第二次世界大戦後、日本を占領統治した連合国最高司令官総司令部(GHQ)が1945年(昭和20)9月19日、日本政府に発した「日本に与える新聞遵則に関する覚書」Memorandum concerning Press Code for Japan(最高司令官指令番号〔SCAPIN〕33)の略称。GHQはこれより先「言論および新聞の自由に関する覚書」(9月10日付け)で占領下の日本のマス・メディアの一般的な行動基準を示し、事後検閲を開始しているが、プレス・コードはその行動基準を新聞、出版についてより具体的に示したもの。10か条からなり、公安を害する事項、連合国・占領軍に対する破壊的批評、宣伝的報道などを禁止した。10月9日からは主要新聞・雑誌がこれに基づく事前検閲を受けた(雑誌は47年11月、新聞は48年7月から事後検閲に戻る)。検閲はGHQの軍事作戦担当の参謀第二部(G2)所属の民間諜報(ちょうほう)局(CIS)民間検閲部(CCD)が実施した。検閲で処分された記事は、占領初期は連合国・占領軍に「有害」な記事が大部分であったが、46年中期以後の米ソ冷戦期にはアメリカの反ソ政策が対日占領政策にも反映し、検閲にも共産主義排除が導入された。プレス・コード違反は占領軍命令違反として軍事裁判に付された。一般紙で最初の事例は48年5月27日付け『日刊スポーツ』の「米国の裸体ショー」の記事。編集長が重労働1年(執行猶予)、罰金7万5000円の刑を受けた。52年4月28日、対日講和条約発効により失効。ほぼ同趣旨の「ラジオ・コード」が45年9月22日発せられている。
[内川芳美]
『松浦総三著『占領下の言論弾圧』増補決定版(1974・現代ジャーナリズム出版会)』▽『内川芳美・新井直之編『日本のジャーナリズム』(1983・有斐閣)』
1945年9月19日GHQ(占領軍総司令部)から発せられた覚書で,正式名称は〈日本に与うる新聞遵則〉。10項目から成り,内容は,一方でニュースは真実でなければならぬ,事実に即し意見は払拭しなければならぬ,宣伝の意図を含んではならぬ,歪曲してはならぬ,としながら,他方では公共の安寧を乱す事項の禁止,連合国に対する破壊的批判の禁止,発表されない連合国軍の動静の報道の禁止などの項目を含む。同22日にはほぼ同趣旨の〈日本に与うる放送遵則〉(ラジオ・コード)も発せられた。総司令部は同29日〈新聞・映画・通信に対する一切の制限法令を撤廃の件〉を指令し,戦争中のいっさいの法令を廃止させたので,以後6年半にわたる占領期間中を通じてこのプレス・コードとラジオ・コードが日本のマス・メディアを支配したほとんど唯一の言論統制法規であった。実際にプレス・コード違反として軍事裁判で有罪とされたのは,48年の《日刊スポーツ》事件,49年の《連合通信》事件,《大阪民報》事件ぐらいだが,〈プレス・コード違反の疑い〉は第2次読売争議,レッドパージなど労働運動弾圧の口実として乱用された。
執筆者:新井 直之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第2次大戦後のGHQによる新聞・出版検閲の基準の略称。正称は「日本ノ新聞準則ニ関スル覚書」。1945年(昭和20)9月19日付覚書。GHQはこの覚書を根拠に10月から検閲業務を開始。当初は連合国に不利な記述,超国家主義・軍国主義的記述の排除に適用されたが,翌年春頃からはアメリカの政策転換にともない共産主義排除にも適用された。48年10月に検閲は廃止。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新