。ハンガリーの反乱を鎮圧。一八六六年には普墺戦争に敗れ、翌年オーストリア‐ハンガリー帝国を成立させた。のち、ドイツと結んで汎ゲルマン主義を強行してロシアと対立し、第一次世界大戦の口火を切った。その皇后や皇太子は次々と暗殺された。(一八三〇‐一九一六
  4. [ 四 ] ( Robert Franz ロベルト━ ) ドイツの作曲家。一八四三年シューマンに認められて最初のリートを出版。以後、約三五〇曲のリートを残した。(一八一五‐九二

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百科事典マイペディア 「フランツ」の意味・わかりやすい解説

フランツ[2世]【フランツ】

最後の神聖ローマ皇帝(在位1792年―1806年)。レオポルト2世の子。ナポレオン1世に敗れて1806年神聖ローマ帝国は解体した。1804年以後はオーストリア皇帝(フランツ1世)と称した。1813年以後対仏大同盟に参加。メッテルニヒに執政をゆだねてウィーン会議を主宰,神聖同盟を結んで反動的政策を行った。
→関連項目カール[大公]ハプスブルク[家]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランツ」の意味・わかりやすい解説

フランツ(2世)
ふらんつ
Franz Ⅱ
(1768―1835)

神聖ローマ帝国最後の皇帝(在位1792~1806)。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804~35)。レオポルト2世の子。強固な絶対主義的政治信念のもと、フランス革命といっさいの革新に反対してヨーロッパ反動勢力の主柱となった。ポーランド分割によってポーランドを滅亡させ、1804年ハプスブルク家の新旧領地を統合してオーストリア帝国を創建した。他方、対仏大同盟に参加してナポレオン1世に対抗したが敗れ(アウステルリッツの戦い)、南西ドイツ諸国がライン同盟を結んでナポレオンの保護下に入るに及び、06年神聖ローマ帝国解体を宣言して、帝位を退いた。10年皇女マリ・ルイーズをナポレオン1世に与えて一時対仏関係を鎮静させ、メッテルニヒとともに再起を目ざした。ウィーン会議以降は正統主義の原則のもと、15年の神聖同盟、ついで18年に結成された五国同盟の一員として、王政復古後の現状維持に努めた。

[岡崎勝世]


フランツ
ふらんつ
Robert Franz
(1815―1892)

ドイツ・ロマン派のリート作曲家。ハレの一般市民の子として生まれる。毎晩父が歌うプロテスタント教会コラール(賛美歌)を聴いて育ち、母からピアノの手ほどきを受けたのが少年期の唯一の音楽教育だった。デッサウの音楽家シュナイダーのもとで2年間音楽理論を学ぶが、結局故郷に帰り、バッハヘンデルシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンの作品を研究しながら独学で音楽を修めた。1841年ハレのウルリヒ教会のオルガン奏者、翌年同市ジングアカデミー合唱団の指揮者、59年大学音楽監督となり、おりからドイツで盛んになったバッハ復興運動の中心人物となった。43年には最初の歌曲集が出版され、生涯に350曲を超える歌曲を書いた作曲家としての当時の評価の高さは、リストが彼の評伝(1872)を書くほどの崇拝ぶりからもうかがえる。

[樋口隆一]

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改訂新版 世界大百科事典 「フランツ」の意味・わかりやすい解説

フランツ
Robert Franz
生没年:1815-92

ドイツ・ロマン派のリート作曲家。1841年生地ハレの教会オルガン奏者,翌年同地のジングアカデミーの指揮者に就任。43年最初のリート集を発表。59年からハレ大学音楽監督も務める。J.S.バッハやヘンデルの音楽に傾倒し,編曲などを手がけ,それは彼のリートの作風にも影響している。代表的な歌曲集に《おやすみGute Nacht》を含む《十二の歌曲》(1846),《静かな確信Stille Sicherheit》を含む《六つの歌曲》(1860)などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランツ」の意味・わかりやすい解説

フランツ
Franz, Robert

[生]1815.6.28. ハレ
[没]1892.10.24. ハレ
ドイツの作曲家。本名 Franz Knauth。 F.シュナイダーに師事し,1841年にハレの教会のオルガン奏者,42年にジングアカデミーの指揮者となった。 43年に発表した歌集『12の歌』は,シューマン,リストによって好まれ,リストはフランツの曲をピアノ用に編曲した。 67年に聴力を失い,幻覚に悩まされて職を辞し,晩年は J.S.バッハ,ヘンデル,モーツァルト,シューベルトなどの作品を編曲した。主作品は『嵐の夜』『ばらの嘆き』など約 350の歌曲。

フランツ
Frantz, Konstantin

[生]1817.9.12. ベルネッケ
[没]1891.5.2. ドレスデン
ドイツの国家学者,政治評論家。 1856年プロシアの外務省官吏を解職され,プロシア主義の政策を批判し,ドイツ問題はヨーロッパ連邦の実現によって解決されると主唱。また生物学的見地から一種の国家有機体説を唱えた。主著『ドイツの再興』 Wiederherstellung Deutschlands (1865) ,『連邦主義』 Der Föderalismus (79) ,『世界政策』 Die Weltpolitik (3巻,82~83) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「フランツ」の解説

フランツ(2世)
Franz Ⅱ

1768〜1835
最後の神聖ローマ皇帝(在位1792〜1806)。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804〜35)
ナポレオン1世の圧迫を受けて神聖ローマ帝国の解体を宣した。娘マリ=ルイーズをナポレオンと政略結婚させたが,ウィーン会議で旧領を復し,メッテルニヒを用いて反動政治を行った。

フランツ(1世)

フランツ(2世)

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世界大百科事典(旧版)内のフランツの言及

【ハプスブルク家】より

…しかしプロイセンのフリードリヒ2世大王がシュレジエンを占領,バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが相続権を主張すると,マリア・テレジアは40年オーストリア継承戦争に直面する。45年ドレスデン和約で,シュレジエンを失うが,世襲領の相続とともに夫フランツ1世Franz I(神聖ローマ皇帝,在位1745‐65)に皇帝位を確保した。戦後は軍・行財政など国内改革を進め,外交でも数世紀にわたって敵対関係にあったフランスとの同盟を成功させ,プロイセンの孤立化を図り,七年戦争ではロシアとともにフリードリヒ2世を苦しめたが,シュレジエンの奪回には失敗した。…

【フランツ[2世]】より

…在位1792‐1806年。オーストリア皇帝としてはフランツ1世(在位1804‐35)。神聖ローマ皇帝レオポルト2世の長男。…

【マリア・テレジア】より

…神聖ローマ皇帝カール6世の長女。ロートリンゲン公フランツ・シュテファンと恋愛結婚する。父の死後プラグマティッシェ・ザンクツィオンPragmatische Sanktionにより1740年に全ハプスブルク世襲領を一括相続するが,プロイセンのフリードリヒ2世のシュレジエン占領とバイエルン選帝侯カール・アルバートの相続要求によりオーストリア継承戦争に直面し,ハンガリー貴族の特権を認めて援助を受け,イギリス,オランダの支援をも得て,45年ドレスデンに和約を結ぶ。…

※「フランツ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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