ブラーム
Otto Brahm
生没年:1856-1912
ドイツの革新的な演劇指導者,劇評家。本名アブラハムOtto Abraham。ベルリン大学その他でドイツ語学,文学を専攻し,1879年からジャーナリズム畑に進み,81年以降《フォス新聞》その他に劇評を執筆。A.アントアーヌの自由劇場の活動に刺激され,89年,ベルリンに検閲と営利に縛られず,現代向きの演劇の上演を目的とする演劇団体〈自由劇場(自由舞台)Freie Bühne〉が設立されると,彼はその組織の長に選出された。94年から1904年まで〈ドイツ座〉が常打劇場に決まると,その監督も兼ねた。みずから演出にあたるというよりも,彼の関心はむしろ,有望な新人のスカウト(その一人がM.ラインハルト),演目の選定,舞台におけるチーム・ワークの形成に向けられ,〈厳密にせりふに即して〉を舞台表現のモットーとした。このモットーは問題性をはらむ写実的な劇にしばしば効果的だったが,奔放なイメージを舞台に横溢させるには束縛となり,やがてラインハルトにとって代わられ,晩年のレッシング座の仕事にも新味はなかった。
→自由劇場
執筆者:小宮 曠三
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ブラーム
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Otto Brahm
(1856―1912)
ドイツの演劇改革者。ハンブルグに生まれる。大学でドイツ文学を修め、編集者、劇評家として活動していた。1889年にフランスのアントアーヌの例に倣って、数人の同志とベルリンに会員組織の自由舞台を設立し、イプセンの『幽霊』やハウプトマンの『日の出前』をマチネー形式で上演した。94年にドイツ座の監督となり、自らは演出しなかったが、演出を重視し、自然主義的な演技様式を徹底化したアンサンブルをつくりあげた。俳優として契約したラインハルトが、新ロマン主義、印象主義的な時流にのる演出家として有名になると、彼に監督の座を譲り、1905年にレッシング座の監督となった。自然らしさを重んじ劇的なものを排除した禁欲的な態度は、ラインハルトと対照的であった。
[岩淵達治]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ブラーム
Brahm, Otto
[生]1856.2.5. ハンブルク
[没]1912.11.28. ベルリン
ドイツの文芸批評家,演出家。本名 Abrahamsoh。 A.アントアーヌの自由劇場に刺激され,1889年劇団フライエ・ビューネを結成。自然主義演劇の発展に貢献した。 H.イプセンの『幽霊』,G.ハウプトマンの『日の出前』などを上演。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のブラームの言及
【自由劇場】より
…19世紀後半のフランスは,商業主義に基づいたスター中心主義,[ウェルメード・プレー](いかにも〈お芝居〉らしく巧みに作られた作品)全盛の時代であったが,そのような演劇への根源的レベルでの反抗として,そしてまた,時代の有力な文学上の思潮であった[自然主義]の影響下に,アントアーヌを一人の媒介者として生まれ出たのがこの自由劇場であった。 この運動とそこに含まれる精神は,すぐにヨーロッパ各国に波及して,オットー・[ブラーム]の〈自由舞台〉(ドイツ),グラインJacob Thomas Grein(1862‐1935)の〈独立劇場Independent Theatre〉(イギリス)など,同様の演劇的精神(とまた類似の名称)をもったいくつかの劇場も生まれたので,広義にはこれらの劇場を拠点とした演劇運動も含めて〈自由劇場運動〉と呼ぶ場合も多い。 いずれにせよ,この流れはいわゆる[近代劇]の勃興・発展の中核をなすものであり,そのような視座からとらえれば,[モスクワ芸術座]にせよ,アイルランドの[アベー座]にせよ,あるいはさらなる派生としての日本の〈自由劇場〉にせよ,すべて同じ一つの歴史的潮流として展望することが可能であろう。…
※「ブラーム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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